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第15話
交代でシャワーを浴びて、ベッドの上で向かい合うと、どうにも照れ臭さと緊張を感じて健はうまく充希と目を合わせられない。
「……なに?」
「いや……なんかすごい、緊張してます」
素直に明かした健に、充希は胡乱げに笑った。
「何言ってんだよ、五十人斬りの猛者が」
その言葉に健はぎょっとした。そうか、そんなイメージなのか俺。
「それはあの、一回限りの人ばっかだったんで。次がないから緊張もしなかったですけど」
取り繕うために言うと、逆効果だったようで充希の眉がぐっと寄って目が据わる。
「……五十人斬りの部分は否定しないのかおまえ。まじなのか」
「えっ? あ、いやあの……」
「いい。おまえの馬鹿正直には慣れた。俺も過去のことをどうこう、小さいことは言いたくない」
ふいとそっぽ向いてしまった充希が、でも、と口を尖らせた。
「……あの子とは、もう飲んでほしくない」
「あの子?」
「あの、いつも店で一緒に飲んでる、可愛い感じの若い子」
「……ああ、チカのこと?」
気安い呼び名で呼ぶのを聞いて、また充希が眉間のしわを深める。
「あの子とも寝たんだろ?」
「でもチカにはもう恋人がいるんですよ?」
「恋人がいたら他とは寝ないってやつばっかじゃないだろ」
「チカはそういうタイプじゃないし、そもそも俺がもうチカとは寝ないですよ」
「信用できねえよ」
言ってしまってから、充希ははっと口許を押さえた。始まったばかりの恋人を信用できないと言ってしまっては身も蓋もない。
言われた健もそれなりに傷ついて、元々ない信用を得るにはどうしたものかと視線を落とす。
「……俺、もう店には行きません。柳瀬さん以外の誰とも、そういうことしません」
「ごめん……おまえの行動を制限したいわけじゃない。しょーもないやきもちだ」
「妬いてくれるのは嬉しいけど、不安にさせてるなら俺のせいだ」
健は充希の指輪のない左手を取った。
「……俺、つき合うのは本当に、柳瀬さんが初めてです。大事にしたいと思ってます。浮気はしない。嘘もつかない。約束します」
握られた手を見つめて、充希はなんとも言えない表情になる。泣きそうな、泣くのを我慢しているような。
いつもならそのまま、物言いたげな瞳を伏せて黙ってしまう。
けれど今日は、頑ななくちびるを解いた。
「……好きなんだ」
もて余した感情を吐き出すように、充希は言った。
「小野原が好きなんだ」
まっすぐな告白が、健の胸を打つ。
くちびるを寄せると、充希は瞼を閉じる。触れるだけのくちづけを、静かに受け入れる。
「俺も、柳瀬さんが大好きです」
ちゃんと言えた。その安堵に微笑み合う。
Tシャツを脱がせてシーツに横たえると、健は充希の体に違和感を覚えた。
「……少し痩せた?」
訊くと、充希は小さく苦笑する。
「ただの夏バテだよ」
違うな、と健は思った。たぶん芳井との別れにあたり、いろいろな葛藤があったのだろう。たぶんそれは、訊いても充希は健には言わない。
こういう、充希の小さな無理や隠し事を、これから自分は注意して気づいていかなければならないのだろう。
もう二度と、充希を孤独の中に取り残したりしたくない。小さな綻びもすべて拾って、残さずこの手で繕いたい。
「肉、食いに行きましょうか。スタミナつけないと」
今は無理には暴かず、健はそっと痩せた肩を撫でる。
「肉かぁ……三十過ぎると重いんだよな」
「じゃあ香川にうどん食いに行きましょう。柳瀬さんには脂質と糖質が必要です」
「太らそうとするなよ、気を付けてるのに」
笑って、充希は健の背中に腕を回した。
「……でも、おまえとどっか行くの、楽しそうだ」
「うん。夏期休暇、何か計画しましょう」
明るい提案に充希は頷いて、二人は深いキスを交わした。
*
一年が経ち、健は充希と共に芳井の墓を訪れていた。
相変わらず梅雨明け後の日差しは強烈で、今年は充希が日傘を持参していた。
「日傘男子とか軟弱だと思ってたけど、命には代えらんねえからな」
充希が笑いながらそう言っていた通り、日傘がなかったら熱中症の危険性がかなり高かっただろうなと、竜胆の花束を持った健も実感する。
花を供え、線香を上げて、枇杷の木の陰で充希は長く手を合わせている。その左手と、健の左手には、揃いの指輪が光っている。つき合い始めて少し経った頃に、健がプレゼントしたものだ。
