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霍公鳥と川蝉 4
噛み締められた唇で真っ直ぐにこちらを見る姿は、抱き締めてやらないと倒れてしまいそうだった。
外套の裾を握っていたるりの手を外させてから、翠也へと近づく。
「 」
「急ですまないね」
「 」
「短い間だったけど、楽しかったよ。ありがとう」
小さく口が動き、声を出さないままに言葉を告げる。
────行かないで
確かにそう読み取れた。
たった一言を声に出して言うことが厭われる。
人に聞かれるのを憚られる。
そんな歪な関係。
「君の絵を見かけることを、楽しみにしているからね」
よく涙を流す翠也が、皆の前で泣いてはいないかと気になったが俺は振り返ることができなかった。
馨子から用意されたのは工房も兼ねた一軒家で、俺とるりが気楽に暮らせるようにとの配慮だった。
いきなりの二人暮らしで戸惑わないことがなかったわけではなかったが、むしろ新しい環境に慣れようと忙殺される日々こそ、俺の中の未練から目を逸らさせてくれる。
るりの指導に自身の創作にと忙しくすれば翠也とのことを考えなくても済むとばかりに、一心不乱に絵を描き続けていたせいか、雪が降ったことにも気づかないほどだった。
「先生、こちらは?」
奥野に問われて顔を上げると、目立たないように避けていた画布を持って興味深げにしているのが目に入る。
「ああ、それは……個人的な物なんだ」
以前に翠也から頼まれた霍公鳥と川蝉。
結局、南川の屋敷にいる間には完成させることができなかったそれをじっくり見て、「奇妙な組合わせですね」と感想を告げる。
「そうかな、共に夏鳥だし……」
「ああ! 先生のお名前ですね」
「は?」
思わず聞き返した俺に、奥野は丸い顔を驚かせて「え?」と返す。
「久山を表す緑に、卯太朗の卯では?」
そう言われてもきょとんと返すしかない俺に、奥野は笑って「深読みし過ぎましたか」と照れる。
「川蝉は翡翠、霍公鳥は卯月鳥とも書きますからね、ご自身を表す洒落かと思ったのですが……」
ふっと吐いた息が吸い込めなかった。
これを、翠也が描いて欲しいと強請ったのは……
霍公鳥も川蝉も、翠也は好きだから描いてくれと言ったのではない。
「俺と、君だからか……?」
公にできない関係の、せめてもの証として。
腰が抜けたようにぺたんと座り込むと、奥野が怪訝な顔をしてくる。
そしてふと、霍公鳥と川蝉と言った時の玄上の態度を思い出して、額に手を当てて呻いた。
あいつは、きっとあの時にはもう気づいていたんだろう。
なぜ霍公鳥と川蝉なのか、
なぜ翠也が依頼したのか、
どう言う思いが込められていたのか……
「は はは……」
「先生?」
先程から訝しむ顔をし通しの奥野に、出かける用事があると告げてその絵を持って家を飛び出す。
今更、こんなものを渡されても翠也は困惑するだけだろうことは重々承知だった。
けれど理由を知った今……
素知らぬ顔をして渡せば、翠也は受け取ってくれるのではないか?
俺から渡されたものなど見たくもないかもしれないが、そうだとしてもほんのわずかな縁でも翠也と繋がっていたくて。
ただ忘れられる存在にはなりたくなかった。
例え恨まれたとしても翠也の中に何らかの形で残っていたかった。
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