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紅裙 12

「久山さん、素晴らしい絵をありがとうございます」  かけられた声にも視線を上げることができず、ただみっともなく下げた頭を更に下げるだけだ。  そうすると、上等な赤い着物に包まれた膝の上の指先が見えた。  小さな爪……  あれが幾度も背を掻いたことを覚えている。 「それじゃあ、多恵さん。ご案内をお願いできるかしら?」 「はい。お義姉さん」  視界の端から多恵の欠片が消えて、ほっと胸を撫で下ろした時だった。 「では久山さん、行ってらっしゃい」  「は?」と声が漏れかけて、全身に滝のような汗が噴き出る。 「離れよ? 多恵さんが案内してくださるから」 「は、ぃ……?」  そう干からびた声が出た。  小さな竹林を抜けていく。  前を行く、多恵の小さな背中…… 『離れがねぇ、寂しいのよ』 『では、華やかになるような絵を描いてもらうのはどうかしら?』 『いいわねぇ!』 『でしょう?』 『久山さんは? どう思われまして?』  ああ、そんな会話だった と朧げに思い出す。  曖昧に相槌を打って頷くなどしなければよかった。  そう考えながら歩を進め、二人共がすっぽりと竹林の影に隠れたところで、前を行く多恵の足が止まる。  ちらりと辺りを見渡す目に、愛嬌があると思っていた面影はない。 「  お久しぶりです」  他人行儀に言い、こちらへと振り返る。  白い顔、  漆黒の目、  初めて見た、紅を差した唇。 「  あ、……うん」  美しい女だと、思ったことはなかった。  この女は、誰だろう?  ────美しい  と、思う。 「お元気そうで」  伏せられた睫毛は頬に影を作る。  そんな風情を、見たことがあったか?  いつもひび割れていた指先。  梳いても梳いても乱れていた黒髪。  隈を作り窶れて見えた目元。  けれど、いつも笑っていた。 「安心しました」  引き結ばれた、笑みを作ることのない赤い花弁。 「君も……いや、君じゃまずいか」  黒目勝ちなしっとりとした双眸。 「奥様も、お元気そうで」  そう言うが多恵からの返事はない。  吹く風に髪を押さえる多恵は、俺の知っている多恵とは別人のような気がして…… 「離れはこちらですね」  気まずさに多恵を追い越して歩き出す。 「────卯太朗」  背中に投げかけられた声は昔のままで……  深く染み入るような響きを持つ。 「    」  背中に、多恵の小さな手が添えられる。  昔のままの関係ならば、振り返りその手を取ることも可能だが、互いの立場は大きく隔てられてしまった。  こうやって背に触れることすら、いいことではない。 「……行きましょう」

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