長くつけていたから、何もないのになかなか慣れないと、充希はその指を頻繁に気にしていた。気になること自体を、健に気を遣って申し訳なさそうにしていたから、それで落ち着くならとシンプルなペアリングを健は贈った。
贈られた充希は、驚いたあと、何も言わず暫く静かに泣いていた。健も黙ってその肩を抱いていたけれど、たぶん、単純な喜びの涙ではなかったと思う。
この一年、順風満帆で来たわけではない。つき合い始めた翌日にすら、もう充希は健を巻き込んだことを後悔していた。
――ごめん……あんなこと言ったけど、俺も結局ここから動けない。あいつの遺影は手放せないし、命日には墓にも参る。忘れろって言われても忘れられないし、それがおまえの重荷になるなら、やっぱりやめておいた方がいいと思う。
そう言って背を向けた充希を、健はそっと抱き寄せた。
――忘れろなんて言いません。俺とどっちが、なんて比べることもさせません。俺も競ったりしない。芳井さんを想うのとは別の心で、ちゃんと俺を好きでいてくれたらそれでいいです。
そう返した健に、充希は甘やかしすぎだと泣きながら笑った。健は充希のことならいくらでも甘やかしたかった。何も不安に思うことのないよう、目一杯愛したかった。
それでも、不安定な充希の心は些細なことでたびたび陥穽にはまりこんだ。
二人の夜に芳井を夢に見てはすまながって泣き、いつまでも遺影を目で追う自分を詫び、何度も健から離れようとした。そのたびに健は充希を呼び止め、辛抱強く抱き、大丈夫だからと説き伏せた。けれど、時に頑なな充希の肌を無理に開いて、泣かせたこともある。
健にも充希にも、決して楽な恋ではない。互いに傷つけ合っては、癒し合う繰り返しだ。
それでも、二人は一緒にいる。
「健、お待たせ。行こうか」
長く合わせていた手を下ろし、充希が立ち上がって振り返る。
「はい」
穏やかな笑みに笑みを返して、健は日向に歩み出た充希に日傘を差しかけた。
「何を話してたんですか?」
駅までの帰り道、健は充希に問う。少し考えて、充希ははにかんだ笑みを浮かべた。
「……いろいろ。主におまえのことだな。嫉妬しても、おまえのこと呪い殺したりしてくれるなよ、とか」
「え。俺呪い殺されちゃうかもしれないんだ」
「だから、そんなことすんなよって言っといたの」
発想が独特で、健はクスクス笑う。そして、やはり充希にとって芳井は、まだ実体に近い存在なんだな、とも感じる。
けれどその気持ちに痛みはない。
「もし呪い殺しに来られたら、なんてお伝えしておけばいいですか?」
戯れに訊くと、えー、と充希は困りながら笑った。
「じゃあー、これ以上俺を泣かすなって言っといてくれ」
そして少し、目を細める。
「……さすがにおまえにまでいなくなられたら、たぶん俺無理だから」
その微笑みに、健の胸がきゅっとなる。
それと同じ強さで、健は充希の手を握った。
「……充希さんより半日くらい長生きできるように、努力しますね」
他に人通りはないとはいえ、往来で握られた手に惑いながら、けれど充希はその手を握り返した。
「はは。……うん、頼むわ」
どちらからともなく、繋いだ手を離す。離れても、寂しくはない。必要なときに、また繋ぐことができると知っているから。
「帰ったら、ピアノ聴かせてくださいね」
健のおねだりに、うん、と充希は頷く。
「おまえもなんか弾けよ。昔作った曲とか。覚えてる?」
「そりゃ覚えてますよ。充希さんが好きだって言ってくれた曲だもん」
「? 俺そんなこと言った?」
「あ、忘れられてる。言ったんです確かに」
そこから長い片恋が始まったというのに、言った当人は暢気なものだ。
「……いいですけどね。俺は忘れないから」
あの頃、充希が意識せずにかけてくれた言葉が健を救ってくれたことも。
そしてあの頃、今みたいに充希と並んで歩ける自分を想像することすらできなかったことも。
自分だけが覚えていればいいと、健は思う。
充希の傍にいられさえすれば。
この恋は、たぶん運命じゃない。
だけど、あなたの隣で時を過ごせるなら、運命なんかじゃなくてもいい。
来年もきっと、この道を二人で歩く。
暑さにうんざりするのが楽しみだ。
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