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第1話

小野原(おのはら)さん」  間近で頭上から呼び掛けられて、(たける)はパソコンに向けていた顔を上げ、フレームの太い黒縁眼鏡を押し上げた。 「はい。えーと……?」  クリアファイルに入った書類を持って立っていたのは幼さの抜けない女性社員で、肩までの艶やかな髪を耳にかけながら首を傾げた。  思いきり「誰だっけ?」を顔に出した健に、女性は邪気のない笑みを向ける。 「おはようございます。総務の橋崎(はしざき)です。お忙しいところすみません、今少しよろしいですか」 「あ、そうだ。橋崎さん。ごめん、まだ全然覚えられなくて」 「いいえ。小野原さん、浦島太郎状態ですもんね。知らない顔がいっぱいだと思いますけど、ゆっくり覚えてくださいね」  健の勤務地変更の手続きを担当してくれている、入社二年目だと言っていた橋崎は、クリアファイルを健の机上に置いた。 「住宅補助申請なんですが、ちょっと不備があったので修正をお願いします。付箋のあるところに署名捺印をいただけますか。あとこちらに訂正印を」  書類を指し示す白くてすんなり細い指先は、短い爪に薄いピンクのネイルが施されていて、決して華美ではないけれどきっと手間暇がかかっているんだろうなぁと健は感心する。 「はい、ちょっと待って」  ボールペンと印鑑を取り出して言われる通りに修正して、付箋を外して書類を差し出した。 「ごめんね、お手数をお掛けしました」  笑顔を向けた健に、橋崎ははにかんだ笑みを浮かべて書類を受け取る。 「いいえ。こちらこそ、ありがとうございます。お邪魔しました」  会釈をして、さらさらの髪をひらりと翻して橋崎は自席へ戻っていった。ほんのりと残る品の良い甘い香りは、香水だろうか。 「おい。おまえわざとだろう」  橋崎がいなくなると、隣席の先輩が低く声をかけてきて健は振り向いた。 「はい?」 「橋崎さんが受け入れ担当だから、わざと申請不備やったんだろ、接点作ろうとして。こすいやつだなーおまえ!」  三十代後半の既婚者の先輩は、キャスターつきの椅子を健の真隣に移動させてこっそりと耳打ちしてくる。 「可愛いよなー橋崎さん。気も利くし。俺ももうちょっと若かったらなー」 「はあ」 「しかもおまえ、あの感じはけっこう脈アリっぽかったじゃん。おまえ海外勤務帰りで将来有望だし、押せばうまく行くんじゃね?」  顎で指されて橋崎の席を振り返ると、ちょうどこちらを見ていた橋崎と目が合う。橋崎は少し驚いたように目を丸くして、にっこりと目礼した。  押せばうまく行く、はあながち間違ってもいないかもしれない。しかし押さなければ始まるものも始まらないだろう。  そして健には押す気がない。 「そうですねぇ。精進します」  如才なく返して、頑張れよ、と歯を見せる先輩へ小さく拳を上げて見せる。  そういうパフォーマンスが必要なときもある。それだけのこと。  あの白くて細い手や、きれいな髪よりも、よほど先輩のワイシャツを捲り上げた腕の男らしい血管の方に魅力を感じるのだと言ったら、絶対に引かれるに決まっている。  万が一それが露見しようものなら、健のこの会社での社会人生命は絶たれたも同然だ。  小野原健、大手アパレルメーカーに勤める入社六年目の二十八歳。この秋の異動で、五年間の海外赴任を終えて日本に帰ってきたばかりだ。  新人研修後の組織配属から間もなく海外拠点の立ち上げに携わることになり、そこで海外赴任に志願して以来、数度の出張以外では日本に戻ることもなく。業務で関わる社員以外、ほとんどの社内の人間は知らない顔で、戻ってきて半月が経つが健はもう一度新人からやり直しているような気分だった。  最初から標準三年、長くて五年と言われていた赴任期間だったので、満了して帰国することになったのは仕方がない。けれど健は、本当はあまり日本に帰ってきたくはなかった。 (まあ……帰ろうと帰るまいと、もう縁は切れてるんだから一緒か)  仕事を終えて会社の借り上げマンションに帰り、やっと引っ越しの荷物が片付いた部屋でビールの缶を開ける。手慰みに携帯をさわると、メッセージが届いていた。 「……あ、前川(まえかわ)」  メッセージは大学時代のサークル仲間からだった。  赴任中は仕事に忙殺されて日本の友人と連絡を取るどころではなく、ほとんど交遊関係も断絶状態だったのだが、帰国が決まってからSNSで少しずつ繋がりを回復させ、前川とも交流が復活したところだった。 『来月サークルのOB会があるんだけど、健も顔出さないか?』  魅力的な誘いに、そわそわっとテンションが上がる。  年に一度、有志で集まっているという話は聞いていたが、新卒で日本を離れた健は参加したことがない。 『行く! 日時と会場教えて!』  早速そう返して、返事を待つ間、健は懐かしい大学時代を思い返した。  いわゆる軽音サークルで、活動はさほど厳格ではなく、素人から経験者まで音楽好きが所属してバンドを組み、好きに音楽を演奏していた。ジャンルは多種多様で制限もなく、ライブに向けた練習よりも頻繁に行われる飲み会の方に皆熱心だったように思う。  そのサークルで、健はインストバンドのギターを担当していた。前川はそのバンドのシンセ弾きだった男だ。  バンド活動はとても楽しくて、曲作りに熱中しすぎていくつか単位が危なくなったことも今はいい思い出。  けれどそれ以上に、サークルには印象的な思い出があった。  健が一年生の頃、二学年上に部長と副部長がいるジャズバンドがあった。部長はドラムの芳井(よしい)恭介(きょうすけ)、副部長はピアノの柳瀬(やなせ)充希(みつき)。どちらも男性だが、二人は恋人同士だった。  健が入部したときには既に周知の仲で、周囲の誰も、それを中傷することも遠巻きにすることもなく、ごく自然にそういうものとして受け入れていた。というのも、部長の芳井がいわゆるカリスマ性を備えた男で、彼の言動には誰も異論を挟む気が起きなくなるような、どこか不思議な雰囲気を持っていた。  一方、副部長の充希は少々強引な芳井を軌道修正して陰から支えるような存在で、芳井の女房という認識で周囲も一致していた。  お互いの両親にもカミングアウトして公認の仲だと言っていた二人は本当に、理想的な恋人同士で。公衆の面前でいちゃつくような姿は一度も見せたことがなかったが、その寄り添うような空気を知る者は皆、口を揃えて運命の二人だと言った。  当時、充希に対して憧れ以上の気持ちを抱いていた健だったが、その気持ちは伝えるまでもなく密かに閉じた。そんな甘酸っぱい思い出が、少しの感傷と共に胸に返る。  ――今も、二人は幸せでいるのかな。そうであってほしいな。  同じ同性愛者である健にとって、ある意味二人は希望でもあった。  同性同士の間にも運命の出逢いというものがあって、その二人がいつまでも幸せに過ごせるのなら、いつか自分も幸せになれる日が来るのではないかと。  今のところ、健の元にその幸せが訪れる気配はない。  いつかを夢見て、今夜も健は寂しさを噛む。

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