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第1話

蝶々が欲しければ纏足すればいいのよ。 むかしあるところに胡蝶と名はつけど飛べぬ蝶と、その蝶を恋い慕う愚かな下男がいた。 男が蝶を見つけたのは麗らかな春の日。きっかけは靴であった。 寸法は幼女のそれと大差ない。金糸で蝶を刺繍した華奢な靴だ。 どうしてこんなものが落ちてるのか見当つかず、秀圭は困惑する。 秀圭が春から下働きとして雇われたのは豪商、李家の屋敷。 寝たきりの奥方の物ではないだろう。 使用人仲間の顔をひとつひとつ思い浮かべていくもやはりそぐわない。 飯炊きの下女や侍女がよそ行きの靴をもってないのは百も承知だ。 腰痛持ちの老庭師を気の毒に思い、代わりに芝刈りを申し出た秀圭はゆるりと見回す。 州随一の繁栄を誇る豪商の屋敷とあって、千坪はあろう庭園は離宮に匹敵する規模。 「お転婆娘が忍び込んだか……にしちゃあ上等な靴だが」 奇異な感じを与える原因が判明した。対となる靴が見当たらないのは不自然だ。 靴を片方なくしたら普通気付かぬはずがない、すぐ取りに戻るだろう。秀圭とて靴がすっぽ抜ければさすがに気付く。 今ごろ靴の主はどうしてるのか。 片方裸足のままどこぞをうろついてるのか。 「……困ったな」 持ち主は女の子だろう。 靴をなくした子供が独り迎えを待つ姿を思い浮かべ決断を下す。 手のひらにのせた靴はひどく軽い。鳥の羽一枚分ほどの重さしかない。 指先でつまむようにして靴をぶらさげ、苦笑がちに呟く。 「まるで人形の靴だな」 なにげなく足元を見下ろす。 粗末な布を雑に巻いただけの靴。 下男は皆秀圭とおなじような靴を履いているから特に意識した事はなかったが、世の中に確かに存在する貴賎の別と貧富の差とをしみじみ噛み締め、羞恥の念が焼きつく。 「だれかいるのか。いるなら返事をしろ」 秀圭の顔に懸念の色が射す。 もしや、何かあったのでは。 足をくじいて立てないとか転んでどこかを打ったとか、返事をできない事情があるのか。 秀圭とて暇ではない。身ひとつでぶらついてるところを見咎められれば叱責が待ち受ける。 が、どこかに泣いている子供がいると知りながら放っておけない。 「おい、聞こえているならうんとかすんとか」 「すん」 耳を疑う。 返事がした方向を反射的に仰ぐ。 すん、すん、すん。甘えるように鼻を鳴らす。 泣いている? 「さあ、一緒に帰」 言葉が途切れる。 しなだれた柳の大木のむこう、蓮池に架かる朱塗りの橋の欄干に腰掛ける一人の娘。 優しげななで肩。丁寧に結い上げた髪に蝶の簪を挿している。 たおやかな後ろ姿に一瞬見とれる。 背中だけでも十分麗姿とよんで差し支えない。 子供ではない。 背格好から推定した年齢は十六、七。 裸足の爪先を水面に浸し、同心円状の波紋を投じる。 娘の足は畸形だった。体格に比して異様に小さい。 指は親指を除き四本とも内側に折り曲げられている。 全体が窮屈そうに窄まった足は忌まわしい因習の産物。 「すん、すん、すん」 裸足の親指でつつくや水面がさざなみだつ。 怖気づく。近づくのを躊躇う。 話には聞いた事がある。実際見るのは初めてだ。 貞節を重んじる名家の子女にはいまだ施術が行われているという風聞だが…… 指が未発達のまま折り曲げられ萎縮した足は悲愴な残虐美を醸していた。 娘の手元に目を凝らし、秀圭は、見た。 蝶の翅をむしっている。 「な」 波紋を広げる水面に散乱する蝶の翅。 俯き加減で顔の造作はさだかではない。 妄念に取り憑かれ。 静かなる狂気漂う手つきで。 繰り返し繰り返し、儀式めいた繰り返しで蝶の翅をちぎり捨てる。 なんだこいつは。 狂ってるのか。 どうしてこんな惨いまねを。 繊手がひらつく。髪がぱらつく。鬢にまとわりつくおくれ毛がふわりとそよぐ。 「殺生はよせ、可哀想じゃないか。蝶になんの恨みがある」 光沢ある白緞子の着物を纏う娘に歩み寄る。 ゆるやかに広がる裾が襞をつくる。 蓮池の水面には泥からすらり茎を伸ばし睡蓮が咲き乱れる。 蓮の花に蝶々が羽ばたき戯れる。 「聞こえてるのか。生き物をいじめるのはやめると言ってる、そいつらがお前になにをしたと言うんだ」 娘は耳を貸さない。 透かしを入れた薄紙細工のような翅がはらはらと舞い、渦を巻いて水面に浮遊する様は圧巻だ。 日頃温厚な秀圭もさすがにいらだち、どこか浮世離れした娘に対し声を荒げる。 「蝶に祟られても知らんぞ!」 しゃらり。 衣装に薫き染めた伽羅の芳香が匂いたつ。 黒髪が揺れ、手を止めて振り向く娘と目が合う。 息を呑む。 物憂く被さる長い睫毛、濡れ濡れと輝く切れ長の瞳、秀でた鼻梁と慎ましやかに結ぶ唇。 