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第9話

 次の日。槙の熱はすっかり下がったものの、結衣からはまだ大事を取ってお休みにしなさいと言われてしまった。風邪ではないからそんなに心配しなくてもいいと思いつつも、槙は結衣の言葉に甘えて仕事に行くのではなく、要の家に向かうことにした。熱がないなら、と結衣も布団から出るのを許してくれたのだ。  仕事をサボるようで申し訳いと思う気持ちはあったが、槙の決意がぶれないうちにどうしても早く要と話したかった。  サンダルを引っかけて、歩き慣れた道を進む。もうじきお盆だというのに、暑さはまだ引いてくれそうにない。これが地球温暖化の影響とか言うやつか、なんて考えているうちに要の家に辿り着いた。  鍵のかかっていない不用心な玄関を開け、「お邪魔します」と声をかけてから入る。  要の家は、クーラーが効いていて涼しかった。汗でじっとりと湿る体に冷風が心地良い。  居間のソファに座り、ノートパソコンを指先で操っていた要は、槙が廊下から顔を覗かせるなり顔を輝かせた。 「槙さん! 具合はもう大丈夫なんですか?」 「うん、もう平気」  槙はソファの向かいにある座椅子に腰掛ける。この家での槙の定位置だ。それから、持っていた鞄からタッパーを取り出した。中には夏にぴったりのあっさり中華サラダが入っている。要の家に行くと伝えたら幸雄がささっと用意してくれたのだ。 「はい、親父さんから差し入れ。早めに食べなね」 「いつもありがとうございます」  タッパーを受け取った要が、ほくほく顔でタッパーを冷蔵庫にしまいに行く。その背中に向かって、槙は声をかけた。 「あのさ、来週の今日って暇?」  何気ない調子で尋ねてみせて、なんでもないみたいな顔を装う。うっかり緊張で声が震えたような気がするが、どうか気のせいだと思いたい。  ぱちり、振り返った要の黒い瞳と目が合う。要は何度か瞬きをした後、怪訝そうにしながらも頷いた。 「多分、原稿も終わったので暇だと思いますよ」  快い声色にほっと息を吐く。ひとまず、出鼻を挫かれずに済んだ。これで「予定ありますよ」なんて言われてしまったら「そう……」という覇気のない相槌しか返せないことだっただろう。  どうしたのかと視線で促され、槙は大きく息を吸ってから「あのさ」と口を開いた。 「先生の一日、俺にくれない?」  傍から聞いてみればなんでもない遊びの誘いの筈なのに、槙の耳には自分が発した言葉がずしりと重く響いた。言った、言ってしまった、と心臓が騒ぐ。  要がどんな表情をしているのか確認するのがこわい。耐えきれずを逸らした瞬間、間髪入れずに返事が戻ってきた。 「いいですよ」  顔を上げれば、いつもの人好きのする笑顔が待っている。  あまりにもさらりと言われたものだから、槙は思わず脱力してしまった。もう少し考えてから返事をしてもいいのに、なんて思いながら溜め息を吐く。 「……普通、どんな用事かくらい聞かない?」 「いやぁ、槙さんなら変なこと言わないでしょうし大丈夫かなぁって」  なんだ、その信頼は。嬉しいような、寧ろ心配なような。  どんな顔をしていいのか、どんな顔をしているのかが分からなくて、自分の頬に手を当てて確認する。とりあえず、だらしなくにやけてはいないらしい。良かった。  このまま長居して余計なことを言う前に、用事を済ませた槙はさっさと帰ることにした。 「じゃあ、来週迎えに来るから。ちゃんとご飯食べるんだよ」 「はい。また明日もソフトクリームを買いに行きますね」  玄関に向かう槙と一緒に、要も見送りの為に槙の後ろを着いて歩く。  さて帰ろうとしたころで、「そういえば」と思い出したように要が口を開いた。 「あの、何処に行くんですか?」  問いかけられて、咄嗟に答えられなかった。考え込むように顎に手を当てる仕草をした槙は、たっぷり間を置いた後首を傾げながら答えた。 「……海に?」 「え、なんで疑問系なんですか……」  なんでと聞かれても、答えられるわけがない。理由はもちろん分かっている。けれど、格好悪すぎて言葉になんか出来なかった。  まさか、誘うことで頭がいっぱいで、何処に連れて行くかなんてなにも考えていなかったなんて、口が裂けても言えるわけがないのだ。

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