22 / 33
第22話
「けだものどものおでましだ!」
「コイツらとち狂ってるぞ、普通じゃねェ!?クインビーの能力か!!」
パニックに陥り喚き散らすスヴェン。対してスワローとキマイライーターの反応は早い。伊達に場数は踏んでない。臨機応変、修羅場慣れした瞬発力だ。
「来いよワン公、踊ってやる!」
坑道の奥から集団で飛び出したコヨーテは、耳まで裂けた口腔に生え揃った牙を剥き、激しく吠えたてスワローに群がる。
狂った咆哮にも増して目のぬめりが尋常じゃない、極度の興奮状態にあるのは火を見るより明らかだ。
筋肉が撚りあわさった強靭な脚で高々と跳躍、飛びかかるコヨーテに腕を振り抜く。
懐から抜き放ったナイフを横一閃、ギャンと啼いて血がしぶく。
腹を裂かれたコヨーテがもんどりうって転がり、それを飛び越えて二匹目三匹目が続く。怒涛の攻勢にキマイライーターが呟く。
「熱烈な歓迎じゃね」
「ハッ、モテモテで嬉しいね!生憎と獣姦は守備範囲外だ」
「クインビーにけしかけられたのか」
三者背中合わせに陣取る。
できるだけ死角をなくし、全方位に注意を配る。
コヨーテが喉の奥から威嚇の唸りを発し、ビーの命令と捕食者の本能に忠実に獲物を包囲する。
指揮者の姿は見えない。邪悪な忍び笑いだけが空気を震わせ伝ってくる。
この奥に女王蜂がいる、|地下帝国《アンダーグラウンド》に蜂の巣を築き上げた幼き女王が。
油断は禁物、全員警戒レベルを最大に引き上げる。キマイライーターが小声で指示をくだす。
「スヴェン氏は逃げ隠れることに専念したまえ。枝道や放置されとる木箱、緊急避難には事欠かん。そして君は」
「まっすぐ行くぜ。曲がれねェ性分なんだ」
「……止めても聞かんか。無策で突っ込むのは蛮勇じゃよ」
「策はある」
横顔に不敵な笑みを一刷け、指を咥えて高らかに鳴らす。
「コケコーッ!!」
「わっ!?」
スヴェンが短く叫んで狼狽、それまで存在を忘れていたキャサリンがうるさく羽ばたいて駆け出す。
三人の足の間を走り抜け、コヨーテの群れへ突っ込み、狂ったように啼き叫んで走り回る。
混乱したのはコヨーテだ。鋭いくちばしがコヨーテの目を突く、あちこちを啄む、翼がビンタをくれる。体当たりの逆襲だ。
コヨーテの陣形が乱れ、突破口が生じる。
スワローはこれを待っていた。
「アハッ、ご機嫌なピンボールだな!」
「ニワトリをオトリにする……ホントひでーヤツだ、このために連れてきたな!」
「バカドリが食われてるスキに強行突破だ!」
はなから鳥目に期待しちゃない、帰巣本能うんぬんは方便だ。キャサリンを放したのはコヨーテの攪乱が目的だ。
スワローの予想はあたり、無数の脚の間を弾丸の如くかいくぐりすりぬけ、縦横無尽に狂奔するキャサリンをコヨーテが追走する。
「飼い主の役に立てンなら本望だろ」
ピジョンは大事な家族とかほざいてやがったがスワローにとってはただの家畜、よくて声のでかい非常食だ。捨て駒を投入しても一切心は痛まない。キャサリンに時間を稼がせ、キマイライーターと頷き合い、動く。
「ギャン!!」
キャサリンを追って駆けずり回るコヨーテをナイフで薙ぎ払い、柄の尻で鼻面を痛打し、腹に膝蹴りをうちこむ。
キマイラーターは流れるような体捌きで杖を振るい、コヨーテの頭や腹をなでていく。
杖が蛇のように撓い、気流に乗る幻を見る。
スワローの目をもってしても追い付けず、残像をとらえるだけで精一杯だ。
自由自在、変幻自在。まるで踊っているようだ。
一挙手一投足に気品を従えた、たとえようもなく優雅なワルツ。