秀麗な面差しは小揺るぎもせず石英質の美をとじこめている。 ほんのりと血の色を透かし色づく白皙の肌。 脆くちぎれた翅がはらはらと舞う。 一刹那、視線が絡み合う。 魂を吸い取られるような清廉な美しさにしばし身動きを忘れ見とれる。 秀圭とは生まれ育ちからして違う。同じ生き物とさえも思えない。 睡蓮の精だと言われれば容易く信じてしまいそうだ。 娘は瞬きもせずじっと秀圭を見つめる。 手は蝶の燐粉に塗れ黄色く変色している。 ついと視線が動く。つられてそれを追う。 「……お前の靴か」 胡散臭げに確認をとれば、首肯の代わりにおとがいをしゃくる。 ひとに傅かれるのに慣れた驕慢な表情は、自分では指一本動かすのさえ厭う貴族のそれ。 すなわち、「お前が履かせろ」と言っているのだ。 むっとする。 「ひとりで歩いてきたんなら自分で履けるだろう、甘えるんじゃない」 お高くとまった態度と無邪気な残虐性に嫌悪を催し、自然言い方がきつくなる。 柳眉が逆立つ。相手も腹を立てたのだろう。 「言いたいことがあるなら口で言え、俺にどうしてほし」 おもむろに裾をはだけ、じれたようにを足を突き出す。 生まれてから一度も日に晒した事のないようなおみ足の白さ、不健康なまでの細さにたじろぐ。 痛々しい素足を見るに耐えかね、かすかに上気した顔を背ける。 「……わかったからしまえ。嫁入り前の娘がはしたないまねをするな。旦那といいなづけ以外にみだりに肌を見せるな」 艶やかな唇が勝ち誇った弧を描く。 感情は顔にださぬよう努め、傅いておみ足をすくう。 踵を支えて靴を履かせる。 骨格の歪曲は手で触れればなおくっきりわかってしまうが、軽口で後ろめたさを散らす。 「わがままな嬢やだな。据え膳上げ膳の暮らしをしてると自分で靴ひとつ履けなくなるのか」 爪がささくれ皮は固く、あかぎれだらけの手で触れるのは冒涜に近しい抵抗が働く。 甲斐甲斐しい手つきで靴を履かせ終え一息つく。 秀圭が作業を終えるまで置き人形さながら娘はじっとしていた。 面白そうな様子でしげしげと秀圭の手が動くさまを観察、足首をなでさする。 「……物珍しいのはわかるがよそんちの庭に我が物顔で居座るのは感心せんな。付き人が待ってるんだろう、早く帰れ」 身なりからして裕福な商家の令嬢だろう。 親についてきたものの退屈して抜け出した、そんなところか。いかにも世間知らずな娘の振る舞いだ。 いつまでも立ち上がらぬ娘を気遣う。 「足をくじいたか?」 再び屈みこみ、真剣な目つきで足首を検分する。 小娘といえど女、身分は上。無礼にあたらぬよう触診には細心の注意を払う。 異常なし。 医者の真似事では詳細まではわからねど、捻った形跡やくじいた痕跡は皆無。 怪我をしているなら痛みに顔を顰めくらいするだろう。 純粋な疑問を口にする。 「なんで蝶を殺した」 かたくなに沈黙を守る。裾をおろして萎えた足を覆う。秀圭はひとつため息をつく。 「胡蝶の夢という話を知ってるか」 少女が目を上げる。 「ある旅人が夢で蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして旅人が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て旅人になったのか……って話だ。妙な話だと思って寓意を考えた」 わざと声音を低め、さもおそろしげに言う。 「もし嬢やが蝶が見てる夢の中の存在だとしたら、そいつを殺した途端嬢やは消えちまうかもしれないんだ。うたかたの如く」 少し脅かしてやろう。 そうすれば無益な殺生を慎むはず。 「蝶と心中する気か?跡形もなく消えたくなけりゃ生き物をいじめるのは」 懇々と繰り返す戒めを遮り、娘が動く。 おもむろに繊手をかざし、秀圭の頬に添える。 「な」 匂やかな指。 眼前に迫る秀麗な顔。 指が触れた場所がじんと熱を持つ。 甘美な余韻に脳髄が痺れ、睫毛が縺れ合う。 頬に燐粉をなすり、満足した指があっさり離れていく。 ふっくらした唇に悪戯げな微笑がちらつく。 「…………っ、大人をからかうんじゃない」 娘の笑みから目を逸らす。ばつが悪い。 妙な娘だ、構うのはよそう。 「俺は行く。お前も早く帰れ。自力で池の端まで来れたなら歩けないわけじゃあるまい」 三十歩ほど行って振り返れば娘はまだそこにいた。 日が暮れるまで居直る気か。 「………おかしなやつだ」 付き合いきれん。帰りたくない理由でもあるのか。 いずれにしろ自分には関係ないと断ち切り、大股にその場を去った。 李家の長男にして跡継ぎ、塞翁は齢二十三。 縁談の話が持ち上がっていい頃合だ。 眉目秀麗な貴公子と名高い塞翁は同格の商家はもとよりさらにその上、高級官吏の入り婿としても待望される優秀な若者だった。 