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第4話

「……はー……」  金曜の夜、人もまばらなオフィスでパソコンの電源を落とす。帰国してからの業務と、現地に引き継いできた仕事のフォローとで、なかなかに忙しい日々を健は送っていた。  回した首がパキパキと鳴って、疲労を実感する。こんなときは早く帰って寝てしまえばいいようなものだが、ひと月前のOB会以来、不穏な寂しさにつきまとわれてまっすぐ自宅へは足が向かない。  会社を出て表を歩けば、冷え込んだ道沿いはクリスマスカラーで彩られていて、十二月の風は健にひどくよそよそしい。華やかなその日を共に過ごす相手は今年もいない。  好きな人には、七年ぶりくらいに会って、ほんの数分言葉を交わしただけ。次に会えるのはたぶん早くて一年後のOB会。これからも永遠に他の人のもの。ああもう不毛すぎて笑える。  健の足は繁華街へ向かい、いつものバーへ入ろうかと思ったところで爪先が迷った。  先週の今日で、チカに遭遇したらさすがに気まずい。いや、でもそれならそれで、改心したふりで声をかけてつき合おうと提案してみるのもいいかもしれない。寂しさは埋まるし、体の相性は悪くもなかったし、しばらく一緒に過ごせば相手の気も収まるだろう。  その自分の思考に気づいて、げんなりしながら健は眼鏡を押し上げた。 「いよいよクズか、俺……」  思いきってバーの扉を開け、チカはいないかと確認の視線を走らせる。  と、そこに予想外の姿を見つけて、健は呆然と立ち尽くした。  ――柳瀬、さん?  想いすぎて幻覚でも見ているのかと思った。けれど何度目をしばたいても眼鏡をかけ直しても、バーの端のテーブル席に座っているのは充希にしか見えない。  酔いに頬を上気させて、隣に座る大柄な男の肩にしなだれかかって、くちびるが触れ合いそうな距離で話をしている。  そのしどけない姿に、頭の血管が瞬間的に何本か切れた。後先考えず、大股で充希の元に歩み寄り、その横に健は立った。 「柳瀬さん」  険のある呼びかけに、緩慢な動作で充希は顔を上げた。 「……え、小野原?」  形の良い目が、驚きにまん丸に見開かれる。その腕を掴み上げた。 「何やってるんですか、こんなところで」  動揺と怒りが同時に湧いて、健の声は無様に裏返った。 「何って。おまえこそなんでこんなとこいんの。ここ、ゲイの発展系の店よ? あれ、おまえこっち側の人間だっけ?」  心底不思議そうに見上げられて、健は返事を躊躇う。  健はこの店で以外、自分の性指向を一切オープンにしたことがないから、充希がそれを知らないのは当然だ。たった今ばれてしまったけれど。 「わかってます。だから何をやってるのかと訊いてるんです」 「んん? なんかおまえ怒ってる?」  健に手首を掴まれたまま、充希は困惑の表情を浮かべる。その隣で、大柄な男が席を立った。 「なんかめんどくさそうだから、俺行くわ。そういうの勘弁」 「あっ、待ってよ」  男の後を追おうとする充希の腕を掴む手に力を込める。  戸惑った充希はその手と男の背中とを交互に見比べて、そうしている間に男は勘定を終えて店を出ていってしまった。 「……おぉーい。なに邪魔してくれてんだよ。せっかく手頃な男つかまえたとこだったのに」  口を尖らせて、健の手を振り払った充希はソファーに座ってすらりと脚を組んだ。  健の頭の中は何やらぐちゃぐちゃで、うまく言葉が出てこない。 「なかなかいないんだよ、後腐れなさそうな優良物件。どうしてくれんだよー今夜の俺」 「や、柳瀬さん」  何を言えばいいかわからず、健は眉を寄せて思いつくままに言葉を吐いた。 「芳井さんが悲しみます」  陳腐なその台詞に、充希は表情をなくす。 「……あぁ?」  聞いたことのない、低い充希の声が威嚇したけれど、健は必死に言い募った。 「こんなところでワンナイトの相手を探してるなんて、芳井さんが見たら絶対悲しみますよ。そんな、芳井さんに胸張れないような生き方してちゃだめなんじゃないんですか?」  眼前で、充希はギリギリと眉を寄せ、美貌を崩して目を眇める。怖い、と健が恐怖を覚えた瞬間に、伸びてきた手が健のネクタイに掴みかかっていた。 「おい。恭介がどこで見てるって? いるんなら連れてこいよ、今ここに」  恫喝のトーンで唸りながら、充希の手は健のネクタイを絞め上げていく。 「いねえだろが、あ? いないから、俺はこんなとこで男漁ってんだよ」 「やな……」  呼吸に支障が出るレベルに絞められて、健は焦って充希の両手を押さえた。 「高説、ご立派なことだな。おまえも寂しくて、誰でもいいから一晩一緒に過ごせる相手を探しにきたんだろ? 俺も同じだよ。寂しいから、誰でもいいんだよ」  すわ喧嘩か、と店員がざわめき出したのを察して、充希は健のネクタイから手を離す。そして何事もなかったかのように、ソファにもたれて酒のグラスをくるりと回した。 「やってること変わんねえくせに、説教垂れてんじゃねえよ。気分悪い」  解放されたネクタイを慌てて緩めて、健はグラスを持つ充希の指に指輪を見つける。  外せない指輪をつけたまま、捨て鉢な目をして男を漁るそのちぐはぐさがどうにも痛々しくて、健は下くちびるを噛んだ。  充希が飲んでいる最中のグラスを、横から取り上げてテーブルに置く。「おい」と抗議の怒声を上げた充希と目を合わせて、腹に力を込めるように健は息を吸った。 「誰でもいいなら、俺でもいいですよね?」 「……は?」  虚を衝かれた声が漏れ、呆けた顔で見返してくる充希の手を、健は強く握った。 「行きましょう」 「は!? どこにだよ」 「ホテルです」 「ちょっ……!」  充希の荷物を奪ってダウンコートを押し付け、万札をカウンターに置いて店を出る。鞄を取られているものだから、追わないわけにもいかず充希は後をついてきた。 「おまえ、ふざけてんのか」  さっさと先を歩く健に、剣呑な声で充希は訊いてくる。自分が冷静なのか正気を失っているのかわからないまま、先週チカと入ったホテルの前で健は充希を振り返った。 「ふざけてないです。誰でもいい者同士、利害一致でしょう。俺、後腐れないですよ」  再度手を引くと、充希は疑わしげな視線で健を見上げる。 「ほんとかよ。地雷臭すげえんだけど」 「まあ、物は試しで」  笑って返して、他にも空きはあるのにパネルから先週と同じ部屋を選んだ健は、やはりどこかおかしかったのだろう。

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