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第11話

「……爛れている」  バーのカウンターでジントニックを前に、健が眼鏡を押し上げながら真顔で呟くのにチカは目を丸くした。 「なに、どうしたの。酔ってる? うまくいってるんじゃなかったの?」  機械的にチカの方を向いて、健は酒を呷る。 「うまく、いってる。と思う。こんなはずじゃなかった」 「はぁ? やだね、なんかおかしなこと言い始めたよこの人は」  辟易と、チカは健からグラスを奪った。 「この間も泊まった翌日に一緒に映画行ったんでしょ? いいじゃん、普通にデートじゃん。何も爛れてないじゃん」 「そういう、そんな夢みたいなことを、できる予定じゃなかったんだ俺はあぁ……」 「いやー、もうなに言ってんだかわかんない」  奪われた酒をチカに飲み干されて、健はカウンターに額をぶつけた。  充希の部屋に通い始めて、三ヶ月が経とうとしている。今のところ、毎週末欠かさず、皆勤ペースで足を運んでいる。  当初はセフレとして割り切って、充希がよその男を求めるのを防止する役目でしかないつもりだった。それでいいと思っていた。  ところがふたを開けてみれば、充希の部屋で過ごす時間はひどく居心地がよく、充希は健によく笑いかけ、ときどき無防備に甘えてくる様はまるで恋人のようだ。  先日は二人で検査機関に出向いて、HIVの検査を受けた。最初一人で行くと言っていた充希に、どうせならついでに自分も検査してもらおうかなと同行を申し出たところ、好きにすればと愛想なく返すわりにどこか充希は嬉しそうだった。  結果は二人とも無事陰性。たぶん採血をした看護師は、二人のことをパートナーだと思い込んだことだろう。  そして、体の相性は頗る良い。技巧派を自認する健だが、目下再開発中の充希の体は健仕様に作り替えられて、毎回お互いに信じられないくらいの快感を得られていた。  終わると意識朦朧の充希を抱いて、狭いパイプベッドで身を寄せ合って眠る。充希の体をいたわって、背を撫でながら。  そんな生活が三ヶ月も続いて、だめだと自制をかけながらも健はつい、現状実質つき合っているようなものではないかと思い始めてしまっていた。  優しくしたい。充希を愛したい。このまま、既成事実を積み上げて恋人関係へなし崩していきたい。  思い上がった自身のその思考を諌めるために、健は『爛れている』と評したのだ。  相変わらず充希の左手には白銀色の指輪が光っている。部屋には芳井の遺影が飾られ、その隣には充希自身が望んで分骨してもらった遺骨がある。それらに埃が積もっているところなど見たことがない。そんな状況で、そんな暢気な発想になれる自分がいやだった。  芳井と充希の関係を目の当たりにしておいて、自分が充希の恋人になれるなどとは、冗談でもおこがましい。芳井と違って自分では充希に何も与えてやれないし、幸せにもしてやれない。  ――じゃあ、離れる?  たった一日、連絡なしに金曜の訪問をやめてしまえば、この関係は簡単に終わる。充希が求めているのは健ではなく、芳井の不在の寂しさを埋めてくれる存在だ。  ――無理だよ。離れられない。  腕の中で笑う彼も、泣く彼も、離したくない。自分のものじゃなくても。  ぶる、と携帯が震えた。見れば、充希からのメッセージ通知。 『今日は来ないのか?』  顔の見えない文面では、充希が寂しがっているのか、来ないならそれでいいと思っているのか、真意が掴めない。後者でなければいいと、願うことしか健にはできない。 『遅くなってすみません。もう少ししたら行きます』  メッセージの意図を問うことはできず、それだけ返信して携帯をしまう。  チカに先に帰ると告げて、健は店を出た。酔いを醒ますために、梅雨明け間近の湿ったぬるい風に当たりながら駅までの道を歩く。  ふとあの路地に差し掛かって、健は足を止めた。傷だらけの充希が、健の名を呼んだ場所。  あの夜はまだ寒かった。あのとき充希が助けを求めた相手が自分で、本当によかったと思う。タクシー代だけ渡して帰すような相手じゃなくて。  そこから移動して、充希の部屋に着いたのはもう十時近くなっていた。それでも呼び鈴を押すと、間を置かず内側から鍵が開く。 「……お疲れ」  いつものように扉から顔を出して、充希が笑う。その笑顔が少し、今日は弱って見えた。 「すみません、遅くなりました」 「ううん。上がって」  靴を脱いで部屋に入って、健は充希の手を取る。それを合図に、向き合って充希が健を仰ぎ、瞼を閉じる。ここ三ヶ月で、お決まりになった来訪の挨拶。  深まらないキスを解くと、充希が少し惑った様子で健を見つめた。 「……飲んできた?」  醒ましてきたつもりだがさすがにキスすればばれるかと、健は口許を覆う。 「すみません、少し」 「謝ることじゃないだろ、俺が無理につき合わせてんだし。金曜の夜くらい飲みにも行きたいよな」  無理につき合わされているなどというつもりは全くない、と言う前に充希は健から体を離してしまう。 「……あの、いつもの可愛い感じの子と?」 「え?」 「さっきまで一緒に飲んでたの。あの茶色い髪の、若い子?」 「あ、はい」  バーでチカと一緒に飲んでいるときに充希が店に居合わせることもあったから、健と親しくしている相手であることは充希も知っているはずだ。  それでも、健が誰と過ごしていたかを探るようなことを今まで充希が口にしたことはなかったので、イレギュラー対応を間違えて健は馬鹿正直に肯定してしまう。 「……ふぅん」  素っ気なく返し、充希はベッドに腰かけた。 