「塞翁さまはしばらく都にいってらしたの」 秀圭と懇意にしている女中の遥淋が夢見るような表情で言う。 細腕から水桶を借り受け、代わりに汲んでやりながら、さしたる興味はないが礼儀として聞き返す。 「都に?遊楽か」 「商いの取り引きよ。綺麗な反物や外国産の珍しいお土産を沢山持って帰ってらしたわ、女中たちも大喜びよ」 蓮っ葉な口調に悪意はなくかえって親しみを感じさせる。 働き者の秀圭は、このようにしてよく力仕事を代わってやるため他の使用人から頼りにされていた。 とくに明朗闊達な遥淋は、秀圭とほんの一年違いで奉公に上がった経緯もあってか、彼の朴訥とした人柄に甘え色んな相談ごとを持ちかけていた。 あばたが目立つ日焼け顔はお世辞にも美人とは言えないが、溌剌とした笑みになんともいえない愛嬌があって、屋敷の皆に愛されていた。 秀圭もまた、気立てがよく裏表のない遥淋を好ましく思っていた。 秀圭の世間知らずをけらけら笑いながら、耳年増な女中は話す。 「子供の頃から利発で有名だったのよ。官吏の家に生まれてれば科挙を受けて今頃登第の進士さまだったかもね。こう言っちゃなんだけど、旦那様も近頃めっきり老け込んじゃったし……塞翁さまがお嫁さんをもらって李家を牛耳る日も近いって噂よ」 「子供の頃からって……その頃から奉公に?」 「葉明婆の受け売り」 桶を置いて問う秀圭の肩をふざけてはたき女中が笑う。秀圭もつられて笑う。 「お屋敷の生き字引だな」 葉明は最年長の使用人、李家で六十年働く老婆。 使用人ひとりひとりの顔と名前のほか、李家とゆかりある商い先の事情も知悉した長老である。 「今が玉の輿のねらい目だってみんなはりきってるわ」 「どうりで浮ついてるわけだ」 「女中は浮き足立ってるわよ、若様のお手つきになればいい思いができるって」 両手で桶を持ち、野望を語る遥淋の目は生き生き輝く。 一生を働き詰めで終える奉公人にしてみれば若様の愛人になるのは夢だろう、身分違いで正妻にはなれずとも贅沢三昧の暮らしが保証される。 正直塞翁に羨望を感じないといえば嘘になるが、塞翁の愛人の座を狙う女たちの醜い争いは感心しない。 色恋沙汰にまつわる軽薄な風潮に、秀圭は苦りきった顔をする。 「そういう尻が軽いのは好かん」 「ったく、堅物ねえ。ああそっか、ごめんごめん、あんたこういう浮いた話は苦手だっけ。恋愛には奥手だもんねえ。堅物すぎて惚れた腫れたに縁がないんでしょ」 遥淋にかかっては形無しだ。 「塞翁さまにお会いしたことは?」 「遠くからちらっとお見かけしたことはあるが口をきいたことはない」 「いい男だったでしょう」 「……よくわからん」 邸内で塞翁を見かけた事は数えるほどしかない。 一介の使用人と跡取り息子では立場が違う、親しく口をきく機会もない。 遠目には遥淋が惚れ惚れするのも頷ける美男子だった。 「まったく朴念仁ねえ、張り合いのない。塞翁さまがお帰りなさってから屋敷の表も中も大騒ぎだっていうのに、流行に乗り遅れちゃうわよ」 「格別乗りたいとも思わん」 頑固な秀圭にほとほと呆れ遥淋が首を振る。 「この頃お屋敷に駕籠の出入りが激しいのは縁談よ。正妻の座を狙ういいとこのお嬢様が肝いりで送り込まれてくるのよ。まだ塞翁さまがおちたって聞かないけどね。面食いなのかしら?」 瞼に昨日蓮池のほとりで会った娘の面影がちらつく。 ひょっとしたら、あの娘も縁談に。 「どうしたの秀圭、しかめっつらしちゃって」 娘の着物や靴は良家の令嬢のもの。年は若いが、塞翁の妻候補として縁談にやってきたのなら辻褄が合う。ならばどうして池のほとりでぼうっとしていた?縁談を抜け出して庭の見物?お見合いにも塞翁にも興味がないのか。 ふいに遥淋が眉間をつつく。 「皺を寄せない。男前がだいなしよ」 「……からかうな」 憮然として遥淋の手を払う。遥淋は活発に笑いつつ言う。 「悩み事?話してみなさい」 「いや……昨日妙なものを見てな。それが心にかかっている」 「妙なものって?」 「胡蝶の化身か睡蓮の精か……生身の存在とは思えん」 遥淋が首を傾げる。秀圭もまた己の心の動きを不思議に思う。 どうしてこんなにもあの娘が気にかかるのだろう。 塞翁の妻になるかもしれない娘が。 「俺は帰るぞ。あとは一人でできるだろう」 「ありがとうね秀圭、またなんかあったらよろしくね。そうだ、使用人頭があんたに頼みたい事があるって言ってたわよ」 「なんだ?」 「使い走りじゃない?いってらっしゃい」 秀圭の肩をトンと叩いて送り出し、桶をもって厨房へ向かう。 「秀圭や、これを町の仕立て屋に届けとくれ。塞翁様ご所望の品だ、くれぐれも丁重にな」 言伝られた用件は使い走りだった。