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霍公鳥と川蝉 8

「僕が遅かったから、こんなことに……」    傷だらけの手に落ちる涙は温かくて…… 「……君は、生きているのか?」 「当たり前です、しっかり動いているでしょう?」  導かれた薄い胸に手を当てると、確かに鼓動が刻まれているのがわかる。 「どうして?」  問いかけは単純すぎて、なんだか小さな子供にでもなった気分だった。 「南川翠也が死んだと言うことには違いないです」  寂しそうに言うと、翠也は「南川の名前は捨ててきました」と説明に困ったように微笑んだ。  言葉を胸中で繰り返して、それから「え?」と声を上げた俺に更に力を込めて抱き着いてくる。 「絵と引き換えに、南川の籍から抜けてもいいと」 「それ……は……」 「家もありませんので、もしよろしければこちらで下男として置いていただけたら……」 「何を馬鹿なことを言っているんだっ!」  怒鳴り上げると、膝の上の体が小さく跳ねて項垂れた。 「……すみません、図々しいことを……他の伝手で雇ってもらいますから聞かなかったことに」 「そん、そんなこと言ってるんじゃないっ! なんて馬鹿なことをしたんだっ! 君の絵はっ……そんな……」  言葉が見つからずに口をはくはくと動かしていると、やはり困ったように笑う翠也が首を振る。 「貴男が、僕のことを想ってくれているのだと知れただけで、十分に価値はあります」  ね? と小さな子に言い聞かせるように言われて、自分が本当に小さな子供になってしまったんじゃないかと思ってしまう。  あの絵を、諦めると?  心を鷲掴まれて放さない、あの絵を?  冗談じゃない。   「今からでもっ俺も奥様にお願いするから! 屋敷に帰ろうっ奥様だって本心じゃない! 君は  」  言葉が途絶えたのは、翠也が口づけてきたからだ。  柔らかく、  甘く、  背徳の甘露だ。  触れ合う体で温められた肌の匂いの甘美さに泣きそうになる。   「駄目だ……」  酷く苦労しながら腕の中の翠也を引きはがすと、やっと温まった体があっと言う間に冷えてしまって、やっぱり目の前の翠也は幽霊なんじゃないかと言う思いが過った。 「駄目だ、俺のためにそんなことをしちゃいけない! 俺は  っ」  卑怯な俺はこんな状況になってもまだ翠也に真実を告げる勇気を持てなくて、言葉を詰まらせて唇を震わせるしかできない。 「卯太朗さん」  いつもの通りの、柔らかな響きで名前を呼ばれるのがたまらなく嬉しくて……  手を取られただけで、  微笑まれただけで、  見詰められただけで、    幸福のただ中に堕ちる気がする。 「僕は、貴男となら畜生に堕ちても構わないと告げたはずです」  痛々しそうに傷をなぞる指先を見詰めながら、翠也の言葉を胸中で繰り返す。 「翠也……君は……」  再び触れた唇の甘さに言葉は途切れて、俺は項垂れるしかない。  それが君の覚悟だと言うのなら、俺はただただ頭を垂れてそれに跪く。  幾らこの先の道行が暗かろうと、わずかな月明かりのような道筋だろうと、俺はただ傷だらけの手で君の手を取り共に歩むだけだ。 終。      

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