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第11話
桜が散り、春の終わりが近付いてきた頃。一条要は死のうとしていた。人に言ったら「そんなことで」と言われるような小さな出来事が原因で、だ。
要は昔から文字を書くのが好きな人間だった。その反面、人付き合いは苦手だったが。面と向かって会話をするのは苦手でも、文字に表すと自分の気持ちを素直に表現出来た。どんな世界だって作り上げることが出来た。
文字を綴るのが楽しい。一生このまま文字の波に揺蕩っていたい。そう願って小説を書き続けた要は、両親の反対を押し切って小説家になった。脳内に溢れる言葉の洪水は止まることなく、書いても書いても溢れてくる。
一冊、二冊と小説を世に生み出すのに比例して人気も上がり、そこそこ売れっ子と呼ばれ始めた頃。
急になんの前触れもなく、文章を綴れなくなってしまったのだ。
所謂、誰にでも訪れるスランプと呼ばれる現象なのだろうが、要がスランプに陥ったのは初めてのことだった。なにか書かなくてはと思うのに書けない。パソコンと向き合っても指が動かない。たった一文字すら書けない。
そんな日々が一週間続いて、泣いて、吐いて、頭を掻きむしった要が出した結論は自殺だった。
大袈裟だと思うなかれ、文字を綴ることを生き甲斐にしていた要にとってスランプはまさに地獄そのものだったのだ。
きっと自分はもう自分の中にある全ての文字を書き切ってしまったのだと、要は結論付けた。もうこれ以上文字を生み出せないなら、死んでしまっても構わない。小説を書けない自分に価値なんてないのだ。今まで、小説を書くことでしか自分を肯定出来なかった。人付き合いも他の取り柄もない自分が生きていたって仕方がない。他人が聞いたら笑うだろうが、要は本気でそう思っていた。
死ぬと決めたら次に考えなくちゃいけないのは死に方だ。首吊りは部屋を事故物件にするのが忍びない。飛び降りは誰かを巻き込むのが恐ろしい。心を病んだ要だが、死に方を真面目に思案するだけの理性は残っていた。
結局、どうせ死ぬならせめて綺麗な場所であまり人に迷惑をかけずに死にたい。そう考えた要は、自分の住む町から少し離れた港町に向かうことにした。懐の広い海ならば、何の役にも立たない自分でも受け入れてくれる気がしたのだ。
そうと決めれば早速行動しよう。死に方を考えすぎて朝になっていたので、そのまま徹夜で死に場所に向かうことにした。電車に乗ること一時間。要は終生の場所である海鳴町へと辿り着いた。選んだ理由は特にない。ただ「海 綺麗」で調べた時に真っ先に出てきただけだ。スマートフォンのナビに導かれるまま町の端にある人気のない岬に向かう。幸いなことに立ち入り禁止の表示は無かった。獣道は予想状に荒れていて引き篭もりには辛い道のりだったが、これが最後だと思って体力を振り絞って歩いた。
運動不足のせいで汗がだらだらと流れる。そのせいでかけていた眼鏡もすぐにずり落ちてしまうので、鬱陶しくなった要は眼鏡を外して山道を登った。ぼやける視界で見知らぬ道を進むのは自殺行為だと思ったが、そもそも死ぬために来たのだ。今更問題ない。
なんとか無事に辿り着いた岬は予想以上に海面と地面の高低差があり、この高さなら間違いなく死ねると嫌な確信を得た。だが、恐怖は無い。要にとって小説を書けなくなること以上に恐ろしいことなど存在しないのだ。
さぁ、いざ飛ぼう。いつ飛んでも結果が同じなら迷うだけ無駄だ。そう思った瞬間、要の背後から声が響いた。
「どうしたの、お兄さん」
振り返ると、半袖のシャツを身に付けた男性が立っていた。青年にも少年にも見える中世的な男性は、潮風に黒髪を揺らしている。ぼやけた視界であっても彼は綺麗な人に見えた。だが、目を凝らすと男性の右目を覆い隠す眼帯や腕に巻かれた包帯が目に付き、その痛々しさに死のうしていたことすらも一瞬どこかに飛んでいってしまった。
「え、あ……」
「迷子? 熱中症? 飲み物いる?」
歩み寄って来た男性の左頬は腫れていた。輪郭が不自然に歪んでいる。なのに男性があまりにも平気な顔をしているから、余計に痛々しさが目立ってしまっていた。
要は暴力を文章で描くことはあっても、目の前で実際に見たりこうやって暴力の痕跡に触れることはなかった。故に男性の顔を直視出来ない。目を逸らして、作り笑いを浮かべた。