遥淋の勘はよく当たる。 「承りました」 快く請け負い、丸めた反物を肩に担ぐ。 はるばる都から取り寄せたというその反物はなるほど素晴らしい光沢の生地で、愛人に貢ぐのではないか、恋人に贈るのではないかと若い女中たちが色めきだって噂する。 庭を突っ切って門へ向かう道すがら、昨日の不思議な出会いをふと思い出し、橋の付近で歩調をおとす。 「な」 既視感。 絶句。 昨日とほぼ同じ場所に同じ物が落ちていた。 金糸で蝶を刺繍した赤い靴。 先端は尖り踵は高く、靴本来の用途を大きく逸れた装飾を施されている。 「またか?」 足を守るという本来の目的から逸脱し、拘束具として機能する靴。 どうしてここに。昨日届けたはずなのに。あの娘が来てるのか。 あそこにいるのか? 胸の奥で激しく動悸が打つ。自然と足が急いて池へ向かう。 おつかいと娘と、自覚のないまま優先順位が入れ代わる。 一度目は親切心、二度目は好奇心と使命感、それ以外のなにか。 落とし物は届けねば。綺麗な靴なら尚更だ。 庭に放置された靴を腰を屈め拾い、なかば確信をもって持ち主に会いに行く。 好奇心と義務感の他に忌避に近い感情も働く。 あの娘に会いたくない、関わりたくないと心が尻込みする。 せっかく靴を拾ってやってもつんとして礼ひとつ言わない娘…… いた。 此岸と彼岸を繋ぐ橋の欄干に、緞子の如く照る黒髪をたらし娘が座っている。 娘は瞑想するような表情で水面を見つめていた。魂もたぬ人形のような静けさをまとう。 大股にそちらへ向かう。 「落とし物だぞ嬢や」 返事はない。なかば予期していたが、腹は立つ。 娘は秀圭の接近を知りながら無視し、手慰みに蝶の翅をちぎる。 「お前の耳はザルか、節穴か。俺の忠告は届いてなかったようだな」 娘の態度にむっとしつつ靴を突き出す。 「庭で拾った」 娘が初めて振り向く。しゃらりと髪が揺れ、匂いが立つ。 艶めく流し目で秀圭に一瞥払い、あえかな唇を薄く開いて皓歯を零す。 娘が言葉を発する前に、その足元にぽんと靴を投げる。 「自分で履け。俺は忙しい。わがままに付き合いきれん」 娘がきょとんとする。 秀圭は踵を返す。 落とし物は届けた。義務は遂げ責任は果たした。もう何の関わりもない…… ぽこん。 「!痛っ」 無防備な後頭部に衝撃。 頭をおさえて振り返る。 秀圭の頭にあたったのは彼自ら届けた靴。娘が振袖をたぐって投げたのだ。 「~一体……」 娘が顎をしゃくる。履かせろの合図。 怒りが沸き立つ。欄干にもたせた体を反転、裾を膝まで捲り上げすらりとした素足をさらす。 かまってられるか。 よほど無視して行きかけたが、じっとこちらを見つめる娘の瞳に胸が騒ぎ、不承不承靴を拾って歩み寄る。 「行ってほしくないなら口で言え」 すん、と息の音。憤慨した様子。 娘の前に片膝つき、窄まった足に靴を嵌めていく。 娘はされるがまま大人しくしていた。 下賎な使用人が高貴な身に触れても抵抗は感じないのか、危害を加えないと信頼しきってるのか。鳥の囀りが遠く近く響き、穏やかな時が流れる。衣擦れの音さえ優雅だ。 何度見ても憐憫の情を催す。 自然に逆らい人工的に曲げられた指、後天的に歪められた足。 矯正の建前を借りた肉体改造。 よくこんな足で出歩けるものだと感心する。 「見た目に似合わずお転婆だな」 いたわる手つきで足を抱き、指ひとつひとつをつまんでくすぐる。 秀圭の言葉を正しく理解したのか、娘は愉快げに笑う。 すん、すん、すん。声を伴わぬ息の音だけの笑い。 「……口がきけないのか」 どうしてすぐ気付かなかったのか。 そう考えれば辻褄が合う、不自然な態度も筋が通る。 話さなかったんじゃない、話せなかったのだ。 聾唖か。いや、こちらの言葉はちゃんと理解している。 娘は哀しげに目を伏せ、首に巻いた布にそっと触れる。 声を喪失した纏足の娘に罪悪感の裏返しの同情が湧く。 「すまん、誤解していた。あんたがわざと話さないのかと勘ぐって……俺を無視してるのかと……大人げなかった」 しどろもどろ謝罪する。 けっして躾がなってないわけでも澄ましてるわけでもない。 大胆に裾を捲り上げたのは娘に許された数少ない意思表示の方法、要望を伝える数少ない手段。 『行ってほしくないなら口で言え』 今さっきの失言を後悔する。 自分を責めて俯く秀圭の頬を髪がくすぐる。娘がおもむろに顔を近づけ、大きく口を開ける。 真似しろというのか。 つられて口を開けるやすかさずなにかをつっこまれる。 「!ごほっ、がほっ」 喉の奥までつきこまれた指にえづく。 激しく咳き込む口の中のものを唾と一緒に吐き出せば、娘が手を叩いて笑い転げる。 「う………なんだ」 喉の奥がいがらっぽい。吐き出したものを見てぎょっとする。 蝶の翅。 