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第8話

 次の日、ざあざあと夏の雨が降る中、熱が引くどころか槙は高熱を出した。夏風邪ではない。知恵熱だ。  結衣と幸雄には知恵熱だというのにそれはもう大層に心配をされ、「大丈夫だ」と仕事に行こうとする槙を無理矢理布団に押し込むくらいには過保護にされた。それからしきりに体調はどうかと尋ねたり、剥いた果物を持ってきてくれたり、お粥を作ってくれたりしている。そこまで重病じゃないのに、と思いつつも心配されることが嬉しくて、槙は黙って看病を受け入れた。  結衣は槙の代わりにソフトクリーム屋を開けに行き、幸雄は買い物に行った。ひとりになった槙は退屈を紛らわすように、いつから要を意識するようになったのかを考えることにした。  多分、最初に変わった人だなと思ったのは初めて店に来た時だったように思う。  あの頃は鏡に映る自分があまりにも兄に似ていて、鏡を見る度に苦しくなってしまう時期だった。要が来たのは、わざわざ隣町まで行って髪を染めたばかりだったような気がする。けれど、くすんだ灰色を見ると自分が兄を忘れようとしている事実を見せつけられて、槙の心はぐちゃぐちゃだった。自分で色を選んだくせに、兄と繋がりがなくなるのが不安でまた黒に戻したくて仕方がなかった。  結衣に似合っていると言われても気が晴れなくて、どうしたらいいのか分からなくなっていた頃、要は牧瀬商店にひょっこり現れたのだ。店に入ってきた要は、開口一番槙に向かって「綺麗な色の髪ですね」と言い放ってきた。  会ったこともない成人男性にそんなことを言われて当然びっくりしたし、なにかの冗談かとも思った。要があまりにも当たり前みたいな顔でにこにこ笑っていたから冗談ではないと気付けたけれど、冗談じゃないなら尚意味がわからない。警戒心を丸出しにする槙に向けた、あの不審者ではないと弁明する慌てた顔。思い出すと笑ってしまう。  きっとあの日から、髪を褒められた時から、心の片隅に要が居座りだしたのだろう。  結衣に褒められても解けなかった心のわだかまりが、要の一言でするりと解けた気がする。なんだが、素直に良い色に染めてもらえたと思ったのだ。  なんでだろう。その理由を考えれば考えるほど分からなくなってくる。このままじゃ熱が上がりそうだ。 「槙ちゃん、具合はどう?」 「店長」  す、と静かに襖が開いて、心配そうな結衣が入って来る。槙はきょとんと目を丸くした。自分の代わりに出勤したはずなのに、店は閉めてきたのだろうか。 「店、大丈夫ですか?」 「大丈夫よ。今日は雨だからきっと誰も来ないわ」 「……でも、先生が」 「先生ならさっき来たわよ」  やっぱり来たのか。雨が降っているのに律儀というか、ご苦労というか。  どんな様子でしたか、と聞こうとしてそれはちょっと自意識過剰な気がして口を閉ざす。結衣はそんな槙の様子に気が付いたのか、くすっと小さく笑ってから口を開いた。 「今日槙ちゃんはお熱でお休みって言ったらしょんぼりしてたわ」 「……そう、なんですか」  しょんぼり、したのか。槙が休んだから。要はもしかしたら肩を落としてソフトクリームを食べていたのだろうか。ちょっとその姿を見てみたいな、なんて思ってしまった。そんな自分がひどい人だとも思うけど、それ以上に要の日常にすっかり溶け込んでいることが嬉しかった。  頬が緩む。にやにやしてしまうのを眉間に力を入れてぐっとこらえた。結衣はそんな槙の顔を見て、「変な顔」と楽しそうに微笑んだ。 「槙ちゃん、もうすぐお誕生日ねぇ」  壁にかけられたカレンダーに目をやった結衣が、ぽつりと呟く。もうそんな時期なのかと、槙はひっそり息を吐いた。  八月十三日。お盆の始まりが、ちょうど槙の誕生日だ。兄が死んだのも、結衣のもとにやって来たのも、同じ頃になる。悪いことも良いことも重なったこの時期はどうしても気分が沈むし、生まれてきてよかったのかと自問してしまう。  去年、波に乗って消えてしまいそうな槙の心を引き留めたのは結衣だった。結衣は三人じゃ食べきれないくらい大きなケーキを焼いて、槙の誕生日を祝ってくれた。それが自分でも驚くほど嬉しくて、今でもあの優しいショートケーキの味は忘れられない。 「今年はなんのケーキがいい? 私、張り切って作るわよ」 「……チーズケーキがいいです」 「槙ちゃんチーズ好きだものねぇ」 「そんな、分かりやすいですか」 「だって一年も一緒にいるんだもの。分かるようになるわ」  結衣は子供にするような仕草で、槙の丸い頭を指先で撫でている。くすぐったいし恥ずかしいけれど、冷たい体温が火照った体に心地よくて反抗するのは止めにした。  猫のように目を細めた槙に、結衣の穏やかな声が降り落ちてくる。 「折角だし、今年はいっぱい果物を飾ってとびきり豪華なものにしようかしら」 「あの」  言葉を吐き出すのと同時に目を開け、じっと茶色の瞳を見つめる。結衣は唇に笑みを携えたまま「どうしたの」と小首を傾げた。  槙は少し言いにくそうに唇を噛んだ後、やや時間を置いて、小さな声で言葉を紡いだ。 「豪華じゃないいつものケーキでいいので、代わりに少し大きめに作って欲しいです」  槙の小さなわがままに、結衣は口元に手を当てて驚きを見せる。今まで槙が自分から結衣に何かを強請ったり頼んだりすることが少なかったからだろう。わがままを言うのは、存外恥ずかしくて勇気の要ることなのだと二十一年目の人生にして初めて知った。  槙は頬を赤く染めて、目を逸らす。それから、先程よりも更に小さい声で呟いた。 「……呼びたい人がいるので」  口にした瞬間、とうとう言ってしまったという若干の後悔に襲われる。だが、今更取り消すつもりはない。  呼びたい人、というのが誰を指しているのか、結衣には丸分かりだろう。聡い結衣のことだ、槙が誕生日に何をするつもりなのか、きっと分かってしまっているような気がする。知られた以上、退路はない。ここまで来たら、もう腹を括るしかないのだ。 「ええ、ええ、もちろん」  そんな槙の覚悟を知ってか知らずか、結衣はやっぱりいつものようにのんびり微笑むだけだった。

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