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濡羽と黄金 6
絵のモデルを雇えないような俺は、恥じらう多恵を押し切り何枚も写生して、それで描いたのが……あの絵だ。
竹に絡む藤と、妖艶な多恵。
渾身の出来に浮かれた俺には、あの絵がどう言う結果を招くのかまったく考えなかった。
「多恵……」
多恵が描かれた写生帳を持ち、のろのろと壁際にもたれる。
紙に閉じ込めた笑みを見ると、もう切れたと思っていた情がじんわりとまた繋がるかのような錯覚に陥って目を閉じた。
────多恵とは食堂で出会った。
やたらと失敗ばかりする娘がいて、それが多恵だった。
俺が行くような食堂なのだから、程度の知れる場末のそこには似つかわしくないほど真っ直ぐな女で、どちらから声をかけたとかは覚えてはいないが初めて手を握った時に多恵が震えていたのはよく覚えている。
くるり、くるりと、小さな鼠のようによく働く娘だった。
玄上に冷やかされ、後押しされながら口説き続けて……
その気立てに甘える内に、いつの間にか俺は情夫に成り下がっていた。
絶対に芽が出るからと、絵に集中して欲しいと言う多恵の言葉のままにただ毎日を絵を描いて過ごして、そんな俺のために昼夜なく働いてくれた多恵。
苦労をさせた多恵を、描きたかっただけだった。
だから、会心の作の絵が賞を取った時、俺はただただ馬鹿みたいに浮かれていた。
あの絵を見て、家出した娘だと騒ぎ出す夫婦が出るまでは。
「……あれは……怒涛だったな」
家が軋む勢いでやって来た夫婦に多恵を出せと迫られて。
夫婦の着ているものが、そこいらに売っているものとは違う、職人が丁寧に作ったものなのはすぐにわかった。
投げつけられた手切れ金だか口止め料だかの金と、引きずられて行く多恵と……
俺には一生縁の無いような艶のある車に多恵が押し込まれるのを見た時、住む世界が違うんだと痛感した。
多恵の不慣れな不器用さも、無邪気なおぼこさも、すべて上流階級とやらの箱入り娘だからと言われたら納得がいった。
……俺は、彼女を追いかけなかった。
草臥れて汗だくになって必死に働くより、着飾りながら談笑する方が幸せだろうと思ったから。
俺が多恵にさせていた苦労を、もうして欲しくなかったから。
それで、彼女が幸せになってくれるだろうと思ったから。
だから、罵声と共に投げつけられた金を黙って拾った。
鉄錆の味を覚えている。
悔しさに噛み締めた口の中に広がる金臭い血。
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