「蝶を食わせたのか?」 すん、すん。娘は無邪気に笑う。 袖の袂でくりかえし口を拭い唾を吐き、娘の嬌態をにらみつける。 「性悪め……!」 憎憎しげに毒づく秀圭に対し娘はしてやったりと得意げな顔。 大人の女顔負けの媚態を演じたと思いきや次の瞬間にはお転婆な娘へ、万華鏡のようにころころ表情が変わる。 粉っぽい指の後味を反芻し、妙にまごついてしまう。 これ以上ボロをだす前にと立ち去りかけ、裾を引かれたたらを踏む。 「もう気がすんだろう」 口をぱくぱく開け閉め。なにかを伝えようとしている? 立ち止まった秀圭を見上げ、橋にぺたりと座り込み、燐粉を塗した指でもって何かを書きつける。 『胡蝶』 「フーティエ……胡蝶。名前か?」 こくんと頷く。 胡蝶。娘に似合いの美しい名だ。秀圭は気後れしつつ答える。 「俺は秀圭……屋敷の下働きだ。この春から雇われた」 『秀圭』と、娘の名の隣に自分の字を書く。 胡蝶はまじまじとそれを見つめ、両手をぱっと開き、ついで右手の指を四つ折る。 「齢か。お前十四なのか?」 驚く。 十四にしては背が高い。念入りに施された化粧のせいで大人びている。 「俺は二十三だ。お前より九つ上だな」 胡蝶は一言たりとも聞き逃すまじと集中して秀圭の自己紹介に耳を傾ける。 人と出会い知識を吸収するのが楽しいのだろう、好奇心旺盛ぶりが微笑ましい。 初対面の時は近寄りがたく浮世離れして見えたが、今の胡蝶は年相応に無邪気で子供っぽい。 十四と口の中で反芻し、呟く。 「輿入れにはまだ早い……」 考えていた事が口に出た。 頭の片隅にこの娘は塞翁の婚約者候補だという思いが常にあったからだ。 厄介払いか。 口の利けない娘がいたんじゃ体面が悪い、早く嫁に出して追い払おうという魂胆か。 「嬢やは塞翁さまのいいなづけか。お屋敷に滞在してるのか」 首を横に振る。 秀圭は腰を上げ、ぶっきらぼうに言い放つ。 「俺は行く。嬢やも早く屋敷にもどれ、人がさがしにくるまえに」 橋板を軋ませ歩み去ろうとして、胡蝶の様子が気にかかり振り返る。 橋に突っ伏し、振袖の袂を豊かに波打たせ、あたりに散らばった蝶の翅の切片を拾い集めて水面に撒く。 胡蝶の手から放たれた蝶の切り翅ははらはらと虚空を舞い、花弁のように水面を覆う。 蝶を弔う儀式の静謐さが心を奪う。 春風に漣立つ水面が描く神秘的かつ幻想的な模様に魅せられつつ、切り翅を撒く娘の目が放つ鈍い光に惹きつけられる。 まるで蝶を憎んでるようだと思った。 その日を境に秀圭と胡蝶は橋の上で逢瀬を重ねるようになった。 口はきけねど洞察に長けた聡明な娘で、意思疎通は首振りと目配せで事足りる。 胡蝶は決まって先に来て、欄干に腰掛け秀圭を待つ。秀圭が仕事を終え一息入れに来てみれば、必ずそこで待っている。 「お屋敷にいるのか?」 首を横に振る。 「塞翁さまに会ったことは?」 縦に頷く。 「縁談にきたんじゃないのか」 沈黙。 「その……すんが言えるなら頑張ればうんも言えないか?」 また、沈黙。 「……すまん」 秀圭はもとより口が重いたちで胡蝶は口がきけぬため話が弾んでるといえば嘘になるが、橋の上には妙に居心地のいい空気が流れていた。 どうしてここにいるのか尋ねてもはぐらかされるばかりで釈然としない。 胡蝶はきまって橋にくるまでの途中に靴の片方を落としていく。 秀圭が迷わぬためのめじるしのように。 そうして靴を落としておけば秀圭が必ずやってくると信じているのか。 秀圭は憮然とした顔で胡蝶に靴を履かせる。 胡蝶は欄干に腰掛け、屈む秀圭の肩に両手を添え、心もち抱きつくような格好でじっとしている。 畸形への違和感と嫌悪は逢瀬を重ねるにつれ薄れていった。 「どうしたの秀圭、妙にそわそわしちゃって。休憩のたびさっさと消えちゃうし、いい人でもできたの」 「……蝶が待ってるんだ。俺がいなきゃ靴も履けん」 遥淋の軽口にそう答え庭を横切る途中、むこうからやってくる人影に気付く。 立派な身なりと風貌の青年。 「塞翁さま」 片膝ついて礼をする。 彼こそ李家の総領息子、女中の噂の的、塞翁だった。 跪く秀圭に目をとめ、塞翁が誰何する。 「お前は……」 「この春からお屋敷に雇われた秀圭です。お見知りおきを」 「親父が新しく雇ったやつか。なるほど、くそがつくほどまじめそうな顔をしてる」 口の片端を釣り上げ笑う。違和感がひっかかる。 女中らの噂によると使用人にも親切な貴公子だというが、秀圭に対する態度にはどこか含みがある。 言葉に窮し話題を変える。 「散歩ですか」 「蝶と戯れていた」 「蝶と、ですか?」 「風流だろう?」 塞翁が笑い、戸惑う秀圭とすれ違いぎわ耳元で囁く。 「蝶には毒がある。お前も気をつけろ」 謎めいた言葉を残し意気揚々と立ち去っていく。 