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濡羽と黄金 1
壁に置いた絵の前に立つ後姿にかける声を見つけられないでいると、きしりと無情にも床板が鳴ってしまった。
そうすると牡丹が花開く瞬間を思わせるような笑顔がはっと振り返る。
「おかえりなさい」
嬉し気な声に、募る罪悪感から今日のことを話してしまおうかとも思ったが、それを告げてこちらを見上げる笑顔がなくなってしまうのは耐えられなかった。
立ち尽くす俺に不審を感じたのか、翠也は首を傾げる。
「いや、何でもないよ」
「そうですか?……何か 」
そう言いかけて翠也は口を閉ざして緩く首を振った。
まるで、俺の不貞を知っているが何も聞かないとでも言うような態度に、背筋に冷たいものが伝う。
「あれはお願いした絵ですか?」
壁に立てかけた写生帳に視線を向ける。
白い紙の中に、二羽が舞う。
「うん、もう少し詰めるけど、大体あんな感じにしようと思っているよ」
翠也に視線をやれないままに、写生帳に目を落とす。
生き生きとして見えていた二羽の鳥は、今の俺の目には失速して今にも墜ちそう思えて、思わず目を眇めるようにして睨みつけた。
なぜ?
自問自答していると、腕に翠也の指先が触れた。
ひびわれもなく、かさつきもない綺麗な桜の花弁のような爪がついている。
────るりのものとは、まったく違う。
「卯太朗さん?」
濡れた黒曜石の瞳に吸い込まれそうになる。
光を含む深い漆黒の目がしっとりと俺見上げて……
智を宿すかのようなその目に後ろ暗いことを見透かされそうな気になり、閉ざしたくて口づけた。
その日は結局、それ以上翠也に触れることはできなかった。
名残のように蜩が鳴く。
哀愁を帯びた鳴き声にるりを思い出しそうになって慌てて首を振り、目の周りを飛び回る羽虫を叩き落した。
翠也と顔を合わせる気まずさから逃げるために手入れのされていない藪の方に来てみたが、姿は隠せるかもしれないがその代償は大きそうだ。
奥に行くのを諦めて菩提樹の下に腰を下ろす。
盛りも過ぎたと言うのに、残暑の暑さは狂っているのではないのかと思うほどだった。
「……」
この木の影ですら、るりの家よりも広いのではないだろうか?
あの狭く古い家とるりの瑞々しく艶めかしい肌の対比が、振り払っても振り払っても飛び回る羽虫のようにつきまとってくる。
「俺は……なんだって言うんだ……」
印象深かったからだ と、身も蓋もないことを言ってしまえばそれまでの話なのだが、指先に刺さった棘のように気にかかって仕方がなかった。
けれどそれと同時に、手折ったばかりの翠也のことも気にかかって……
「今夜は苦しくはならないのですか?」
自室へ戻る翠也がそう尋ねた時のどこか苦し気な表情に、そんな顔をさせてしまったのだと申し訳なく思って気分が塞ぐ。
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