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闇夜の皓 8
「すまないね、怖かっただろう?」
「ぅ……っ 」
小さな頷きを見ながら、耳朶をくすぐるように愛撫していく。
胸の上でしゃくり上げる姿を哀れに思いつつ、いまだに掌を汚す液体を満たされた気持ちで眺める。
「気持ち良くはなかったかい?」
翠也は俺の視線を辿り、腕の先に行きつくとぱっと顔を伏せた。
「だから困るんです……今までは放っておけばよかったのに……」
もう、無理になってしまいました と、翠也は羞恥に震えながら告げてきた。
その後の鴛鴦は恐ろしいほどの速さで進み、あっと言う間に仕上げ段階にまできていた。
「不思議ですね」
番目の大きな絵の具を選ぶのを興味深げに翠也が見詰める。
「何がだい?」
同じ棚の列に並べた絵の具を見比べながら、
「これはすべて同じ材料なのでしょう?」
そう問いかけてくる。
「ああ、細かさが違うだけだよ」
濃淡の階調を作る瓶を覗き込む姿は、好奇心のままに蟻の巣を覗き込む子供のようだ。
「美しいです」
散々覗き込み、堪能してはそう笑う。
傍らに彼がいてくれるくすぐったさに戸惑いもあったが、感性が似ているのか絵の話をしても何の話をしても馬が合うせいか、長い時間そうしていても苦を感じることはなかった。
「鴛鴦ももうすぐ完成になりますね」
「あぁ」
「……綺麗。他にやってしまうのが残念です」
うっとりと絵を眺める横顔は、それが世辞ではなく本心からのものだと教えてくれる。
「では、これが終わったら君のために描くよ」
「え?」
俺の行動は翠也からすると突飛なことが多いらしい。
「そんな……せっかくの作品を、僕がもらっては……」
「君が要らないなら、描くのは止めておこう」
えっ⁉ と声を上げて、翠也は大慌てで懸命に首を振る。
「要りますっ! だから……」
その言葉は俺の顔を見ると尻すぼみ、からかわれたのだと勘づいたようだった。
「からかわれるのは……嫌いです」
「そうだったね、すまない」
ちょっと膨れたような顔の翠也に謝罪して、その手に口づける。
相変わらずの、甘い味だ。
「希望はあるかい?」
肌を舐めつつ問うと、喘ぎを堪える合間に切れ切れの言葉が漏れた。
「では、霍公鳥と川蝉を……」
ふとその二羽を思い浮かべるも、なぜその二羽なのかとんと見当がつかない。
解せない顔でいたのか、翠也は言葉を足してくる。
「共に夏鳥です、好きな鳥なので」
「へぇ」
好きと言われてしまえば理由はそれ以外に必要ない。
「そうか、描くのが楽しみだ」
嬉しそうな笑顔を返してくれる翠也を見ながら、そう言えば今までに描いた写生の中にその鳥がいたかを思い出そうとした。
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