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第14話
一週空けて、健は充希の部屋を訪れた。呼び鈴を押すが、暗い部屋にいるのかいないのか、ドアが解錠される気配はない。
二度と来るなと言われた。だから、こうして健が充希の部屋を訪れたことは、充希の言いつけを破っていることになる。
充希が不快に思うことはしたくない。だけど、このまま本当に終わりだとも思いたくなくて、会ってもらえなくても健は充希の部屋に向かう足を止められない。電話もラインも通じないから、こうするより他に手立てがない。
けれど、そこから空振りが三週も続けば、さすがに健の心も折れてくる。毎週開かないドアの前で三十分ほども佇んでいる人間のことを、世間ではストーカーと呼ぶのではないだろうか。
ふと外階段をカツカツと上がってくる足音がして、充希かと期待を込めて振り向くとそれは別の住人で、通り過ぎるまでその視線を背中に強く感じる。
(……やべ、俺そろそろ通報されるかも……)
もうそこで待つのは諦めて、健は階段を降りた。歩き始めると、夜でも暑く湿った空気が纏わりついて、じっとりと肌が汗ばむ。
もう、本当に終わりなのかな、という考えが頭をよぎった。
それも仕方ないことだとは思う。自分が傷つけて、怒らせた。自分勝手な嫉妬を押しつけて、充希の在り方を侮辱した。
反省したことを伝えたい。もう一度きちんと謝りたい。二度と充希の生き方に口出ししないから、傍に置いてほしいと頼みたい。受け入れられなくても。
でも、もう伝えることすら叶わないのかもしれない。もう充希は健に会うことを望んでいない。
失恋確定が濃厚になって、一人で過ごすには忍びずに健はいつものバーに向かう。久々に適当な誰かとホテルに行くのもいいかと、やさぐれた気持ちで考える。
けれど、そんな考えはバーの扉を開けたとたんに霧散した。
「……柳瀬さん……」
バーのカウンターに、充希がいた。何杯目かわからないグラスを手に、その腕に突っ伏すようにして。
「タケルちゃん、その子あんたの連れじゃないの?」
カウンターの中から、マスターが声をかけてきた。
「ここ最近、一人で潰れるまで飲んでるわよ」
「……そうなんですか」
「変なのに連れてかれないように、見張っといてやらなくていいの?」
「……」
声をかけることが正解なのかがわからないながら、放っておくこともできず、健は充希の隣に歩み寄った。
「……柳瀬さん。ここで寝ちゃだめです」
肩を揺らすと、うーん、と唸りながら充希が薄目を開ける。そして健の姿を認めると、ふわりと花が開くように笑った。
「……やっと来た」
「え?」
その笑みと言葉の意味に戸惑っていると、充希がスツールから立ち上がる。けれど体は酔いに傾かしいで、とっさに健が手を伸ばすと、充希は健の首に抱きつくようにしがみついた。
「俺を一人にしてんじゃねえよ。俺とつき合いたいんじゃなかったのかよ」
酒臭い息で言って、そのまま体を弛緩させて寝息をたて始める。これは話にならない。
「あの、マスター。この人連れて帰るんで、お会計……」
「はいはい。あんたも大変ねー」
苦笑いされながら勘定を済ませ、ほとんど熟睡状態の充希を背負って店を出る。幸いすぐにタクシーを捕まえることができて、開いたドアに充希を押し込んだ。
窓に頭をもたれさせて、車の振動に合わせてゴンゴンぶつけながらも、充希は起きる気配がない。それでも充希のアパートに着き、再度肩を揺すると、先程よりはしっかりした様子で充希は目を覚ました。
「柳瀬さん、家着きましたよ。鍵あります? 階段はさすがに自分で歩いてくださいね」
「んー……小野原?」
「……すみません、もう来るなって言われてるのに。行き掛かり上やむなく」
タクシーを降りて肩を貸して支えると、ふらつきながらも充希は自力で階段を上がって部屋の鍵を開けた。
靴を脱がせて、相変わらず殺風景な部屋に連れ込み、なんとかベッドに座らせる。思わぬ重労働に、健は汗だくだった。
「はぁ。じゃあ柳瀬さん、俺帰りますね。ちゃんと鍵かけてくださいね。水も飲んでくださいね」
ずれた眼鏡を押し上げてエアコンをつけて、未練を断ち切るように健は充希に背を向けた。
ふと、いつもの癖でつい本棚の中段に目が行く。そして驚きに、帰ろうとしていた足が止まった。
……骨壺がない。芳井の写真だけだ。
「小野原」
背後で、低い静かな声が健を呼んだ。
振り返ると、感情の読めない表情でじっと充希が健を見上げている。
「あいつとは別れてきたぞ。フリーの俺を、おまえはどうしたいんだ」
言われ、見れば充希の左手には指輪もない。
別れた? 芳井さんと?
