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藤の女 9

 淫蕩にとろりと濁った翠也の卑猥さに喉が鳴る。    あの淫靡さを手の内に入れておけるならば……それで十分だ。  多くを望んだところで彼は後援者である南川氏の嫡男で、ただ飼われている俺が想うには過ぎた相手なのははっきりとしていた。  覆すことのできない身分差に悶えるのは、もう二度とごめんだ。  広大ではあるがきめ細やかに手入れのされた庭を眺める。  少し寂しくはなったものの、夏の庭の植物達はまだ勢いを衰えさせてはいない。  趣向を凝らした立派な庭。  やがて彼がこれを引き継ぐのだと考えると気が滅入ってきた。  こんな屋敷を生家とする彼と、あんな生まれでうだつの上がらない俺とでどうこうなろうなんて…… 「何かを考えるだけ無駄か」  もうわずかにしか花をつけなくなった蛍袋を見ながら、夏の庭を散策する。  刈り込まれた下生えの立てる音と、時折戯れのように落ちてくる木の影に涼を求める。 「あぁ! 画家の先生!」  奥の方が木陰が多いだろうかと足を向けた時、突然声をかけられて振り返った。  庭師の蒔田が脇に梯子を抱えて行きすぎるところだ。  この庭を一手に引き受けている彼は、実直そうな顔立ちでこちらに近寄ってくる。   「この先は藪がまだ手入れできてなくて、虫が多いですよ」 「そうなんですか?」  工房から眺める分には綺麗に整えられていて、その奥も綺麗なものだと思い込んでしまっていた。 「不自由をさせてしまいますね」  蒔田は申し訳なさそうに頭を下げてくる。 「こんなに広くて立派な庭ですからね」 「ぇえ、庭師冥利に尽きるんだか、庭師泣かせなんだか……旦那様がいらっしゃる時は人を雇って手入れしますから、そん時に向こうに行けば痒い思いをせずに済みますよ」  流れ出た汗を拭き、蒔田はもう一度頭を下げて春の庭の方へと去って行った。  親切心からなのはわかるが、出鼻を挫かれた気分で来た道を戻る。 「旦那様、か」  忙しくしていらっしゃるらしいが、こちらに世話になり始めてから二月(ふたつき)近く経とうとしているのに、ちらりともお帰りになっていないのが気にかかってはいた。  後援を申し出てくれた時も代理人を通してで……  まったく見も知らぬ人物の世話になっているのだと思うと、一抹の居心地の悪さを感じなくもない。 「────?」  はっと蒔田が消えた方を振り返る。 「……えぇと」  けれど、引っかかった言葉の端を掴み損ねたのか、違和感の正体を聞く前に靄の中に言葉を失った。 「まぁ、また思い出すか……」  無くした言葉を追いかけるよりも、何か写生できそうな花はないかと歩みを進める。  夏が盛りだった花は草臥れて、やや萎むように花の色を濃くしていた。  植えられている植物の数の多さには何度でも驚くが、これが庭ごとに分けられているのだから蒔田の苦労が窺えるというものだ。

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