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濡羽と黄金 7
引き留めることも、このまま多恵を幸せにすると言い切ることもできず、引き離されねばならなかった恋人。
それでも、多恵が嫁いで子に恵まれて幸せなのだと言うのならば、祝福もしよう。
「 君の幸せを願っているよ」
多恵の愛らしい爛漫とした笑顔を思い出しながら、写生帳に鉛筆を滑らせた。
飛ばすことの出来なくなった二羽の鳥を置いて、ふくふくとした仔犬はあっと言う間に下描きが決まってしまった。
戯れる仔犬の愛らしさに頷き、納得する。
けれど、ここから進めるにはやや戸惑いがあった。
「翠也くんの絵を描くと言ったしな……」
その手前、多恵へ贈るものを先に描くのも心苦しい。
きっと翠也は何も言わないだろう。
煮詰まったから違うものを先に描いたと言えば、それで理解してくれるだろうし描かぬことを咎めることもしない。
彼は、ただ黙って耐えるだろう。
「…………」
翠也の性格を分かっていて……
それでも鳥の絵を描く気になれず、犬を描くための板に紙を張る準備をしようと立ち上がる。
「 久山さん」
少し嗄れたような声は志げのものだ。
「はい? どうしました?」
工房には入らず、入り口で志げが手招いている。
普段、この離れにはみつ子が来るので何事かと近寄った。
「前に頂いたお薬、残ってませんかねぇ?」
「薬……ああ! 痛散湯? まだ少し残っていますよ」
少し待っているように言い置いてから、自室の机の引き出しを漁る。
丁子油を使ったからか、それとも女のように痛むのは初めての時だけだったのか、痛散湯の出番はあの時だけだった。
「これこれ、良く効きましてねぇ。腰がずいぶんと楽になります」
皺の多い顔に更に皺を刻み、志げは嬉し気に痛散湯の袋を両手で受け取り、恭しく持ち上げてから頭を下げてくれる。
玄上から譲ってもらったものでこんなにも感謝されるのも複雑だったが、それ以上に傍らにこんな薬を常備しておかなくてはならないほど、未亡人と頑張っているのかと思うと苦笑が出そうになった。
「ありがとうございます」
志げはもう一度頭を下げ、大事そうに懐にしまって母屋に踵を返しかけるも、あぁ! と振り返る。
「夕飯はいかがされます?」
「翠也くんは……いや、奥様は遅く?」
「……えぇ」
短く返された言葉はどこかきつく聞こえ、思わず目を瞬いた。
「本日は旦那様とお出かけですからね」
いつもおっとりとしたような口調のはずなのに、この時の志げはどこか刺々しい。
「え? 旦那様がお戻りだったんですか?」
「いぃえ、こちらにはいらしていませんよ」
つんと返された言葉に、またざわりとする違和感を見つけた。
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