完璧に動きを読んで流れに乗り、最小限の動作で最大の効果を導く。キマイライーターが腕を振り抜き、コヨーテの身体の下に杖をもぐらせ、突き、別のコヨーテの頭を叩き、外套を靡かせ颯爽と踵を返す。
綺麗に手入れされた白髯が揺れ、静謐に凪いだ眼光に歴戦の貫禄が宿る。
「すげえ」
スヴェンは口を開けて見とれている。スワローもだ。口笛を吹いて茶化すのも忘れ、その圧倒的な戦いぶりに魅せられる。
伝説にもなるはずだ。
克己の一念で磨き上げた体術は達人の域、長年研鑽を積んだ技巧は芸術の域。
キマイライーターは無益な殺生を好まない。
故に殺人狂でも戦闘狂でも非ず。
実力に慢心して堕すでもない、過信して見誤るでもない、使命に徹するストイックなプロフェッショナルだ。
「耄碌してるわりにゃやるな爺さん」
「青二才にお褒めいただき光栄じゃよ」
憎まれ口を叩き合い、足を軸にしてぐるり半周しコヨーテを迎撃する。
スワローの得物はナイフだ。コイツの扱いにかけちゃ自信がある。
鍛え上げた動体視力で敵の出方を見切り、鋭利な刃を突き刺し、喉笛を削ぎ、脚の腱を断ち、情け無用で蹴り飛ばす。
新たな一匹が仲間を飛び越え、スワローにのしかかる。
「チッ!」
一対多数、それも相手は動物の群れ。勝手が違って焦る。
なお悪いことに一匹がとびかかってるあいだ、残りがお行儀よく待ってるはずもない。
よってたかってこられちゃたちうちできない、切っても切ってもきりがない。
「必ずしも殺す必要はない。先を急ぐなら峰打ちで事足りる」
耳裏で落ち着き払った声―忠告。
キマイライーターがスワローの背後に回り込んだ一匹を刺突で屠り、助言を与える。坑道には再起不能になったコヨーテが累々と転がっている。何匹かはビクビクと痙攣し白目を剥いている。
顔まで血しぶきがはねとんだスワローと違い、キマイライーターは殆ど汚れてない。外套には一点のシミ汚れなく、驚くべきことに息すら切らしてない。
バケモノかコイツ。
今しも飛びかかった一匹を叩き伏せ、老紳士が手厳しく評する。
「君の戦い方は|実践的《アグレッシブ》で汚い」
「アンタは|芸術的《スマート》で退屈だな」
「洗練の極みと言いたまえ」
「自画自賛かよ。長生きするぜ」
一応褒め言葉じゃよ、とキマイライーターが苦笑する。
奥から嗚咽が聞こえる。ピジョンが泣いてる。
呑気に遊んでる暇はない。先を急ぐ。スワローは荒げた息を整え、目の前の戦場に集中する。
狙うのは目と腱と鼻、急所を攻撃して再起不能に至らしめる。
「ギャン!?」
目を裂かれたら視界が利かず、腱を断てば立ち上がれず、鼻をしたたか|打《ぶ》てば匂いを追えない。
キマイラーターの戦い方を見て、スワローは即時に学ぶ。
たちどころにコツを消化し、自分のものにする。
伝説の賞金稼ぎの極意を、自分の流儀に当てはめるのは案外簡単だった。
真髄など理解しなくていい、少なくとも今は。付け焼刃の物まねで十分、それで切り抜けられるなら安いものだ。本当に大事なものは別の所にある。
アイツが俺を待ってる。
わかるんだ、感じるんだ。
「行くんじゃ!」
キマイライーターが活路を開き、スワローを促す。スヴェンが石ころを投げて加勢する。
その厚意を有り難く受け、ナイフを構えて走り出す。右から左から挟み撃ちを企てるコヨーテを蹴飛ばし殴り飛ばし、焦燥に駆られて叫ぶ。
「いんのかピジョン、返事しろ!!」
キャサリンが逃げまくる。スヴェンが這いずる。キマイライーターが踊る。コヨーテの咆哮が幾重にも反響し、闇の奥深く残響が吸い込まれていく。アイツはどこだ?どこにいる?
