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第10話
「先生、見て。ちっちゃいカニ」
「えっ、ゆ、指挟まれますよ⁉︎」
「平気」
翌週、槙は宣言通り要を連れて海に来ていた。
海といっても泳ぐわけではなく、ただ浅瀬をちゃぷちゃぷ歩いているだけだ。それでも槙は十分楽しかったし、要も楽しそうにしてくれている。特に要は今まであまり海を見たことがないらしく、槙が生き物を捕まえて見せると面白いくらいに驚いてくれるのだ。
槙はつまんでいたイソガニを地面に放してやり、鞄からタオルを取り出すと要に向かって放り投げた。
「先生、汗すごいよ」
「すみません。ありがとうございます」
海沿いの風は町の中心に比べたら幾分か涼しいが、それでも間に合わないほど八月の太陽は容赦なく照り付けてくる。タオルをもう一つ取り出して、槙も自分の額を拭った。
肩までかかる髪を風に遊ばせて涼んでいると、不意に要が眩しそうに目を細めた。視線の先では、槙の銀髪がきらきらと踊っている。
「槙さんの髪は綺麗ですねぇ」
「……そう? ありがとう」
「自分で染めてるんですか?」
「ううん。友達が染めてくれてる」
槙の言葉に、要はぽかんと口を開けた。そんなに変なことは言っていないはずなのに、その反応はなんなのだろう。
槙はむっと眉を寄せて要を睨んだ。
「なにその顔」
つん、と要の頬をつついてやる。一回ではもやもやした気持ちが晴れないので何度もつついてやった。
槙にされるがままだった要は、慎重に言葉を選んだ様子で呟いた。
「あの。槙さんって友達いたんですか……?」
「わりと失礼じゃない? それ」
失礼すぎて思わず笑ってしまう。そんなに友達がいなさそうな顔をしているのだろうか。なかなかの言い草だとは思うが、その通りだから反論も出来ない。
「友達って言っても一人だけだけどね。高校の同級生で、浮いてる俺に話しかけてくれたんだ」
槙が唯一友達と呼べる人物は、所謂陽キャと呼ばれる人種を三人ぐらい煮詰めて固めたぐらいに明るい男だった。怪我ばかりで周りから遠巻きにされていた槙に「綺麗な髪してるじゃん」と絡んできたのが始まりだったような気がする。それから何となく一緒にいるようになって、気付けばこの歳まで縁が続いている。それもこれも彼があの卒業式の日に逃げ出した槙を執念で見付け出してくれたからなのだが。
「電車で三十分くらいの町に住んでてさ。美容師やってるんだけど、いつも練習台にされてるんだよ」
「そうなんですか。てっきり商店街の美容室で染めてるのかと思ってました」
「あそこじゃこんなお洒落な色は無いんじゃないかな。……俺は別に染めなくてもいいんだけど。あいつがどうしてもって言うから好きにさせてるんだよね」
もう兄と同じ色の髪を見ても泣きそうな顔などしないというのに、槙の髪を染めるのが楽しいらしい友人は黒髪に戻すのを許してくれない。そろそろ染め直さないとと思う時期には必ず連絡が来る。
指先で顔の横に流れる髪を摘み、改めて綺麗に染められた灰色を眺めた。やはりプロの腕とは素晴らしい。あんなに真っ黒だった髪がこんな鮮やかな色になるとは。今まで様々な色に染められてきたが、今回のこの青みがかった灰色はなんだか妙にしっくりきていて、なかなかお気に入りの色だった。
ひょいと手を伸ばして、要のやや傷んだ黒髪に触れる。
「先生も髪切る?」
「僕はまだいいです」
「伸ばしっぱなしじゃん」
「美容室行くの面倒なんですよ」
「じゃあ、今度俺と一緒に行く?」
「……考えておきます」
要は気まずそうに目を逸らした。それは大概行く気のない時の返事だなと槙は思ったが、それ以上突っ込んで聞くのは止める。いざとなったら無理やり引っ張って連れて行けばいいのだ。その時まで槙と仲が良ければの話ではあるが。
不穏な気配を察知したのか、要は慌てて話題を変えた。