屋敷へ帰る塞翁を見送りいつもの橋へ向かう。 「胡蝶?」 姿が見当たらない。 今日はいないのだろうか。 置手紙の代わりに欄干の上にひとつ靴が。 「これを届けろと……?」 秀圭が胡蝶について知っている事はごくわずか、名前と年齢、それ位だ。 趣味は蝶の翅をむしること、秀圭をからかうこと。 時折戯れに翅を食べて茶目っ気を披露する。 どこから来てどこへ行くのかもさだかでない娘の存在がいつしか心の多くを占めていたことに姿が消えて初めて気付く。 『私を捜して』と欄干に残された靴が訴えている。 小さな靴を懐にしまいこみ、橋の上でひとりごちる。 ふと視線を下げれば、秀圭が立つ場所についさっきまで探し求める人物が居た証拠に蝶の翅がちらばっていた。 翌日も翌日も胡蝶は姿を見せなかった。 得体の知れぬ胸騒ぎを覚え、秀圭は使用人仲間に聞き込みを始めた。 「さあ、知らないねえ。いまお屋敷に泊まってる客人なんていないはずだけど」 「そんなはずはない、たしかに見たんだこの目で。池のほとりで美しい娘を。名前は胡蝶、見た目は十六・七」 「どっかの旅人のように蝶に化かされて夢でも見たんじゃないか?」 「んな別嬪ならぜひお目にかかりてえもんさ」 使用人は誰も胡蝶を知らなかった。 確かに見たと訴える秀圭の言葉は軽くいなされ、その必死ぶりはからかいのネタとなった。 「そんな別嬪が庭をぶらついてたら目立つはずだわ、なのに誰も知らないなんておかしいじゃないの。働きすぎて幻を見たのよ」 「違う。俺は触れた、この手で靴を履かせてやったんだ。あんなにはっきりした幻があるものか、あれは確かに生身の人間だった」 「はいはい、わかったから。息抜きに娼館でも行ってきたらどお?」 誰もまともに相手をしてくれなかった。 そのうち、秀圭は気付く。 秀圭の見たものを幻か思い込みと決めつけ嘲笑う使用人と違う、よそよそしい素振りを見せた使用人の存在に。彼等彼女らはいずれも古株の年配者、十年以上お屋敷で働く者たち。年の若い使用人がはなから相手にせず笑い飛ばした秀圭の訴えを、「なにをバカな」「気でも違ったか」「くだらぬことを言ってサボる気なら追い出すぞ」と執拗に否定し、秀圭を盗み見てこそこそと話し合う。 何かを隠している。 住みこみで働き始めて三ヶ月、その疑いはどんどん濃厚な気配を帯びて顕著になる。 たとえば食事。厨房を差配する料理人を釜戸に火をいれながらうかがう。ひとつ余分に用意された膳に気付く。 その膳は家族が住まう本宅とは別の場所へしずしず運ばれていく。 たとえば老いた女中の怪しい行動。風呂敷に衣類を包み、いそいそいずこかへ忍んでいく。 一体何を隠してる。 胡蝶の身上に関わることか。 知りたいという願望が膨れ上がる。欲求を抑えきれない。 どうして突然姿を消したのか、理由を知りたい。 ほんの数回顔を合わせ触れ合ったきりの一回りも下の娘にどうしてこんなに惹かれてしまうのか、自分でもわからない。 満月の晩、秀圭は尾行を開始する。 標的は最年長の女中頭、葉明。 抜き足差し足忍び足、可能な限り素早く後を追う。 靴をしまった懐に自然と触れる癖がつく。 庭を突っ切り奥へさらに奥へ…… 蓮池を越えてしばらく行ったあたりにこぢんまりした離れがたたずむ。 「……ここは」 離れの存在を初めて知った。 老婆は離れに入る。 柳の木に隠れ様子を見守る。 ほどなく老婆が出てくる。 「葉明婆さん」 皺ばんだ顔に驚きと畏れが走る。 驚かせないようひそやかに詰め寄り、問う。 「どういうことだ、屋敷の人たちはみんなして何を隠してる。こんな夜更けにこそこそと庭を抜けて……離れの存在は今晩初めて知った、なんであんなものがあるんだ。それだけじゃない、旦那さまと奥方さまと若様と膳は三つでことたりるだろうにどうして四人分あつらえる?俺が橋の上で見かけた娘の話を大半の使用人は笑って流したが、年が上の使用人は妙にそわそわとした。誰があそこに住んでるんだ」 老婆を追い詰め間合いに踏み込む。 「頼む、教えてくれ。なかにいるのは誰だ」 離れに囚われてるのは秀圭が一目で心奪われた人じゃないかと。 あの不可思議な娘じゃないかと。 「……教えてくれないならこの目で確かめに行く」 「!待つんじゃ秀圭、いけない、それだけは」 制止の手を振り切り足早に、次第に駆け足に、最後は疾走し入り口をくぐる。 「真実を知ったら後悔するぞ!」 背を鞭打つ老婆の声を振り払う。 目が暗闇に慣れるのを待ち、息遣いを抑えて人の気配を手繰り寄せる。 こっちの方から声が…… 「あっ、あっ、あ」 切ない声。 戦慄に立ち竦む。 「あっ、ああっ、ひ、あ、ああっ………」 「いい声で啼け。どうせ誰もいない、召使いの婆さんは今さっき出ていった、遠慮はいらない。