「いいトシして迷子になってんじゃねーぞ、世話焼かせんな!」
前方に何かが見えてくる。道に服と下着が散らばっている。やけに見覚えある緑のモッズコートと下着……
歩みは止めず拾い上げ、強く強く握り締める。
心臓が早鐘を打ち、口の中が干上がっていく。
「ストリップかよ……風邪ひくぞ」
何でアイツの服が?コヨーテに襲われて、身に付けてるものを投げて追っ払おうとした?馬鹿がやらかしそうな浅知恵だ。
スワローは敢然と先に進む。
次第に歩幅が大きくなり、速度が上がり、気付けば走り出していた。
「ピジョンの分際でシカトこいてんじゃねェ、いるかって聞いてんだから答えろ!」
あの馬鹿、どうしてできもしねーことするんだ。俺なんかほっときゃいいだろ。勝手にキレてでていって、気にかける意味も価値もねーだろ。
ちんたら追っかけてきて、自分が捕まったら世話がねェ。
「…………おい?」
ピジョンがいた。全裸で。
岩肌に凭れて丸まり、両手で耳を塞いでいる。
全身泥と擦り傷だらけの酷い有様、髪はぐちゃぐちゃに乱れ、首には薄汚い麻縄がかかっている。
涙と洟水で汚れきった顔には、意志を手放した虚ろな表情が浮かんでいる。
「っあ」
再会の安堵などすぐ消し飛んだ。様子がおかしい、普通じゃない。
スワローは静かに歩み寄り、ピジョンの傍らに膝を付く。裸の肩を軽く揺する。すっかり冷えきって鳥肌が立っている。身体は小刻みに震え、瞳は恐怖に開かれている。
「しっかりしろ」
「すわ、ろー?」
ピジョンがほんの少し顔を傾げ、スワローを仰ぐ。
白昼夢を見ているような極端に緩慢な動作は、声と足音への条件反射にすぎず、意志疎通が成り立たない裏付けとなる。
「俺のせいじゃない、俺が悪いんじゃない、アイツらが勝手に死んだんだ、ビーに言われて……あの子がいってらっしゃいって言うと、なんでか勝手に走ってくんだ。と、とめようとしたんだ、やめてってお願いしたんだ。そんなの見たくないから……だってアイツらは操られてるだけで関係ない、やりたくないのに無理強いは可哀想じゃないか。お、俺、いやで、目の前で死なれるの、なにもできないの。俺はなにもできなくて、なにもしなくて、だから死んで、でも殺したくなくて、ビーは俺のせいだって言って、でも言うこと聞けば許してくれるって……」
「おいピジョン?」
「い、言われた通りにした。やだったけど、それしかないだろ?全部あの子の言うとおり、恥ずかしいことも我慢したよ。だってそうしろって……ッ、ほかにどうしたらいいんだよ!?俺、あんな小さい子、す、好き勝手されて、いじくられて、ホントはやだった、でも俺のカラダはやじゃなかったんだ、そんなのってあるかよ、一体今まで何のために!!」
スワローの肩に手が食い込む。
口ごもり、どもり、ピジョンが必死に縋ってくる。
一体何をされたらこんななっちまうんだ?見れば体中汚れている、乾いた涎のあとがあちこちに残っている。コヨーテにやられたのか?ド腐れ畜生どもが、一匹残らずぶっ殺してやりゃよかった。ピジョンはブツブツ言ってる、支離滅裂なうわごとを呟いてる。
「俺、違う、俺のせい、か?」
くしゃりと前髪を握り潰す、その目はどこも見ていない。
目の前のスワローすら認識せず、閉じた自分の内側だけを映している。
思考停止と現実逃避、極度のショック症状。
スワローの肩を握り締め、頑なに首を振り続ける。
「全部俺が悪いんだ、もっと早く動いてれば……」
肩に食い込む握力が増し、爪がめりこむ。
スワローはその痛みを堪えきる。
ピジョンの股間が湿っているのに気付く……失禁の痕跡。内腿に付着する白濁はピジョン自身のかコヨーテのか、凌辱の事実は消せない。さんざん嬲られ枯れ萎んだペニスが痛々しい。
