18 / 23
運命、かもしれない。 第2話
OB会当日、会場最寄り駅で待ち合わせた充希は、混み合った土曜の駅構内で健の姿を見つけ、少し辺りを見回してから歩み寄った。
「よ」
「あ、お疲れ様です」
声をかけると、健は視線を落としていた携帯から顔を上げ、メガネを押し上げながら笑みを浮かべる。その笑みがどうにも甘ったるくて、充希は明後日の方を向いて首を掻いた。
いつも健が充希に向ける視線は優しい。
セフレみたいな関係だったときも、健は優しかったけれど、つき合ってからはそれに輪をかけてというか、くすぐったいを通り越してむず痒くなるほど充希に甘い。なので、二人きりの時には充希も遠慮なくそれに甘えることにしているのだが、外でそんな顔をされると照れ臭くなってしまう。
「行きましょうか」
並んで歩き出して、ふと覚えた違和感。いつもより少し遠い、『久々に会った先輩と後輩』の距離を作る健の徹底ぶりに、いっそ感心してしまう。
「駅でたまたま一緒になったていで、だな」
少しからかうくらいのつもりで言うと、健はやや辛そうに苦く笑った。
「……べつにそんな、どうしても隠したいわけじゃないんですよ」
あ、と充希は自分の失言に気づく。
詳しい話は聞けていないが、おそらくゲイバレしたことが原因で家族に絶縁されているという健は、実生活では周囲に一切セクシャリティを開示していない。芳井との関係をオープンにしていた充希に対し、クローゼットであることを健は負い目に感じている節がある。
そのことを充希がどう思っているかというと、誤解を恐れずに言うならば、『どっちでもいい』。
芳井との関係がオープンであったことは、充希の考えというより芳井の性格的なものが大きな要因であったし、充希自身は特に吹聴することでもないと思っている。なので言う必要がなければ言わないでいい。
健に対してもそのように思っているし、むしろ言わないことで健が安寧に過ごせるならば、言わない方がいいと思っている。
けれど、健は今も芳井と充希の関係性に強い憧憬を抱いているところがあって、無意識にそれと現状とを比べて落ち込んでいる。なかなかそうした思考の癖は抜けないものだ。
「わかってるよ」
だから充希はそう言って健の尻を強くひっぱたいて、痛がる健を笑い飛ばした。
会場に着くと、健は皆の視線をするりとすり抜けるように充希から離れ、同期の輪の中へ入っていった。駅でたまたま会って、なんて言い訳を用意する必要もなかったほど、周囲に何かを疑う余地も与えない動きは、もはや反射並みに健の身に染みついたものなのだろう。
(……そんなんで、あいつ俺とつき合っててしんどくないのかな……)
やっぱりつき合わない方がよかったんじゃないか、という後悔に近い思いはずっと充希の頭の奥にあって、優しい健が充希のために自身の何かを曲げていると感じる度に意識の表層へ浮かんでくる。別れを切り出せば必ず健は引き留めるから、充希はまたその思いを頭の奥に沈めるけれど、たぶんそれは今後もなくなることはない。
どうしたって芳井の存在は充希の中から消えない。それとは別の枠で自分を好きでいてくれればいいと健は言うけれど、そんな面倒臭いやもめなんかよりもいい相手が健になら簡単に見つかるだろうと思うと、罪悪感は増すばかりだ。
充希は健を好きで、健も充希を好きなのに、叶ったはずの恋は二人にとってとても苦しい。その苦しさを耐える必要がどこにあるんだろうかと、愛しい人の手を放してやりたい思いに駆られる。
無意識に充希は、指輪のない左手薬指を触っていた。
今はもうないあの環に縋って、この先の一生を過ごしていくんだと思っていた。そうするしかないんだと思っていた。
健に愛されるまでは。
「柳瀬!」
ふと店の奥から声がかかって、充希は俯いてしまっていた顔を上げた。声の方向で、人のよさそうな丸メガネが元々細い目を糸のように細めた笑顔で手を振っている。
「……よ、榎本。久しぶり」
ビアグラス片手にカウンター席にいた榎本の隣に座り、充希もビールを注文した。
「元気そうだな。変わりない?」
尋ねる声はからっとしているけれど、その実とても榎本が心配してくれているのは充希もわかっていて、ありがたく頷く。
「元気にやってるよ。まあ、変化はなくもないけど。ぼちぼちな」
返しながら、カウンター越しに差し出されたビアグラスを受け取る。その左手に、榎本の視線が止まった。
「……おまえ、どしたのあれ。ずっとつけてた、あの……指輪」
芳井と一緒に着けはじめて以来、彼が亡くなってからも肌身放さず着けていたペアリングの不在に、榎本は目敏く気づく。指摘されて、隠すでもなく充希はその指にまた触れた。