「だ、大丈夫です」
「そう? ここは危ないから気をつけた方がいいよ」
男性は傍目にも失礼な要の態度にも気にした素振りを見せず、ぼんやりと海を眺めている。
「あの、あなたはどうしてここに……?」
「海が見たかったから」
端的な返答に、首を捻った。
海が見たいならば、こんな岬まで登らなくとも見えるはずだ。実際、要は岬までの道中に海水浴場らしき砂浜と海を見た。
怪訝な顔を隠しもしない要に、槙はふっと笑う。
「綺麗でしょ、ここの海。砂浜から見るのもいいけど、俺はここから見るのが一番綺麗に見えるんだ」
ほら、おいで。そう言って手招きをされる。要は素直に男性の誘いに従って、彼の横まで足を進めた。
ざあ、と強い風が吹いて潮の匂いが鼻腔を満たす。太陽の光を受け止めた海面はきらきらと宝石のように輝いて、どこまでも広がっている。
本で読んで、海の広さは知っていた。けれども、実際に目にしてみると自分が想像していた海はよほどちっぽけだったのだと思い知らされた。
「お兄さんは海、好き? 俺はここの町に来るまで見たことなかったんだけど」
男性に話しかけられたことで、ハッと我に返る。
夢中で海を眺め、あまつさえ文章に表すならどんな言葉だろうと考えてしまっていた。職業病とはいえ死にに来ておいて今更未練がましく小説のことを考えるなんて。考えたってパソコンを前にしたら言葉など何も思い付かなくなってしまうというのに。
男性と海のおかげで前向きになっていた気持ちが萎んでいく。要がひっそり自己嫌悪に陥っている中、男性は半ば独り言のように呟いた。
「海を見てると、まだ生きていたいって思うんだよね」
それは、何気なく口から出た言葉のような気軽さを持っているのに、ひどく重たく感じる言葉だった。
その言葉を聞いた時の衝撃だけは、今でも言葉で表すことが出来ていない。だけど、男性の言葉は死のうとしていた一人の人間を止めるほどの威力があった。死のうとしていた自分を恥じるのでもなく、男性を哀れむのでもなく、ただただ要は男性の言葉を心に焼き付けた。
遠くを見つめたまま、男性は笑う。照れたような、嘲笑にも見えるような、複雑な笑いだった。だけどその正負が入り混じった表情があまりにも切なげで、美しくて、要は口を開けたまま見入ってしまった。眼鏡をしていなかったことがひどく悔やまれる。
それでも、その表情を見た瞬間、要は自分の体の内側から創作意欲が湧き出すのを感じた。
書きたい。彼の言葉を、表情を紙の上に残したい。
あんなにどれだけ必死に言葉を探しても見つからなかったのに、今は脳内で次々と言葉が溢れてくる。生きている実感で体が満ちる。
早く、早く小説を綴りたい。今ならば寝食も忘れて没頭出来るはずだ。
気が付けば、あんなに死にたいと思っていた気持ちはすっかり消え失せてしまっていた。
「あの、ありがとうございます!」
急にお礼を言い出した不審な要に、青年は不思議そうにしながらも「どういたしまして」と曖昧に返事をする。
さて、この創作意欲が消えぬうちに急いで帰ろう。そう思ったところで、どうせ死ぬからと適当に登ってきたことを思い出した。後ろを振り返るも、似たような木が並ぶばかりで町に降りる道が分からない。要は気まずそうに頬を掻いた。
「……ところで、帰り道って分かりますか?」
「やっぱり迷子なんじゃん」
こっち、と手首を掴まれて引かれる。いきなり触れられたのにも関わらず、嫌だとは思わなかった。寧ろ成人男性にしては低い体温が心地よく感じられる。その低い体温が、要の心に火を付けた。
どくどくと激しく脈打つ心臓が痛い。顔に熱が集まって、倒れてしまいそうだった。彼の笑顔が忘れられなくて、ぐるぐると脳内を巡る。
その時はまだ、この感情が創作意欲によるアドレナリンだと思っていた。だが、家に帰っても熱は治まらず、もしやこれが俗に言う一目惚れだと気が付いたのは、書き始めた小説のヒロインがどうやっても名前も知らない男性に似てしまうと悩み始めてからだった。
あの日、要は槙に密かに救われ、心をまるごと奪われた。
そして要は、また槙に会う為に引っ越しを決意したのだった。結局、引っ越しが出来たのは仕事が落ち着いた一年後になってしまったのだが。
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