尿のアンモニア臭が匂い立ち、愕然と見開かれた瞳孔が絶望に凍り付く。
青ざめた唇が震え、掠れた声音を紡ぐ。
「俺のせいで死んだ」
そばに大穴が掘られている。
穴の底には巨大な杭が無数に聳え、コヨーテの死骸が新旧まざって晒されている。
古いものは腐敗して蛆が沸き、新しいものは死んで数時間、否、数分も経ってない。
腹腔を貫かれ、あるいは顔を串刺しにされた無惨きわまる骸から顔を背け、ピジョンが口走る。
「俺が殺した」
自分を責め、自分を呪い、自分を罵り。見殺しを悔やみ、頭を掻き毟り、「俺が悪い、俺のせいだ、俺がバカだからみんな死ぬ、ビーに殺される、コヨーテも母さんもスワローもオモチャにされて壊されるんだ」とねじくれた被害妄想を垂れ流す。
変わり果てた兄の姿にスワローは絶句する。
「俺のせいだ、ダメなヤツだから、なにをさせてもダメだから。約束破ってばかりで、スワローを傷付けて、裏切って……がっかりさせて。ちゃんとできないから、兄さんなのに、母さんと話さなきゃいけないのに、こ、壊すのが怖くて……飴玉?いやだ、もうたくさんだ、入らないよ。甘くない。破裂する。ごめん母さん、ごめんスワロー。コヨーテは悪くない、ご褒美はたくさんだ。キツい、破ける。き、気持ちよくない全然……ベロ、熱くて。息臭くて。中で溶けて、変、なんだ。体、も、おかしくて、グチャグチャのドロドロで……汚いよ、めちゃくちゃだ。飴玉はこりごりだ、二度と食べない」
ピジョンは自分を責め続ける。
涙は既に乾ききり、焦点のブレた瞳が不安定に虚空を泳ぐ。
虐待されすぎてすっかりおかしくなってる。くそ面倒くせえ、ビンタすりゃ正気に戻るか?コイツが組み立てたポンコツラジオと同じで叩きゃあ直る?
いや、もっといい方法がある。
スワローは低く唸る。
「テメェをこんなにしやがったのはだれだ。ぶっ殺してやる」
「あの子に逆らっちゃだめだ、殺される!」
バッと顔を上げるピジョン。
その顎を掴み、強引に上向かせ、口を割らせる。
「!?んぅっ、」
ディープキス。それもおもいっきりハードなヤツ。
拒む暇など与えない。抗う素振りは許さない。兄の唇をこじ開け舌をねじいれる。
なめらかな歯列をなぞり、柔い粘膜をこそぎ、一番感じる舌の裏を巧みに啜り、窪みにたまった唾液を啜る。容赦はしない。手加減ぬきだ。嫉妬がスワローに火を付ける。俺が知らないあいだにピジョンが汚された、ケダモノどもによってたかって嬲り者にされた。
「ふぁ、あぅぐ、んンっぶ」
色気のない喘ぎ。ピジョンが混乱し、反射的に押し返そうとするのを許さず、逆に手首を掴んで抵抗を封じる。岩肌に押さえ付け、ぴったりと密着し、口の中をめちゃくちゃに犯しまくる。コヨーテはこんなトコまでなめなかったはずだ。
舌の裏側、上顎の裏。
可哀想に、コイツが一番感じる場所はほったらかしだ。
欲しくてたまらなかった場所にお預けくらって、中途半端な火照りに疼いてる。
なら俺様がくれてやる。とびきり強烈なのを、二度と忘れられねェのを。
あんな子供だましなんざメじゃねぇ、本物のキスを教えてやる。
ピジョンの身体から次第に力が抜けていき、ぐったりとスワローに凭れかかる。
「んン、あふ、ふあっあぅう」
無意識だろうか、反射的に引っこんだ舌がためらいがちに愛撫に応じだし、スワローと絡んでチュクチュク淫靡な音をたてる。
唾液をかきまぜ、こねまわし、たらふく飲ませる。
他のヤツの味がする。
スワローはピジョンを貪り尽くす。
激しく、狂おしく。
たかがキス、されどキス。
舌に舌を絡め、唇で唇を吸い上げ。
「っふ、あぅぐ、かふっ」
