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第12話

 三ヶ月ぶりに一人で過ごした金曜の翌日、充希は早朝から電車を乗り継いで芳井の地元を訪れていた。  数日前に梅雨明けしたとたんに照りつける日差しは凶悪で、霊園まで歩きながら噴き出す汗を充希はしきりに拭った。  喪服までは必要ないかと、黒いシャツで来たけれど、その背中が熱を吸収して焼けるようだ。 (恭介んちにたどり着くのと、俺が熱中症でぶっ倒れるのと、どっちが先だろな……)  汗を拭うハンドタオルでパタパタと扇ぎながら、ようやく霊園に着く。  近くを清流が流れる広い墓地は、ところどころに大きな木が植わっていて、『芳井家之墓』と刻まれたその区画は、ちょうど枇杷の木の陰になっていた。  入り口に置かれた手桶に水を汲み、墓の前に立つと、既に墓は清められて鮮やかな新しい花が飾られている。遺族が飾ったのだろうそれを邪魔しないよう、充希は持参した青いトルコ桔梗の花束を花立ての隅に挿した。  木陰に入ると、いくぶん暑さが和らいで涼やかな風も抜ける。汗が少し冷まされて、充希はほっと息をついた。  蝉の音がうるさい。でも、それ以外聞こえないくらい静かだ。 「……三年も、経ったんだな」  充希は墓石の側面に刻まれた恋人の名を指でなぞった。刻まれたばかりのときは指が切れそうなほど鋭角だった刻面も、心なしか角が柔らかくなったように感じる。 「時間は過ぎるもんだな。俺だけもう三十路だよ。おまえは写真の中で変わんないのにさ」  線香を出して、ライターで点火し、細く煙を立ち上らせるそれを線香立てに浅く突き刺す。この煙はどこまで届くのだろう。  膝をついて手を合わせて、長く充希は目を閉じた。  至って強引に、充希に幸せを(もたら)してくれた光の強い瞳。何だったんだろう、あの無闇な説得力の強さは。  つき合うきっかけも芳井からだった。 『おまえ、俺とつき合った方が絶対いいよ』  何が根拠だったのかまるでわからないが、それまで性指向すら明かしたことのなかった充希を捕まえて断言する芳井に、充希は頷く以外の選択肢が見つからなかった。  友人たちにあっけらかんとカミングアウトしたとき、自分の両親に引き合わせて恋人だと紹介したとき、充希の両親に会わせろと騒いで顔合わせの場であっという間に意気投合したとき。  そのどれも、充希は心臓が止まるかと思うほど驚いて不安で怖くて、なのにどういうわけか丸く納めて充希を安心させてくれる芳井のことが、最後まで充希は理解できなかったように思う。  あれは人智を越えている。あんなやつはそういない。特別な人間なんだと、充希は思っていた。  だから、芳井が癌告知を受けたときも、なんだかんだ芳井なら克服してしまうのだろうと、充希はどこかで考えていた。  実際、芳井は治療に前向きだったし、強い副作用にも弱音は吐かなかった。  けれど、病は進行した。  どんなに治療を施しても、快方へは向かわない。体力は落ち、逞しかった体躯は痩せ衰え、瞳から強い光が消えていく。  約一年間の闘病生活。後半半年くらい、充希はずっと怖かった。ここに転移した。次はここに。自身の病状を冷静に話す芳井の声を、まともに聞くことができないほどに。 『充希。お願いだ、聞いてくれ』  何度も芳井は、充希に根気強く話をした。 『俺がいなくなっても、俺はおまえに、』  そしていつもその話を充希は拒絶した。 『俺には恭介だけだ。今までもこれからも、恭介だけだ。だめだって言わないでくれ。俺がそうありたいんだ』  そう繰り返した充希はまだ、芳井のいない世界を知らない。  そして、最期のとき。  芳井は充希の左手を取って、その手を充希に握り返されて、息をついて逝った。緩和ケアの鎮静剤が効いて、ぼんやりとはしていたけれど、ちゃんと充希と目を合わせて微笑んでくれた。  泣いて、泣いて。  四十九日が終わるまでの忙しい時期を乗り切ったあとに、ぽかんと空いた間隙に充希は捕まった。  二人で一緒に長く住んだ部屋に、一人でいることに気づいて。ソファーもベッドも、もう使うのは自分だけだと知って、耐えられなくなった。  衝動的にすべて処分して転居して、けれど、そこでも絶望的な寂寥感に苛まれた。  今までもこれからも恭介だけだ、なんて、自信過剰もいいところだった。そんなに充希は強くない。  寂しさに、いっとき他の男の肌を求める。そのあとの寂しさを増幅させると解っていて。  そんなふうに自分を粗末にすることを繰り返していれば、そのうち芳井の傍に行けるんじゃないかとも思っていた。殴られても犯されても、充希は平気だった。  だけど、充希はあの声を聞いてしまった。  ――だめだよ。やっぱりだめだ。こんなことしてちゃだめだ。  暴力を受けた自分より、もっと痛むような表情で。ひとり暗がりで膝を抱えていた充希を、引っ張り立たせてくれた。  もしかして、という想いは、充希の中にもあった。  もしかして、健が自分を恋人にしてくれるのではないか。芳井の不在を埋めてくれるのではないか。朗らかで優しい健の恋人になれたら、どんなに幸せだろう。  そんな期待を秘めた三ヶ月間は楽しかった。  なのに、充希を好きだと言うくせに、健は一向に充希の手を取りに来ない。自分で勝手に引いた線を律儀に守って、その向こうから居ない芳井を羨ましそうにただ見ている。  あまつさえ、下手な煽りで充希を傷つけようとした。 (……くっそヘタレが)  思い出すとまた腹が立って、充希は墓前から立ち上がった。  芳井の実家には午前中のうちに伺うと伝えてあるから、そろそろ向かわなければならない。 (あいつ許さん。絶対許さん)  日差しの暑さと怒りに押されて、バス停へ向かう足はどんどん早まる。  二度と来るなと言った。馬鹿正直にあの男は、その言いつけを守ってもう来ないかもしれない。  来なくなって……そのあとは?  バーのカウンターで、健の隣で和やかに飲んでいた青年を思い出す。大学生くらいだろうか、まだ幼い感じの、可愛い顔をした子だった。闊達で明るくて、充希とは違うタイプの。  あの子も健と寝たのだろうか。口ではモテないようなことを言っていたが、かなりの経験人数みたいだし、あいつはたぶん天然の人たらしだ。ああいう店にいるだけで、相手の方から寄ってくるに違いない。顔もいいし、話もうまいし、しかも経験がものを言うテクニシャンで、優しくて――  要するに、充希と過ごす時間がなくなったところで、健は相手には事欠かないのだ。 (ムカつく。まじムカつく。なんだあいつ。俺のこと好きだって言ったくせに)  自分を抱いたのと同じ腕が、ほかの誰かを抱くところを想像するだけで胸が悪くなる。  健のことを考える度に、本当に腹が立つ。なんで自分がこんな気持ちにならなければならないのか。腹が立った勢いで、充希は健の番号を着信拒否して、ラインもブロックしてしまっていた。  バス停に着いて、ほどなく到着した路線バスに乗って住宅地へ運ばれる。そこからまた少し歩くと芳井の実家があり、その門扉のところで芳井の母は掃き掃除をしていた。  ――どんな顔して芳井さんのお母さんに会いに行くんですか?  健に言われた言葉が耳に返って、むかっ腹を押さえ込んで精一杯の穏和な笑みを充希は作る。  どんな顔ってこんな顔だよバカが。

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