「来週だけど、来なくていいから」  その素っ気ないトーンのまま充希が言うのに、思わず健は下ろしかけていた鞄を床に取り落とした。 「……それ、は、もう終わりってことですか」  一瞬で心臓が動悸して、貧血を起こしそうだった。  そんな健を見ることもしないで、床を見つめて充希は「いや」と否定する。 「土曜に出掛ける用事があるから。朝早いし、来なくていいっつってるだけ」  そう言いつつ、きゅっとくちびるを噛む。 「……おまえが終わりにしたいなら、それでもいいけど」  呟いて、充希は完全に俯いてしまった。 「柳瀬さん……」  そんな物言いはまるで充希らしくなくて、健はワイシャツの襟元を緩めながら充希の隣に座る。肩を抱くと、体は素直に寄り添った。 「何かありました?」  切られる心配はないことに安堵してしまえば、あとはいつもと様子の違う充希のことがただ心配で、健の肩に頭を預けた充希の髪を撫でる。こんなふうに気落ちした姿を見るのは初めてだった。 「……次の土曜、恭介の命日なんだ」  ぽつりと、充希は呟く。  気落ちの訳を話してほしかったけれど、その言葉に健は動揺して、髪を撫でる手を止めた。 「三年目で、法事とかもないし、一人で墓参りしておしまいにしようと思ってたんだけど。向こうのお母さんから、実家に寄ってほしいって招かれてて」  健の胸に耳を寄せて、充希は目を閉じる。 「……会うと、どうしたっていろいろ思い出す。だから、ちょっと気が重い」 「……そうですか」  無感情な相槌が勝手に口からこぼれるのを、健は聞いた。 「小野原?」  問う声を聞かず、健は充希の体をベッドに押し倒す。 「や……ちょっと、待っ……」  少しの抵抗をするけれど、馴れた体はすぐにキスも愛撫も受け入れて反応し始めた。  部屋着の裾から入れた手で胸を刺激しながら、もう片方の手で下着ごとスウェットを腰骨まで引き下げて半勃ち未満程度のものを無遠慮に扱きたてる。 「んっ、ん、あ、小野原、やだ……」  こんなふうに一方的に煽ることはしたことがなくて、困惑げに充希も抗議した。けれど性感の在処を知り尽くしている健によって欲を晒され、充希はあえなく追い上げられてしまう。 「あ……ぅ……っ」  ぎゅっと目を閉じて、充希は健の手を濡らした。  その手を見つめながら健は、冷酷な気持ちが自分の胸を満たしていくのを感じていた。 「……こんなんなのに?」  低い、皮肉に歪んだ声が口をつく。 「え……?」 「俺にさわられたらすぐこんなになるくらい、俺とエロいことすんのが大好きなくせに? 芳井さんじゃない男にさわられて悦んじゃってるくせに? どんな顔して芳井さんのお母さんに会いに行くんですか?」  見下ろした先で、紅潮していた顔が驚きの表情を浮かべ、赤みが引いていくにつれて眉が寄った。  あぁ、傷ついている。傷つけている。なんでこんなことを言っているんだろうと、思うのに止められない。 「あれですか。芳井さんのことは特別枠だから、よそでなにやったって二人の思い出は汚れないとかそういうことですか。いいなぁ、お得ですよね、運命枠持ってると」 「なんだよそれ……」  ティッシュで雑に手を拭いながら投げやりに言う健を睨んで、ぎりっと、充希が歯を食いしばった。 「そんなの、おまえらが勝手に作ったイメージじゃねえか。おまえらは、そういう俺を求めてるんだろ? 死んだあいつをいつまでも健気に想って貞淑に生きていく俺がいいんだろ? 俺はそうあるべきなんだろ?」  体を起こし、充希は健の胸倉を掴んだ。 「だけど違うんだよ。そんなんじゃないのに、おまえも俺を好きだって言うだけ言って突き放す」 「突き放したりなんかしてない!」  充希の手を振り払って、健はベッドを降りた。  この部屋で目に入るのはいつもいつもいつも、遺影と骨壺と充希の左手だ。  気にしないようにしてきた。大丈夫だと思おうとした。でもそんなの無理だった。  どんなに充希が自分に向けて笑ってくれても、ここには確かに芳井がいる。充希の気持ちが芳井に向けられていることを感じずにいることなんてできなかった。  平気なふりでここに通い続けた三ヶ月は、健を嫉妬と背徳感で追い詰めていた。 「……俺はっ、ほんとは柳瀬さんに俺を見てほしかった」  初めて口にしたその欲求は、けれど言葉になったそばから叶わない願いになっていくようで。 「でも……俺はあなたにとっての運命の相手じゃないから。どうしたって、あの人以上の存在にはなれないってわかってるから」  涙が、健の瞼に浮く。 「わかっていて、そうなりたいと思い続けるのは……つらい」  欲しい人には全身に芳井の名札が貼られていて、剥がせないのだ。絶対に手に入らないと、思い知るばかりでつらくて苦しくて、もう健にもどうしていいかわからない。  取り乱した健を、充希はじっと睨め据えた。何を思うか見えない瞳に射抜かれて、健は怯む。  そして、充希ははっきりと言った。 「帰れ」  打ち解けてきていた最近は聞かなかった、固い拒絶の声。 「柳瀬さ……」 「二度とここに来るな」  ベッドを降りた充希が、床に置いていた健の鞄を持って健の胸に突きつける。それを、健は受け取るしかない。 「……すみませんでした」  それだけ絞り出して、健は充希に背を向けた。靴を履き、外へ出て扉を閉める。すぐにその扉には、内側から鍵が掛けられた。  ふらふらと外階段を降りて、道路に出たところで、立っていられなくなる。 「……ぅ」  道端にみっともなくしゃがみこんで、健は泣いた。

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