「折角の海ですけど、泳がなくていいんですか?」
「先生泳げるの?」
「人並み程度には……」
「泳ぎたかったら泳いでもいいけど、お盆の海はオススメしないよ」
「そもそも体力に自信がないので遠慮しておきます。槙さんは泳げるんですか?」
「俺、泳げないんだよね」
「泳げそうな顔してるのに……」
「どんな顔さ」
ぱしゃり、波が足を濡らす。冷たい感覚が心地良くて、笑みが溢れた。
「俺の住んでたところ、海なんて無かったし」
「槙さんはここの町の人ではないんですね」
「うん、バリバリの新参者」
「あの、学生時代にプールの授業とか無かったんですか?」
「全部休んでた」
黒の瞳に、心配と疑問の色が混ざる。急にこんなことを言われたらそんな反応にもなるよな、と槙は苦笑した。
なんでですか、と聞かれるよりも先に口を開く。
「……虐待の痕がバレたら困るから」
気を遣わせないよう明るく言ったつもりだったが、槙の予想以上に言葉は重く響いた。
要はなんと言っていいのか分からないのか、眉を寄せて言葉を探しているようだった。空気を変にしてしまって申し訳ない。
けれど、もうここまで言ってしまったのならいっそのこと言いたいことを全部言ってしまおう。そのために今日は要と出かけたのだ。そう思って槙は喋り出した。
「今日ね、俺の誕生日なんだ」
「それは……、お、おめでとうございます?」
突拍子もない発言に要はさらに混乱を深めている。
考える間も与えず、畳みかけるように言葉を紡いだ。
「そして、兄さんの命日なんだ」
ざあ、と一際強い風が吹いて、槙は思わず目を瞑る。そのせいで要がどんな表情をしているのかは分からなかった。分からないままでも良かったのかもしれない。もし嫌な顔をされようものなら、話す決心が鈍ってしまっていたかもしれない。
だけど、今の槙は不思議と恐怖や不安は感じなかった。自分の一番汚い部分を見せようとしているのに、何故だか心は凪いでいる。
「ねぇ先生。先生さえよければ、俺の話聞いてくれない?」
「……どんな話ですか? 是非聞かせていただきたいです」
「俺の今までの人生の話」
要の手を引いて浅瀬から砂浜に戻る。このまま波に浸かったままでは体が冷えてしまうと思ったのだ。きっと、とても長い話になってしまうから。
座ろうと声をかけて、砂浜に腰掛ける。要が横に座ったのを見て、槙は訥々と話し出した。
両親のこと、兄のこと、この町に来てからのこと。話していくうちに脱線して余計なことまで話してしまったような気もする。たった一人の人生の話だというのに、随分と長い話になってしまった。それでも、要は黙って聞いてくれた。
語り終える頃にはすっかり喉が渇いていて、こんなに話したのは何時ぶりだろうと息を吐きながら思う。ぬるくなったスポーツドリンクを飲みながら、要の反応を待った。
要は、柔らかく微笑んでいる。拒絶や軽蔑はしていないらしい。それだけでも良かったと、槙は心底安堵した。
要の手が槙の頭に向かって伸ばされる。その手を大人しく受け入れると、要の手は優しい手付きで槙の頭を撫で始めた。するすると耳の上を滑る感触が気持ちいい。成人男性が成人男性に撫でられている事実を冷静に考えるとなんだか可笑しい気もするが、心地いいので仕方がない。
要に触れられているが、自然と心臓は落ち着いている。過去のことを話して肩の荷が降りたからだろうか。それか、長く話しすぎて若干酸欠なせいか。挙動不審にならないならなんでもいいかと槙は目を細めた。
「なんで僕に教えてくれたんですか?」
耳に落ちる声は優しい。責めるような声色ではなく、どこまでも槙を心配する柔らかな声だった。槙の好きな声だ。
「なんでだろう。先生だからかな」
答えになっていない気もするが、これ以上の答えを槙は持っていない。好きになった人に、自分の汚い部分を見せないまま告白するのはフェアじゃないのだと思ったのだ。だから、好きだという前に話を聞いて欲しかった。そして、あわよくば要の脳内の片隅が自分のことでいっぱいになって欲しいという浅ましさもあった。
