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聴の頬 4
「なぜもっと早く言わなかった」
「だって……はじめに奥さま言ってたから」
例え橋田に非があったとしても、責められるのはるりだと。
ぞんざいに一つにまとめられた亜麻色の髪。
困ったようにこちらを見つめる玻璃の瞳。
るりの諦めた態度が物語る辛酸を、俺は本当の意味で分かってやれないのかもしれない。
「だからと言って……」
「おれ、部屋にいるから」
「そ……」
「そのかわり、あしたは外につれて行ってよ」
ね? と機嫌を取るように笑いながら顔を覗き込まれて、俺は拳を震わせながら肩を落とすしかできなかった。
るりのこれまでの人生に降りかかった辛苦に、憤りを覚えてもそれをどうにかすることも敵わず、気を落としながら眠る翠也の傍らに腰を下ろした。
自分自身、手籠められた挙句に産まれた子だと苦渋を味わう人生を歩んできたと思っていたが、絵を描き、分かり合える友がいて、俺の浮気を嘘と飲み込み傍に居てくれる翠也がいる。
これ以上ないほどの満ち満ちた人生だ。
「……う たろさん?」
問いかけられて顔を覗き込むと、艶のある黒い瞳に自分が映っているのが見えた。
高い熱にうなされて、苦しいだろうにただただひたすらに俺を見詰める翠也に、胸を絞めつけられて鼻がつんと痛んだ。
「ああ」
応えるとそれだけで万能薬でも飲んだかのように、ほっと楽になった表情を見せてくれる。
俺だけをひたむきに見つめる姿に、愛おしさを感じて微笑む。
「今日は俺が看病するよ」
「でも……」
すぐに温んでしまう額の布を替えながら、不安そうに視線を向ける翠也に「ちゃんといるよ」と声をかけ続けた。
微かな寝息の合間に芯の擦れる音が響く。
すべらかな頬に影を落とす睫毛、
柔らかな閉じられた唇、
白い陶磁器色の肌が熱で赤らみいつもよりも人間らしい。
その様を、鉛筆の一筋に託す。
起きていたら恥ずかしがってさせてはくれないだろう。
照れて怒り出してしまうんじゃないかと想像して、唇の端に笑みを乗せる。
きっとその姿も愛らしいのだろうけれど……
「そんなことを言ったらまた怒るかな?」
光に透けた塵がふわりと舞い散る中、ただひたすらに翠也を描き写していく。
微かな息と、
微かな音に、
至福を感じて翠也の熱い指先を握り締める。
これ以上の幸せなんてありえないのだと、眠る翠也の赤い頬に口づけた。
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