ああ、その声、その顔だ……たまらない。お前がそうしてしゃにむに抱きついてくるとさんざん撃ち尽くして萎えたものもほら、この通り」 盗み見を咎める良心は物狂おしい背徳の誘惑に負け、紅格子の隙間を覗く。 そこは閨房だった。 寝台の上に胡蝶がいた。 着物は半ば脱がされて薄く貧弱な胸と素肌が露出している。 しどけなく寝乱れた胡蝶の上に尻をむき出してのしかかっているのは塞翁。 胡蝶を組み敷いた塞翁は、愛憎せめぎあう目で呟く。 「尻を上げろ、腰を振れ、もっともっと啼け。しこたま子種を注いでやる」 塞翁が狂ったように腰を打ちつけるごと体が撓う。 淫猥にのたうち絡み合うふたつの体。 「表に出したのは失敗だったな、ちょっと目をはなした隙に男をくわえこむ。手の早さは母親譲りか」 蜜壷にさしこまれた肉棒がぐちゃりと音をたてる。 「ばれてないと思ったか。はは、この屋敷で起きる事を俺が知らないと思ったか!俺の元には色んな情報が集まる、使用人はみな俺の味方だ、俺に気に入られる為に大なり小なりご注進する。橋の上で誰と逢瀬してた?新しく雇った下男と?名前はたしか秀圭……」 胡蝶がびくんとする。 甘美な締めつけに塞翁が毒々しく嘲笑う。 「淫売が。恥を知れ。何の為に生かしてやってると思ってる、俺を悦ばせるためだろう」 「あっ、ひあ、ひっひっひっあ!」 こめかみを一筋涙が伝う。 「いいかよく聞け胡蝶、お前の存在価値は俺を悦ばせることに尽きる。他の男に目を向けるな、外に出たいなんて死んでも考えるな。折檻は嫌いだろう?言う事を聞けば優しくしてやる、気持ちよくしてやる。友達が欲しいというなら同じ年頃の娘を差し向けてやる、だからそれで我慢しろ。秀圭とはなにして遊んだ?小さな口でしゃぶってやったか、頬張ってやったか、腹の上にのってやったか」 塞翁の手がむき出しのふくらはぎをなでさすり、律動に乗じて腰を抉りこむ。 「俺にやるように、土踏まずで挟んですり鉢のようにこすってやったか」 今すぐ殴りこんで塞翁を引き剥がしたい。 胡蝶を救いたい。 が、動かない。 忌まわしい言葉ひとつひとつに呪縛され、淫らに喘ぐ胡蝶の姿態から目をはなせず立ち尽くす。 ぐちゃぐちゃと卑猥な水音が立つ。肝心の結合部は着物の裾に隠され見えない。 嗚咽する胡蝶を無慈悲に責め立て、憎しみ煮えたぎる形相で囁く。 「お前の足は俺の魔羅にちょうどいい、ぴったり合うよう時間をかけ調整したんだから当たり前だ。他の男に乗り換えるなよ」 これがあの塞翁か。 これがあの胡蝶か。 今見ているものははたして現実か。 嬲られ辱められどうして抵抗しない、どうして塞翁のいうなりなのだ。 全身の血が沸き立ち、塞翁を殴り倒そうと戸を開け放ちかけ すっ、と手が伸びる。 胡蝶がしなやかに手をさしのべ、自分を犯す男の首ったまにかじりつく。 「あっ、ああっ、あ―………」 快感に濁った虚ろな瞳、白痴の表情。 弛緩しきった口から涎が糸引く。細腰が上擦る。もっともっとと交接をねだり、夢中で局部にすりつける。 抱き合うふたりを目の当たりにし、逃げるように閨をあとにする。 懐から靴がおちたのにも気付かない。 右も左も区別がつかず、離れから飛び出すなりふらついて、十歩も行かずに崩れてしまう。 「どうして………」 胡蝶は塞翁の愛人だったのか。 塞翁は夜毎離れを訪れ足の不自由な胡蝶を抱いていたのか。 絶望に目がくらむ。 悲憤が血を沸かす。 「胡蝶は、あいつは塞翁さまの何だ。恋人なのか。じゃああの纏足はなんだ、愛してるなら何故酷いことをする、惚れた女を性玩具として扱える?塞翁さまは何を考えてらっしゃる、胡蝶は口がきけないのに……」 「仕方ないんじゃよ」 振り向けば老婆がいた。 うちひしがれた秀圭に対し、徒労じみた緩慢さで首を振る。 「蝶々を手に入れたくば纏足するしかないんじゃよ」 旦那さまには愛人がいた。 奥様とはもともと政略結婚で愛がなかった。いや、旦那さまなりに愛してはいたのじゃろう。問題は奥様のほうにあったのかもしれぬ。しかし夫婦仲のこと、一概にどちらが悪いとは言い切れん。奥様はさる由緒ある商家のご令嬢で、なにぶん気位の高い方じゃった。若い頃の旦那さまはさぞ窮屈な思いをしたろう。安らぎを求め愛人に走ったとしても責められぬ。 旦那さまは妾を寵愛し、風光明媚な庭に離れを建てそこに住まわせた。 さすがに屋敷に同居させるほど無神経じゃなかった。あるいは奥方の嫉妬を恐れたのか、今となっては真偽はわからん。お妾は若く美しく人だった。もともと旦那さまが借金のかたにお買いなさった娘だ。 先に子を産んだのは奥様じゃ。玉のような男の子じゃった。