「先生に、重荷を背負わせたかったのかも」
けれど、それは槙の自己満足でしかない。
要にとっては知りたくもなかった話だったのかもしれないし、反応に困る話でもあるだろう。否定こそしないでくれたが、要は言葉を探しているのかあまり喋ろうとはしない様子だった。
「ごめん、先生。聞かなかったことにしてもいいから」
そう言って離れようとした槙を見て、要が動く。大きく伸ばされた手が槙の肩を掴み、そのまま強く抱きしめられた。
「違います」
急に熱くなった温度に驚いてしまって、声も出ない。
さっきまで撫でられていた時は冷静だった心臓は、途端に騒ぎ出した。耳が痛いくらいに心臓が高鳴っている。もしやこのまま暴れる心臓が飛び出すんじゃないだろうか。そんな馬鹿な話があるわけもないのだが。
「僕は、嬉しいんです」
背中に回された手の力が強まる。いっそのこと痛いくらいだ。
突然の出来事に混乱する槙は、なにが、と掠れた声で尋ねるので精一杯だった。間を置かずに要が答える。
「貴方が僕に気を許してくれたことが」
答えてくれたのに、疑問符は募るばかりだ。どうしてそんなことで要が喜ぶのかが分からない。
汗のにおいがする。自分のか要のかは分からないけれど、嗅いでいると頭がくらくらして冷静に考えられなくなってしまう。ひとまず放してくれないと、混乱した脳内を整理できそうにもなかった。
ぽん、と背中を押されたことで、知らず詰めていた息を吐く。
「一人で抱え込むのは、辛かったでしょう?」
頑張りましたね、そう言って要は微笑んだ。
まさかそんなことを言われるなんて思ってもなかった。そうなんですかと流されてもおかしくないと思っていたのに。
要の言葉を反芻していくうちに、じわじわと涙が滲む。
「うん。多分、辛かった」
槙はきっと、要にそう言って欲しかった。
「先生に、聞いて欲しかった」
この人が好きだ。いつも欲しい言葉をくれる、新しい感情を教えてくれるこの人のことが。
気持ちが抑えられない。熱に浮かされたまま、言葉が口を衝いて出た。
「俺、先生のこと好きだよ」
真っ直ぐ、世界で一番綺麗な黒色を見つめたまま告白をする。どう告白しようかあれこれ悩んでいたはずなのに、結局口から出たのは一番シンプルな言葉だった。だけど、これ以上真摯な言葉を槙は知らなかった。
降ろしたままだった手を、要の背中に回す。そのまま要の胸に顔を埋めて、顔を見ないまま言葉を続ける。
「でも、先生は俺のこと嫌いになってほしい」
は、と要が息を呑んだのが伝わってきた。
自分から告白してきたくせに嫌いになってほしいだなんて、支離滅裂な発言だと自分でも思う。それでも、万が一にも肯定の返事をもらうわけにはいかなかった。
「幸せだなって思う度に苦しくなる。兄さんに申し訳なくて、自分が嫌いになるんだ」
要が好きなのは本当だ。けれど、その一方で苦しくなるのもまた事実だった。幸せになりたいと願う気持ちと幸せになるのが許せない気持ちを抱えているのが辛くて、槙はもう終わりにしてしまいたかった。
なんと自分勝手で酷い言い草だろう。けれど、こんなことを言う槙にきっと要は幻滅してくれたはずだ。顔を見るのがこわくて俯いたままだから、要が何を考えているのかは分からないけれど。
「先生は、俺のこと好き?」
ずるい質問だと我ながら思う。嫌いだと言うしかない聞き方をしておいて、いざそう言われたら泣いてしまいそうなくらい心が弱いんだから最悪だ。それでも、どうか嫌いだと言って欲しかった。フってくれなければ、諦めがつきそうにもなかったのだ。自分一人で終わらせるには、要のことを好きになり過ぎてしまった。
返事を待つ一分一秒が長く感じられる。槙は息を詰めたままじっと返事を待っていた。
要は肺から全ての空気を出し切るんじゃないかというくらい長い溜め息を吐く。それから槙の耳に唇を寄せて、小さな声で囁いた。