「うん……。分骨してもらってた骨壺の中に入れて、一緒に恭介の実家にお返ししたんだ。三年も経つし、……もういいだろうって、向こうのお母さんに諭されてさ」
「いや、でもおまえそれ……」
亡くなったとはいえ、芳井が、そして芳井との繋がりの象徴だった指輪が、ここ数年の充希に拠り所だったことは榎本の目にも明白で。それを手放したと聞いて、榎本の表情が心配に曇る。
「――大丈夫なのか?」
深刻げに問われ、当然ながら大丈夫だと返そうとして、思ったよりその返事に気負っていない自分に充希は気づいた。
完全に問題ないかと言えばそうではない。それでも、大丈夫だと答える気持ちに含まれる嘘の割合は、これまでよりもずいぶんと少ない。
それも健のお陰だと、充希は不意に込み上げる笑みを堪えられなかった。
どうやら、自分で思うよりも充希は健が好きだし、自覚していた以上に健に支えられているようだ。
「実は俺、今小野原とつき合ってるんだ」
「は?」
耳元でこっそり打ち明けた充希の言葉に、榎本は細いはずの目を人並みの大きさにまで見開いて、ストップモーションした。たっぷり数秒固まって、グラスを傾ける充希を凝視する。
「え、小野原? ……って、あの小野原!?」
再起動したように叫んで、榎本はスツールから立ち上がって少し離れたところで同期と飲んでいる健を指差す。
「そう、その小野原」
指差された健の周りが何事かとこちらを振り返り、その中で同様に充希を見やった健は訳知り顔で苦笑している。『言ったんですね』という顔。
「……いや。いやいや。待て待て待て」
丸メガネを押し上げるように押さえた榎本は、眉を寄せてスツールに座り直した。
「あいつが、あのライブたんびに女に言い寄られてたモテメン野郎が男もいけたのかとか、言いたいことは山ほどあるんだが、何よりもその前に、その前にだな」
頭を抱えて、榎本は声を潜める。
「……あいつは芳井を知ってるだろう」
知っていてどうして充希に手を出せるのかと、何よりそこが信じられない様子で、榎本は困惑していた。
学生時代の充希と芳井の関係性を目の当たりにした者なら、その間に割って入ろうなどという気にはならないはずだと、榎本は思っている。それは概ね正しい。健自身がそんなことはできるはずがないと思っていて、線を越えられないままセフレ関係で二の足を踏んでいたのだから。
「知ってるも何も、学生の頃からずっと俺のこと好いてくれてたらしいよ」
「はぁ!? ずっと!?」
「物好きだよねぇ」
「……てことは、何だ。海外赴任から帰ってきたら芳井がいなくなってて、ラッキーっつっておまえが弱ってるとこにつけ入ったってことか」
「はは。そんな小狡いやつだったらもっとあしらいやすかったんだけどな」
芳井を喪って荒れていた充希と、十年超えの片恋をしていた健とが結ばれるまでの紆余曲折を、榎本に語って聞かせるわけにはいかないけれど。
「……恭介を忘れられないままの俺に、寄り添ってくれたよ。そのままでいいって言ってくれた。俺も、絆されたとかじゃなくて……もうこんなやつは他にいないって思ったんだ」
唯一無二だと、健のことをそんなふうに話して、充希は目を伏せて笑う。
なんとなく、充希には覚悟していることがある。健と別れたら、その先は今度こそもう一人きりになると。
誰かとつき合ったとしても、きっともう心の底からは繋がり合えない。充希のすべてを理解してはもらえない。さらけ出したすべてを包んでくれるのは、健が最後だ。
充希にとって、健はそういう相手だ。
「……」
不意に、隣の榎本がメガネをずらし、その目元を袖で拭った。続いて鼻をすする音が聞こえ、彼が泣いていることに気づく。
「……俺さぁ。あんまりあいつのこと好きではなかったのよ。くっそモテるくせに特定の彼女がいる様子もなくて、どーせとっかえひっかえしてるスカしたかわいくねえ後輩だと思ってたんだけどさぁ」
泣きながら、榎本はビアグラスに残った酒をあおった。
「おい、おまえこそ大丈夫かよ」
心配になって止めようとするも、榎本のグラスは見る間に空いてしまう。
「俺ら、散々おまえと芳井のこと、運命のカップルだとかって囃し立ててさ。そんなおまえらのこと、ずっと見てて、全部知ってて、その上で芳井ごとおまえを受け入れるなんてさぁ。できることじゃねえよ普通。そんなのさぁ、そんな相手と今つき合えてるなんてさぁ」
喋りながらヒートアップしていく榎本は、昂るままに、声を張った。
「そんなの、よっぽど運命じゃん!」
その声に、一瞬驚いて目をしばたたいた充希は、ゆったりとその目を細める。
「――そうかも」
その視線が移った先では、きっとこちらのことは意識的に気にしないようにしているのだろう健が、同期に囲まれて屈託なく談笑していた。
ともだちにシェアしよう!