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運命、かもしれない。 第4話

 きし、と小さくベッドが軋む音で目が覚めた。続いて隣の恋人が離れていく気配。  思わずその服の裾を掴んだら、ベッドを降りようとしていた健が振り返った。 「あ……、すいません、起こしちゃいましたか」 「……ん。どこ行く」 「飯でも作ろうかと。腹減りません?」  聞かれたとたん、寝起きの腹がきゅるると空腹を訴える。どんなタイミングかと、二人して吹き出した。 「素直な腹っすね」 「うるせえな。何時だよもう」 「も少しで十一時です」 「まじかぁ、昼飯じゃん。寝過ぎだわ」  もそもそと起き上がって頭を掻いた充希を、健は抱き寄せて額にくちびるを寄せる。 「……まだ休んでていいですよ。昨日は無理させたから」  その自然かつ甘ったるい恋人ムーブがこっぱずかしくて、充希は健の手を振り払った。  あーもう、どうせこいつは今まで誰にでもこういうことをしてきたんだなきっと。 「だー、やることがいちいちエロオヤジくさいんだよバカ」 「えぇ、ひどい」 「昼飯何作んの?」 「何が食べたいです?」 「カツカレー」 「嘘でしょ。起き抜けでカツカレー希望って胃の年齢高校生ですか」 「ふはは、百パー冗談だわ。無理無理、カツカレー入らねえ」 「じゃあ、あれは? 前に言ってた、親子丼」 「おっ。味噌汁つく?」 「味噌汁は、めちゃくちゃうまいフリーズドライのがあります」 「まじか。あれだろ、ちょっとお高いやつ」 「そうそう」  軽口を重ねて、ベッドを降りた健がキッチンへ向かう。作っている間にシャワーを浴びてはどうかと勧められ、着替えを借りて充希はバスルームに向かった。  昨夜何度も念入りに愛された気だるさをシャワーで流して、浴室の鏡で傷のない肢体をぼんやりと眺める。  一時期、痣が絶えないことがあった。自分に暴力を振るう相手を意図的に選んでいた時期があったからだ。そういう趣味があったわけではないのだけど、痛みを感じることで安心していたのだと思う。稀薄になっていく生の実感みたいなものを、そんな形でしか取り戻せなかった。  今は、そういうことに頼らなくても地に足がついた感覚がある。そんなふうにも、健の存在に救われているのだと気づく。  シャワーを終え、服を着てバスルームを出ると、キッチンには美味しそうな匂いが立ち込めていた。鍋を覗く健の手には、すき焼きのたれのボトル。 「もう少し待ってくださいね。味は保証します、食品メーカーの企業努力の結晶なので」  自信満々の健に、なんでおまえが得意気なんだよ、と笑う。 「おまえはめんつゆ使わないんだな」 「あー、めんつゆも便利ですけど、親子丼だと砂糖足さなきゃいけないでしょ。すき焼きのたれも優秀ですよ、親子丼や肉じゃがも希釈のみで味付け調整不要です」 「へえ」  感心しながら、料理をする背中に芳井の面影が重なる。  芳井も自炊派で、一緒に暮らしていた頃はほとんど毎日食事を作ってくれていた。その芳井が、めんつゆのお陰で助かるとよく言っていた。なんてことはない日常の思い出だ。  ぼんやりと菜箸を操る健の手元を見ていたら、ふと健が振り返って、優しく目元を細めて笑った。 「……芳井さんはめんつゆ派でしたか?」 「えっ」  なぜ芳井を思い出していたのがわかったのかと、驚いた拍子にはっとした。充希はまた、無意識に指輪のない左手の薬指を触ってしまっていた。 「っごめん、違う、そうじゃなくて。あの指輪、長いことつけてたから、ないのにまだ慣れなくて。恭介がどうとかじゃないんだ、ほんとに」  咄嗟に離した両手のやり場がわからず、充希はTシャツの裾を掴む。その慌てぶりに少し驚いたように健は目を瞠り、それからまた微笑んで、コンロの火を止めた。 「柳瀬さん、ちょっといいですか」  健は充希の手を取り、ソファーに連れていって座らせ、チェストの引き出しを開ける。 「いつ渡そうかと思ってたんですけど」  充希の隣に座った健が手にしていたのは、小さなベロア張りの箱。それが何なのかくらいは、充希にだってわかる。  パカッと目の前で開かれた、その中身は銀色のシンプルなペアリングだった。 「ないと落ち着かないなら、よかったらつけててください。一応俺とペアなんで、受け取ってもらえたら嬉しいです」 「小、野……」  バカおまえ、と雑ぜっ返そうとした言葉は続かなかった。  こんな、どっちの誕生日でも、クリスマスでもないタイミングで。よりによって親子丼作ってる最中に。  