「好きです」
ぽつりと呟いた要の言葉が、槙の耳を通って全身に染み渡る。
「ごめんなさい。僕は槙さんのこと、嫌いになんてなれません」
絶望すると思って構えていた心が、突然の事態に右往左往している。理解が追いついていない。
全部都合のいい幻聴な気がして、本当はまだ返事を貰っていないんじゃないかなんて往生際悪く考えてしまう。だって、許されていいはずがないのだ。兄を見殺しにした自分が幸せになっていいだなんて。今日はここでフラれて、解散して、結衣にせっかく大きいケーキを作ってくれたのにごめんと謝る予定だった。なのに、まさか好きだと言われるなんて。
言葉を失った槙を、要は強く抱き締めた。
「槙さんが苦しむのはわかっています。それでも、あなたを幸せにしたいと思ってはいけませんか」
人間、あまりにも嬉しすぎると言葉が出なくなるのだと槙は学んだ。現に今、魚のように口を開閉させることしか出来ない。
「え、せん、せい。ごめん、今なんて……?」
「槙さんが好きだ、と言いました。足りないようなら何回でも言いますよ」
聞き間違いじゃない確信が欲しくて顔を上げると、見る見るうちに要の顔が赤く染まっていく。きっと槙も同じ顔色をしているのだろう。通りすがりの人が見たら二人揃って熱中症だと疑われるのかもしれない。
「だめだよ、先生。そんなこと言われたら俺、幸せになっちゃう」
「幸せになってください。僕は槙さんを幸せにしたいので願ったり叶ったりですよ」
「だって、俺だけ幸せになったら兄さんが可哀想だ」
瞳からぽろぽろ涙が落ちていく。泣くつもりはなかった。なのに涙は止まってはくれない。
「命を懸けて守った槙さんが不幸な方が、お兄さんは可哀想だと思いますよ」
要の言葉が胸に刺さって痛い。分かっている。結衣にも何度も諭された。
兄はいつだって槙のことを思ってくれた。一つしかない菓子パンをいつも当然のように差し出してくれたし、自分がどれだけ酷い怪我を負っても槙を庇ってくれた。そんな兄が槙に苦しみ続けてほしいと願うわけがない。それに、もし兄が槙のことを恨んでいても知る術はないのだ。誰も答えなんて知りようもないのに、槙だけが答えを決めつけて怯えている。不幸でいるのは結局、生きている人間の自己満足なのだ。ただただ、槙が幸せになるのが恐ろしいだけなのだ。
喉から嗚咽が漏れる。堪えようと唇を噛めば、要の指が咎めるように唇に触れた。
「一人で幸せになるのがこわいなら、一緒に幸せになってくれませんか?」
なんで、この人はこんなに優しい言葉をかけてくれるのか。そんな、優しい言葉をかけられたら頷いてしまいたくなってしまう。要の優しさに抗うことは、槙には出来なかった。頷いた拍子に涙がこぼれる。その涙を、要が指先で拭った。
こんな幸福があっていいのだろうか。全身がふわふわと軽く感じられて、血液がどくどくとうるさいくらい音を立てて流れていた。脳が現実を認識しきれずにまるで夢みたいな心地を漂っていたが、夢にしては心臓が痛すぎる。これは、紛れもなく現実だ。
先生と今にも消え失せそうな声で要を呼ぶ。要は抱き締める腕を更に強めて応えてくれた。
「槙さん。おそらく槙さんが思っているよりも、僕はよっぽど昔からあなたのことが好きですよ。だから、あなたのことを嫌いになるなんてきっと無理です」
要が急にそんなことを言い出すものだから、槙は首を傾げた。そう言ってくれるのは嬉しい。だが、嬉しさよりも強く感じたのは疑問だった。
槙と要が共に過ごした時間は短い。たったひと夏に満たない時間だ。なのに、要の口振りだとどうやらそれより前に会ったことがあるようだった。だが、槙にはとんと覚えがない。
「それは、いつから……?」
「……僕、槙さんに救われたことがあるんですよ」
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