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第3話

 成人した頃から、寂しい夜に一夜の相手を求めて通うバーが健にはあった。  生まれてこの方、恋人と呼べる相手はいたことがない。でも見た目は悪い方ではないので、同じ性指向の人たちと交際する中で、相手からのアプローチを受けることもある。けれどどこか健には潔癖なところがあって、そういう軽薄な誘いに対して本気にはなれない。  それでいて、特定の相手との特別な関係に人一倍の憧れはあって、それが寂しさを駆り立てて、結局一夜限りの関係に走るという矛盾に満ちた行動を健は繰り返していた。 「ね、最近お兄さん、よくここに来るよね」  カウンターの隅で一人で飲んでいると、成人しているか怪しい若い青年が声をかけてきた。少し目尻の下がった、可愛らしい顔立ちをしている。 「すごく好みだなぁってこの間もずっと見てたんだけど、他の子と出ていっちゃったから。また会えて嬉しい」  隣に座った青年が、さりげなく片手を健の腿に載せてきた。 「ね。僕、どう?」  とろりと、滴るような上目を寄越す青年。その中に、充希に似た箇所をひとつでも探そうとしている自分は歪みなく最低だと思う。  この間OB会で充希と再会してから、自分でもどうかしていると思うが、海外赴任中には感じなかった人恋しさが募って仕方がないのだ。  誰でもいい。目が二つと口がひとつついているあたりが充希にそっくりだ。 「いいよ。行こう」  腿に置かれた手に手を重ねて、微笑む青年の腰を抱く。  手近なホテルに入って、性急に求めると青年は喜んだ。  衣服を脱がせ合いながら深いキスをして、その合間に青年は上がった呼吸で囁く。 「チカって、呼んで。お兄さんの名前も呼びたい。教えて」  名前を呼び合って抱き合えば、恋人同士になれるだろうか?  丁寧にチカの体を解きながら、健は自分の名を名乗った。 「あぁ……タケル、さん……」  恋人にするみたいな優しい愛撫でチカを高めて、挿入にはきちんとゴムを装着して。 「チカ……」  甘く名を呼んで、明るい色の髪を撫でて深くくちづけて。汗ばむほどに互いの体温を分け合って。この相手と長く一緒にいるような錯覚まで覚えて。  それでも、一度奥で達してしまえば悲しく心は冷えた。  違う。でも、何が違うのかもわからない。どうしていいかわからない。だけど、たぶんこれは俺の運命じゃない。  どっちを向いても自分の気持ちが迷子状態で、知らない道に放り出されたみたいな心許なさに襲われた。 「……タケルさん。もう、次はない?」  タケルがスーツを着る後ろで、シーツにくるまったままのチカが細い声を聞かせる。 「うん……悪いけど」  眼鏡を押し上げながら背を向けたまま健が答えると、小さくチカは鼻をすすった。 「そっか。仕方ないね」  チカの声が涙に揺れる。 「タケルさん、優しくしてくれてありがとう。恋人になれたみたいで、嬉しかった」 「……うん」  ベッドサイドのテーブルに紙幣を置いて、健は先に部屋を出た。  わかっていることがひとつある。俺は本当に、最低だ。 「小野原さん」  聞き覚えのある声に、眼鏡を押し上げながら健は顔を上げる。 「橋崎さん」  名を呼ぶと、橋崎はにっこりと頬を染めた。 「何度もすみません。今日は交通費申請の書類の件で」  言いながら橋崎はクリアファイルを健のデスクに置く。  交通費申請はとっくに受理されて、十月の給与で既に支払われているのに、今さら何の不備だろうかと書類を覗き込む。と、ただの白紙に貼られた正方形の大きめの付箋には、きれいな文字が並んでいた。 『今度一緒にお食事でもいかがですか』  おお、と思った。こちらが押さなければ始まらないと思っていたものが、相手からの押しで始められようとしている。  それにしても、社内チャットもあるこのご時世に、こんな古典的な誘い方をこんな若い子がするんだな、と変に感心して健は思わず笑ってしまった。  その笑いを残したまま、にこにことこちらを見ている橋崎を見上げ、愛らしいその顔が凍るのを見たい残酷な欲求に駆られる。  いったい何なのか、この胸の冷えは。 「あー……ごめんなさい」  目を見てはっきりと口にした健に、橋崎は顔色を変える。 「不備、直して後で持って行きますね」 「……お願いします」  口許に浮かべていた笑みを完全に消して、橋崎は踵を返した。  隣から、つんつんと肘で小突かれる。先輩がこちらを見て、にやにやと笑っていた。  いえいえ、今終わったところですよ、とは言わずに健は軽く笑みを返す。  休憩時間に、付箋は白紙ごとシュレッダーにかけた。  人の好意をこんなに平気で裁断してしまえる自分は何なのだろう。  気まぐれに笑いかけて、優しく触れて、振り向いた相手を簡単に突き放す。人として大事なところに欠陥があるんじゃないだろうか。  憧れが眩しすぎて、強い光に暴かれる。自分の中の溶けたアスファルトみたいなどす黒い粘性に目を向けさせられる。  見たくない。見たくない。知りたくなかった。苦しくてたまらない。  充希と再会した日からおかしいのだ。叶わない想いに出口がなくて。  本当は黙って閉じられるような恋ではなかった。充希のことが好きで好きで、捩れそうなほど泣いた夜も一度や二度じゃない。  でも伝えられるはずがなかった。出会ったときから彼の隣には誰もが運命の相手と認める芳井がいて。完璧な二人の姿に憧れて、その一方に自分がなれたらと想い描いて、不可能な現実に打ちのめされて。  今芳井がいなくなって、その座を狙おうにもずっとそこは空席になることはないという。心にいるのだと、言われてしまえばもう健に打つ手はない。  ただの破局だったなら、不在を見澄ますこともできたかもしれないのに。死んだ相手に勝つすべなど誰も持たない。  ちゃんと失恋することもできないまま、この想いも自分の中に燻り続けるのだ。  他の誰も愛せずに。

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