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第13話
「こんにちは、お母さん」
声をかけると、もうすぐ還暦を迎える志津子 は振り返って破顔した。
「あらあら、早かったのね。もう恭介のところには行ってきたの?」
「はい、さっき。すみません、すっかりご無沙汰してしまっていて」
「いいのよ、お仕事も忙しいんでしょう。さ、早く上がって、暑かったでしょう?」
志津子に背中を押されるようにして、充希は家に上がった。
冷房の効いた仏間に向かい、仏壇の前に座って線香を上げ、鈴を鳴らす。遺影がこちらに笑いかけていて、少し不思議な気分になる。さっき墓でも会った気がするのに、またここでも顔を会わせるんだなと。
あんな暑いところより、芳井はこの涼しい部屋の方でくつろいでいそうだ。
「どうぞ」
手を合わせ終えたタイミングを見計らって、志津子は充希に冷たいお茶を出してくれた。
「ありがとうございます、いただきます」
一気にグラスの半分ほどを飲み上げた充希を、志津子は微笑ましく見つめている。テーブルにはお代わりを想定して、ガラスの冷水筒が置かれていて、充希がグラスを置くと注ぎ足してくれた。
「……去年の今頃は、三回忌でバタバタしてたわね」
「そうでしたね」
「一年、あっという間に経ってしまったわ。充希さんもそんなふうに思う?」
「……そうですね。早いですね」
同意して頷いた充希に、志津子は軽く頭を下げる。
「去年は三回忌に来てくれて本当にありがとう。恭介は喜んだだろうけれど、あなたには知らない親戚ばかりの中で気詰まりな思いをさせたんじゃないかと申し訳なく思っていたの」
「いえ、そんな。呼んでいただけて、僕も嬉しかったです」
心底そう思っているのに、志津子はどこか寂しそうに笑った。
「……あのね、充希さん」
志津子が自分のてのひらに視線を落とす。今日ここに呼ばれた本題が始まるのを予感して充希は身構えた。
「あなたにお渡ししている、恭介の遺骨」
「あ、はい」
「あれをね、お墓に納めようと思うの。返していただけないかしら」
「え……」
充希の心臓が、自分でも聞こえるほどに大きく脈打った。
「そ……それは、僕が持っていることに、何か問題があるとかそういう……?」
動揺して問うた充希に、志津子は優しく笑んだまま首を横に振る。
「そうじゃないの。充希さんが持っていてくれたら、恭介も嬉しいだろうとは思うの」
でもね、と志津子は目を伏せた。
「いつまでもそのままであることを、あの子も望んではいないと思うわ」
芳井は母親似だった。充希を見つめる優しい眼差しに芳井の面影が重なって、充希は言葉が出なくなる。
「あなたが傍にいたいと言ってくださったから、託してしまったけれど。それではあなたが、いつまでもあの子に縛られてしまう」
そんなふうには少しも思っていないと、充希はくちびるを噛んで首を振った。
「三年前の時点で、本当はもう充分だったのよ。あなたは充分、恭介と一緒に生きてくださった。これ以上あなたを縛るようなものを、本当は渡すべきじゃなかった」
違う。縛られてなどいなかった。むしろ、その存在にどれだけ救われてきたか。
「お母さん、僕は……」
「あなたはまだ若いんだもの。これからだって素敵な人といくらでも出会えるわ」
志津子は少しおどけたように言って、指輪のはまった充希の左手に両手を重ねてきた。
「だからもう、お願いです。ご自分の人生を生きてください」
ね、と志津子は、念を押すように優しく笑って小首を傾げる。
最期に触れた芳井の手があたたかかったことを、不意に充希は思い出した。
気づいたら充希は、自分の部屋のドアに鍵を差し込んで、解錠しようとしているところだった。
ここまでどうやって帰ってきたのか、よく覚えていない。けれど空は夕焼けに染まっていて、もうじき日が暮れる時間なのはわかった。
入った部屋は昼間の熱気がこもっていて、充希は窓を開け放つ。遠くで、防災無線から夕焼けこやけが流れ始めた。
「……恭介」
呼び掛けながら、白磁のつややかな壺を充希は撫でた。
「もうすぐさよならしなきゃだ」
この壺を、近々実家へお返しに行くと、充希は約束してきた。それでよかったかどうかが、充希にはわからない。
手放そうとしていることを、怒らないかな。悲しまないかな。何て言うかな。
訊いたって、応 えはない。けれど、充希の耳には芳井の声が残っている。
――俺がいなくなっても、俺はおまえに、幸せでいてほしいよ。
充希が何度も聞き入れるのを拒んだ言葉。あのときの充希は、芳井のいない幸福なんか少しもほしくなかった。
でも、芳井は一人で生きていく充希の寂しさを、ちゃんと考えてくれていた。再び充希が誰かと歩むために、何が障壁になるかも。
そうだ。認めたくなかったけれど、充希も本当はわかっている。最期の瞬間、充希の左手に触れた芳井が何をしようとしたのか。
「……恭介、おまえあのとき、俺の指輪を外そうとしたな」
それがわかったから、充希はとっさに阻むように芳井のその手を握ったのだ。それを見た芳井は、仕方ないやつだなって言うみたいに微笑んで、そのまま目を閉じた。
「恭介。……なあ、恭介」
充希はもう三年も、芳井が望んだ自分になろうともせずにいた。
「なんでいないんだよ……一生、一緒にいるって言っただろおまえ。俺の一生はどこにやっちまったんだよ」
小さな白磁の壺を、充希は胸に抱く。
「寂しいよ……寂しい。誰かに一緒にいてほしい。もうおまえとも一緒にいられないのに。でもだめなんだ。俺の運命の相手はおまえだから、みんな俺の相手はおまえじゃなきゃだめだって言うんだ」
芳井との恋を崇高なもののように言われて、全く誇らしくなかったかと言われればそうではない。けれど、芳井がいない今、それは充希に対する重圧になっている。
――運命だから。
――柳瀬さんには芳井さんしかいないから。
無邪気な憧憬が、充希を独りにする。
「……俺はもう、誰かといることを望んじゃだめなのかな。俺はあのとき、おまえと一緒に棺桶に入ったのかな」
一緒に死ぬことを求められているようで苦しかった心が、生きたいと悲鳴を上げている。
誰と生きたい?
思い浮かぶ相手は一人だ。
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