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第2話

 OB会の日、会場の最寄駅で待ち合わせた前川は大袈裟に健に抱きついてきた。 「健ー! 久しぶりー!」 「前川ー! 生きてたかー!」 「生きてたかはおまえだろ! 途上国の僻地に五年も飛ばされてたんだろ?」 「どんな偏見だよ! 俺はそのまま永住したっていいつもりだったのに」 「そうなん? 俺は日本がいいけどなぁ」  前川はあっさりとハグの腕を離して、会場に向けて先導する。 「健が来るって言ったら、ミケも相馬(そうま)も来るって言ってたよ。ミケなんか新幹線の距離なのに」 「今あいつどこいんの?」 「名古屋」 「そっかー。それぞれだなー」 「相馬は一昨年結婚して去年子ども生まれて今年離婚したぞ」 「いろいろ早いな!」 「あいつ生き急いでるよねぇ……」  昔のバンドメンバーの話で盛り上がっていると、程なく会場に到着した。今年の幹事の知り合いが経営しているというカフェでの立食パーティーだ。  店内に入ると、既にめいめいに飲み食いしていた旧友たちが健の姿を見つけてわらわらと寄ってくる。 「小野原だー!」 「うわータケ先輩、お久しぶりっす!」 「タケル元気だったー?」  あっという間に周りを取り囲まれて健の視界は塞がれたが、その隙間を縫うように、すっと視線が吸い寄せられる。  カウンターでビアグラスを片手に、同期と談笑している痩身。学生時代よりも黒髪は少し短くなっていて、三十歳になったはずの顔は若見えするけれどそれなりに大人っぽく、落ち着きを漂わせている。  充希の姿を見つけて、否応なく健の胸は高鳴った。 「……あ、今年は柳瀬さん、来てくれたんだ」  健の視線の先に気づいて、隣で前川が呟く。その言葉が不可解で、疑問符を浮かべた健は首を傾げた。 「柳瀬さん、これまであんまり顔出さなかったのか? 柳瀬さんが来たがらなくても、芳井さんが引っ張ってきそうなもんだけど」  内心のときめきをひた隠して皆が同意しそうな言葉を選んだつもりが、周りは一斉に口を噤んで健を見つめた。  ――え、俺なんか変なこと言った?  妙な空気を訝っていると、前川が神妙な顔で口許を押さえる。 「……そうか、健知らないんだ」 「え?」 「俺から話すよ」  皆の輪から健を引き離すように、前川が会場の隅へ健を引っ張っていく。  違和感には健も気づいてはいた。こういう場では必ずと言っていいほど充希の傍にいるはずの芳井の姿がない。  まさか破局? と邪推していたら、前川が肩を組んで顔を寄せてきた。 「……芳井さん、亡くなったんだよ」  ――は? 「一昨年。癌で、一年くらい闘病してたみたいなんだけど、見つかったときにはかなり進行してたみたいで、若いからそこからの進行もまた早くて」 「え。待て。嘘だろ?」  全く飲み込めない健に、前川は眉を寄せて首を振る。 「こんな嘘つくかよ。俺らも、最初聞いたときは信じらんなかったけど」  嘘ではないと、重ねて言われて健も頭では理解した。  充希の恋人が、伴侶の芳井が、充希を置いてこの世を去った。  でもまるで気持ちが追いつかなくて、信じられないというより、信じたくない気持ちが先に立つ。それが本当なら、いったい充希は、どれ程の思いをしたのだろう。  皆の輪に戻っても、健の胸は妙な具合にざわめき続ける。目は充希を追って離すことができず、彼がふとこちらを振り向いて目が合った瞬間、健は動揺を隠せなかった。 「あぁ、小野原だ」  ふわりと、充希の優しい美貌が綻んだように健へ笑いかけてくれる。きゅうっと胸が痛くなって、閉じたはずの想いがせり上がってくるのを感じて慌てた。 「……お久しぶりです」  声が裏返らなかったのが奇跡だ。 「久しぶり。俺が大学卒業して以来だよな? 日本にいなかったって聞いたけど、元気にしてた?」 「はい。あの、柳瀬さんも」  受け答えしながら、健の視線は充希の左手に釘付けになっていた。  薬指にはまった、シンプルな白銀色の指輪。大学時代から、鍵盤の上を踊る指に光っていた、たぶんそれと同じもの。  そのあからさまな視線に、充希もすぐに気づく。左手を開き、一度握り、もう一度開く。 「……外せなくてね」  その手の甲に視線を落として充希が儚く微笑むのを見て、ひどい罪悪感と共に健は我に返った。 「す、すみません、俺知らなくて。さっき聞いたばかりで、驚いてしまって」  弁解する健に、笑みを浮かべたまま充希は小さく首を振る。 「気を遣わないで。俺はもう大丈夫だし、恭介は今も俺の中にいるから」  指輪をした左手で自身の胸に触れる充希の姿に、一度溢れそうになった想いが一気に消沈していくのを健は感じた。 「小野原はいつ日本に戻ってきたんだ?」  久々に会う後輩との他愛ない世間話にふさわしいトーンで、軽やかに充希は訊く。 「あ……えと、この十月です。もうほんと、この間帰ってきたばかりで。新卒以来の日本なんで、会社でも知らない人扱いです」  トーンを合わせ、頭を掻いておどけて見せた健に、充希は可笑しそうに笑った。 「そうだろうなぁ。新卒以来ってことは、五年くらい? そんだけいなかったら、まず人の顔と名前覚えるのが大変そう」 「いやほんとに、めっちゃ苦労してます」  充希が笑ってくれた。それだけで健はひどくほっとした。 「……柳瀬さんは?」  意味深にならないように問うと、充希も言葉通りに受け取ってくれる。 「俺は堅いよ、公認会計士。就職してからずっと同じ事務所で働いてるもん。もう何年も代わり映えしないねー」 「そうなんですね。なんか資格職ってかっこいいっすね」 「そうでもないけどな」  少し照れたように目を細める控えめなその笑い方は、大学の頃から少しも変わっていなくて、健の中の苦甘い感情を呼び起こす。けれど昔も今も、健はそれを黙って胸の奥に押し込めることしかできない。  ひとしきり近況を報告し合ったところで、充希は店の奥から名を呼ばれて、じゃあな、と言い残して同期の輪の中に戻っていった。  その背中を見送りながら、ほんのりと温もった胸にすうっと風が通るのを感じる。  健も前川たちの元に戻ると、前川がぽつりと呟いた。 「……俺、一昨年の夏、芳井さんの葬儀に出たんだよ。柳瀬さん、遺族席でずっと泣いててさ。もう立ち直れないんじゃないかと思った。けど、今も芳井さんのこと忘れないで、ずっと好きでいるんだよな。たぶんこれからもずっと。それって、すげえことだよな」  しんみりと、前川の声を聞いた皆が俯く。泣いていたという柳瀬の姿が目に浮かんで、健も涙が出そうになった。  なんて清らかで、美しい愛。  やっぱり運命の恋人たちは、死が互いを分かってなお、美しく想い続けていくのだ。  素敵だな。羨ましいな。自分にもいつかそんなふうに想い合える相手と出逢える日が来るだろうか。  強い憧憬が、熱を持った瞼の裏に焼き付いて離れなくなった。

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