もがく手をねじ伏せ、指を噛ませ、切ないほどに締め上げて。
激情と劣情をカクテルして、欲望と渇望を捏ね混ぜて、唾液を主成分とする強烈な媚薬を調合しては嚥下を確認後また飲ませる。
骨の髄までドロドロに煮溶かして、脳味噌をグズグズにふやかして、お前の全部使い物にならなくさせてやる。
口の中がひどく敏感になってるのがわかる。鋭い性感が芽生え、熱く潤んだ粘膜がクチュクチュ鳴る。壁に固定した手首が撓い、腰砕けにずりおちる頃、透明な糸が繋がる唇を離す。
「……正気に戻ったかよ」
睫毛が絡む距離でピジョンを見下ろす。
「…………う、ん」
兄はコクリと頷く。消え入るような声だが、目には理性の光がもどっている。ディープキスの効果だろうか、青ざめた頬に少しだけ血の気が戻り始めている。
ほら、やっぱり俺のが上手ェ。
ドヤ顔のスワローに焦点を合わせ、自分が真っ裸なのに気付いて慌てる。
「は、裸……パンツ、パンツどこやった?!」
「ほらよ」
回収済みのボクサーパンツを投げてよこす。元々ピジョンが穿いてたのは汚れて使い物にならない。
ピジョンがボクサーパンツに足を通す傍らで、スワローはそっけなく聞く。
「何があったんだよ」
「……お前を追って、先回りしようとして……この坑道、模擬戦の時見付けたんだ。中へ入ってしばらくしたら道が崩落して、女の子に会って……こ、コヨーテに襲われて。あの子、クインビーが、おかしな能力で手懐けてたんだ。俺、逃げて。捕まるのがいやで、死ぬの怖くて。ビーは遊びだって笑ってた……追いかけっこだって。狂ってるよ」
ピジョンがたどたどしく経緯を話す。大体スワローの予想通りだ。ボクサーパンツに下半身を包んだピジョンが岩壁に凭れて立ち上がり、膝が抜けて再びへたりこみ、穴の方へ視線を向ける。
「俺のせいで、死んだ」
昔からそうだった。
コイツは自分が痛め付けられるより、俺がぶたれるほうが哀しい顔をした。
壮絶な最期を遂げたコヨーテを見詰め、兄の顔が悲痛に歪む。
「……俺のせいだ……」
自分の過ちの結果を目の当たりにし、涙は枯れて上手く泣けず、深々と項垂れるピジョンの目を、片手でそっと隠す。
「見るな」
小さく言い聞かせ、耳元で辛抱強く囁く。
「お前のせいじゃねえ」
自分がこんな優しい声を出せることに、その相手が兄であることに、少し驚く。
どんな女を抱く時も、どんな男と寝た時も。
どんなピロウトークにも増して手のひらの暗闇に帰したピジョンに向ける声は、罪作りなほどに優しく、甘く、慈悲深い。
鼓膜に滴る音の波紋が、直に涙腺に作用する。
「ッ……」
手のひらがじんわりぬくもる。ピジョンの瞼に染み出た雫のせいだ。ピジョンが深呼吸で落ち着きを取り戻すのを待ち、ゆっくりと手をのける。
引きずっていたコートを裸の背に投げるや、自分がいかにあられもない姿をしてるかに漸く思い至り、もたもたとボタンを留めだす。
そのついでにポケットをまさぐり、傍らで見守るスワローへと握り拳をさしだす。
「……返しそびれてた」
ドッグタグだ。鎖に修繕の跡がある。わざわざ直したのか。
「…………」
スワローは無言でタグを掴み、首に通す。礼は言わない。言うに及ばない。その代わりナイフを出し、ピジョンの首に巻き付く縄に浅く噛ませる。
「帰るぞ」
プツ、と麻縄に切れ目を入れる。
ぱらりと断ち切れた縄の向こうから、裸に剥かれてもなお外さずにいた、銀のタグがお目見えする。
ピジョンがしっかりと頷く。
まだ体がだるいのだろうか、片腕で腹を抱えたまま、岩肌を肩で擦り歩き出す。スワローはその腕を肩に回し、担いで帰ろうと……
「どこへいくの?」
姿なき蜂の羽音を従えて、女王蜂が現れた。
ともだちにシェアしよう!