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藤の女 13
瞬く目から涙が落ちる。
「奥様が呼んだ、声音で分かりました」
思い当たるのは、一人しかいない。
「卯太朗さんの間に何かあったって……」
額に手を当てて低く唸る。
奥方の名前は? とは聞けなかった。
それは彼女に違いない。
途の拓けない俺の元から去った……
否。
引き離された。
「 」
「……ご存じなんですね」
項垂れたままの彼はそう問いかけてくる。
「昔の、知り合いだよ」
そう、間違いではない、今では……
彼女が人妻となった今ではもう、ただの知人だ、いや……知人ですらない方がいい。
かつての、情夫とは……
「まったく知らないと言うわけではない程度だよ」
そう言うも、彼は不安げにこちらを見て物言いたげに唇を噛んでいる。
「翠也」
頬に手の甲で触れようとするも、翠也は身を引いて俺を避けた。
空を掻くしかなくなった腕の虚しさに、どっと溜息が漏れる。
「俺に、なんて言って欲しいんだい?」
「…………」
彼は俯いて首を振るだけだ。
「俺は心が読めるわけじゃないんだ……教えてくれないか?」
彼は俺の傍らに座り直してから、こつりと肩に額を預けてくる。
「……凄く苦しい」
翠也はそう言うと額を擦りつけた。
「あの人が……貴男の子種を腹に含んだことがあるのではと思うと、……苦しい」
彼から飛び出した過激な言葉に度肝を抜かれて目を瞬く。
「……ど、どうしてそんなことを 」
ぎゅっとしがみつかれる力の強さは驚くほどだった。
「僕は 」
その体を抱き締め返してやると、ほ と息の漏れる音が聞こえる。
こうすることで彼が少しでも落ち着いてくれればと、出来るだけそっと背中を撫でた。
「貴男が、僕以外の人に触れたくなるのが……怖い」
何を馬鹿なと返そうとする前に、翠也は言葉を続ける。
「あ、貴男に、求められないから……」
「 は?」
彼を掴まえ、その体を弄ぶのは求めていると言うことにはならないのだろうか?
いや、体だけじゃない。
その才能や行動も含めて、俺が一番に望むのは翠也だ。
「俺は君が欲しいと何度も言ったと思うんだが……」
「 そうじゃないんです」
歯切れ悪く言う翠也の目は涙で膜が張り、何かのきっかけで決壊しそうに見える。
真っ赤な顔で俺を見上げて口を開く。
「……卯太朗さんの、子種が、欲しい……」
そう言い切った彼の目から、ついに一滴の涙が落ちた。
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