しかも、おまえさ。これ、自分が俺とつけたいから買ってきたわけじゃないんだろ。俺が薬指を気にしてること、それをおまえに悪いと思ってること、気づいたから俺のために買ってきたんだろ。俺だけのために。  バカだろ。バカだよおまえ。  こんなの俺にプレゼントしたって、おまえには何もいいことないじゃんか。 「……」  何も言えず、俯いた手元に涙が落ちた。  ありがとうと、素直に言えない。『気を遣ってくれて』が後についてしまう。ごめんと、謝るのも違うだろう。もう言える言葉がない。  申し訳なくて、疚しくて、それでも嬉しかった。健が想ってくれていることは間違いない。  好きだ。どうしようもなく好きだ。  それだけになれなくて、ごめん。 「……柳瀬さん」  顔を上げられずにいた充希の肩を、健がそっと抱き寄せた。何を言えばいいかと、言葉を選びながら充希の背をさする。 「ありがとうございます。榎本さんのこととか。柳瀬さんが言ってくれなかったら、俺はいつまでも周りに隠すことしかできなかったと思うから。そしたら俺、他の人が俺と柳瀬さんをどう見るのかなんて、知る機会なかったです。……でも」  言葉を切って、健はひとつ、深く呼吸する。 「俺は、やっぱり今でも柳瀬さんと芳井さんは理想の二人だと思うし。俺と柳瀬さんのことを運命だとは、思ったことがない。榎本さんがそう言ってくれたことは光栄だし、……なんていうか、勇気付けられた気持ちにはなるんですけど。そういうのじゃなくても、いいと思ってます」  そう言って健は、箱の中からひとつを取り出し、充希の左手を取った。いつの間にサイズを測ったのか、その環はぴったりと薬指の関節を抜けて付け根に収まる。 「……ほら。やっぱり柳瀬さんの手にはあった方がいい」  充希の手を愛しげに見つめ、どこかほっとしたように笑う健が、どんな気持ちでいるのかが充希にはわからなかった。  芳井の存在を抱えた充希を、そのまま包むような大きな心でそう言っているのか。それとも、恋人になった今もなお、まだどこか離れたところから憧れの目で見つめているのか。  そのどちらも、なのかもしれないと、充希は思った。  今はまだ、きっと両方の視点が健の中にも混在している。懐深くありたいと思いながら、そうはなりきれず今も残る、大学時代から続く憧憬。  ああもうぐだぐだ考えてないで俺だけのものになれって一言言えよ、とぶちまけてしまいたくもなるけれど、決してそんなことは言わないのが健だということも充希はよくわかっている。  二人にはまだ、時間が必要なのだ。 「……貸せ」  鼻をすすって、充希は健の手から箱をもぎ取り、もう一方の指輪をつまんで、健の左手薬指にねじ込んだ。 「絶対外すなよ」 「え」 「仕事中も、風呂入るときも、絶対外すな。ペアリングだからな。勝手に外したら処す。わかったか」  泣きながらの恫喝に、健は一瞬たじろぎ、そしてあまりに充希らしい物言いが可笑しくて、笑わないよう頬に力を込めた。 「はい、わかりました」  運命かどうかより、たとえそうじゃなくても二人は共に生きると決めた。必要なのは、その時間を積み重ねていくこと。時にぶつかりながら、折り合いをつけながら。  そうしていくうちにきっと、緩やかに、二人の関係も感情も収まるべきところに収まっていくのだろう。 「……泣いたら腹減った」  目元を擦りながら充希が小さくぼやくので、いよいよ堪えられなくなった健が吹き出してしまう。 「飯作ってる途中でしたもんね。もう卵でとじて、ご飯温めるだけですよ」  ソファーから立ち上がってキッチンに戻る健の後ろを、充希は素足でペタペタと追いかけてその背中にくっつく。 「味噌汁はー?」 「あ。湯沸かしましょう。電気ケトル、……柳瀬さん使い方わかりますか」 「わかるわ! おまえは俺をなんだと思ってんだ」 「……なんか最近若干の幼女みを感じて困惑しているところです」 「イヤァ変態!」 「もう、すぐそういうこと言う」  少し拗ねて見せた健はすぐに笑って、充希の腰を抱き寄せてくる。頬に触れるだけのキスをするのを、今度は振り払わずに受け入れて、充希も健の腰に手を回した。  視線が絡んで、互いに引き合うように顔を寄せて目を閉じる。  こんなふうに優しく穏やかな日常が長く続くのかどうか、今の二人にはまだ朧気にしか想像できなかったけれど。  この先に重なった日々が、きっと共に歩んだ二人の人生になる。 <END>

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