混乱して、健は額に拳を押し当てた。
「……まさか。別れるなんて、柳瀬さんにそんなことできるはず……」
すると充希がふらりと立ち上がり、本棚にある写真立てを伏せるように倒した。
部屋から、芳井の気配が消える。
「俺は、恭介とは別れた。おまえは?」
酔っ払いの戯れ言にはとても聞こえない。本当に柳瀬は芳井と別れ、そのあとのことを健に問うているのだと知った。
「……俺、は……」
まだ混乱したままの頭で、健は必死で言うべき言葉を探す。
「……俺は、芳井さんみたいに、あなたを幸せにすることができない。家族から絶縁されてるんです。紹介するどころか、俺自身が会うこともできない」
前髪を掴む。その髪の下に、六針縫った傷跡を健は隠している。
「それに、俺は実生活では自分がゲイであることを伏せて生きています。友達にだってオープンにはできない。俺は芳井さんみたいな運命的な恋人にはなれません。俺とつき合っても、柳瀬さんは幸せになれない」
そう言った瞬間。健の襟元に、充希の両手が伸びてきた。
すごい力で掴み上げられ、押しやられて健はしたたかに背中を壁に打ちつけ、ダンッと大きな物音が立つ。
「おまえらの言う『運命』って何なんだよ!?」
眼前で、充希は叫んだ。剥き身の怒りを至近距離でぶつけられて、健は目を見開く。
「おまえが俺の運命の相手じゃないって言うなら、恭介だって運命なんかじゃなかった。あいつがああいうオープンな性格だったから、俺たちの仲はたまたま周りの理解を得られてたけど。そもそも俺はカミングアウトしたいなんて一度も言ったことも考えたこともない。そこの考え方も本当は合ってなかったし、あのままあいつが生きてたらいつか喧嘩別れしてたかもしれない、普通の恋人同士だったよ。俺にとってはあいつもおまえも同じ、ただの『好きになった人』だよ!!」
喉を切る声で叫んで充希は、健に口を挟むことを許さないかのように、襟首を引き寄せて噛みつくようなキスでくちびるを塞いだ。
「……っ!」
充希の言葉と行動に理解が追い付かず、健はそのキスに満足に応えることもできない。
受け入れてもらえなかったキスを解いて、充希は健の胸に額を押し付けた。
「求めてくれよ……引かないで、俺をおまえのものにしてくれよ……」
その肩が、弱く震える。
「……俺を、あいつと一緒に殺さないでくれ」
泣いた、か細い声に、ようやく健は充希が抱えていた寂しさの正体を知った。
芳井と充希の関係を知る誰もが、口を揃えて二人を運命の恋人同士だと言った。それは二人が共に生きている頃は、間違いなく最大級の賛辞だった。
けれどその片割れが逝き、遺された充希にいつまでもその賛辞が送られ続ける。亡き恋人を偲んでひっそりと生きる、貞淑な寡夫であり続けることを強要するのと同義の声。
そうあるべきと、充希自身も自分を縛る呪詛を受け入れ、小さく線で囲った孤独の中に追い込まれていく。
――気を遣わないで。俺はもう大丈夫だし、恭介は今も俺の中にいるから。
周囲が望む自分を演じて、聞きたがりそうな台詞を吐いて。自分の新しい恋や愛など、誰も望んでいないと、ないものにして。
そうして、独りで充希が抱え続けた寂しさとは。
「――俺、だったんですね」
他ならぬ自分が与えたものではなかったか。
「俺が、あなたの幸せを決めつけて、自分じゃだめだって諦めてたから。俺の意気地のなさが、あなたを寂しくさせてたんですね」
触れがたく、健は充希の背に触れた。
「……ごめん」
震える背に一度触れてしまえば、その肩を抱かずにはいられなくなる。
「ごめん、柳瀬さん」
強く抱いて、健は充希の肩に鼻先を埋めた。
「俺と、つき合ってください。俺と一緒に、幸せになってほしい」
健の腕の中で、充希はしがみつくように強くその背を抱き返し、はっきりと頷いた。
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