跡継ぎを産んだ奥様へといったん関心は移ったものの、やはり夫婦仲は上手くいかず、じきに旦那さまは離れに入り浸るようになった。 その頃からじゃ、奥様が心を病み始めたのは。 広い屋敷に赤子とふたり残され、気位の高さゆえ高慢な無関心を装って夫を見送るしかない奥様の心情は、考えるだにおいたわしい。 旦那さまは足繁く離れに通う。 奥様は旦那さまの帰りを待つ。 そんな日々が何年か過ぎた頃、妾の妊娠が発覚した。 産まれてくる子が男ならば家督を奪われるかもしれない。 なにせ旦那さまは妾にお熱、妾の子の方を可愛がる可能性は十分ある。 最悪、正妻の座さえも奪われ子供ともども追い出されてしまう。 被害妄想の虜となりはてた奥様は厨房の料理人に指図し、妾の食事に少量ずつ毒を混ぜた。 妾の子を下ろそうと企てたのじゃ。 母子ともども命を落としてくれれば正妻の座は安寧、旦那さまの寵愛を取り戻せると期待して。 さても運命は皮肉なものじゃ。 人を呪わば穴ふたつ。 奥様の企みに気づいた下男が厨房の料理人と通じ料理を取り替えた。 下男は妾に懸想し、意中の人を亡き者にせんとする奥様を憎んでいた。 毒を混ぜた食事をそうと知らず食べ続けたのは奥様の方。 やがて奥様は体調を崩し、床から起き上がれぬまで衰弱した。もう暗殺どころじゃあない。 人の口に戸は立てられぬ。 下男の企ては妾の知るところなった。 妾は悩んだ。彼女もまた自分に尽くしてくれる下男を憎からず思っていたのじゃろう。 父親ほど年の離れた旦那さまより、年頃の似た下男を慕わしく思うのは自然なならいじゃ。 ふたりは強い絆で結ばれていた。 なんて恐ろしい事をと妾は責めた。 下男は奥様を殺したのだ。 だが元をただせばそれも妾のためを思ってのこと。 妾は悩みに悩んだ末、下男の罪を赦し、手に手を取り合って出奔を図った。 ここにいればいずれ罪がばれる。二人は引き裂かれ、下男は処刑される。 身分差は堅固に絶対。 下男が奥方に毒を盛れば謀反の大罪として裁かれる。 下手人が判明する前にと逃避行した妾に、旦那様は追っ手をさしむけた。 共謀の容疑もさることながら姦通を疑って怒り狂ったのじゃ。 妾と下男は逃げた。 が、産み月の女とそれを気遣う男とでは遠くへ行けん。 妾と下男は裏山に逃げ込んだ。 下男は観念し切々と説いた。 あなたは人質として無理矢理連れてこられた、そうすれば旦那さまもきっと赦してくださる。 妾は首を縦に振らなかった。どこまでも下男と行くつもりだった。 やがて陣痛が襲った。追っ手はすぐそこまで迫っている。 産声が上がる。 木々の枝を薙ぎ払い現れた追っ手が発見したのはへその緒の付いた赤子。 妾と下男は首を吊って死んでいた。 かくして妾は下男と心中、奥様は病床から起き上がれなくなり屋敷には偽りの平穏が戻ったのじゃ…… 「妾が産み落とした子は離れで育てられた。ワシの役目は日に三度、お召し物と食事を運ぶこと」 「旦那さまが会いに来られた事は……」 「ワシが知る限り一度も。お嬢様はいないものとして扱われている。存在を知る使用人も皆口を閉ざす」 「どうしてだ、妾とはいえ自分の子だろう!妾の子といえば塞翁さまの腹違いの妹になるじゃないか、塞翁さまは腹違いの妹を離れに閉じ込め辱めてるのか、遠くへ行けぬよう悪趣味な纏足まで施して!」 老婆は押し黙る。 彼女を責めても仕方ないとわかっていながら言葉の洪水がとまらない。 それでは、胡蝶があまりに不憫じゃないか。 「そんな理不尽な話あってたまるか……!」 「行くな、つらくなるだけじゃ」 「見て見ぬふりなどできぬ!胡蝶は……お嬢様はなにも悪くない、親の罪を子が引き受ける謂れはない!塞翁様がなさってるのはただのやつあたりだ、何も知らない胡蝶に当たり散らしてるだけではないか!」 「仕方ないのじゃよ」 「仕方なくなどない!」 「二の舞になる気か」 諦念に充ち満ちた予言の声音にすっと血が冷える。 老婆がひたと秀圭を見据え、顔の皺ひとつひとつに歳月が培う辛苦を滲ませ、呟く。 「あの下男の二の舞になるか。妾を道づれに非業の死をとげた下男とおなじ轍を踏むか」 「俺は……」 「あいつも同じ事を言っとったよ。あの人が不憫だ、自由にしてやりたいと」 かつての悲劇を知る老婆はしげしげ秀圭を見つめ、そこに宿る面影に懐かしげに目を細める。 「お前はあいつによく似とるよ、秀圭」 胡蝶は妾の子。 李家の隠された第二子、塞翁の腹違いの妹。 生い立ち故に父に疎まれ、庭に隔離されて育った。一部の使用人以外その存在を知ることすらない。 それからも秀圭はひょっとしたら胡蝶がきてるかもと期待して橋に通うのをやめられなかった。 どんな顔をして会えばいい。情事を盗み見してしまった。 塞翁に抱かれ喘ぐ淫らな姿を、塞翁に抱きつき乱れる姿を見てしまった。 兄と妹で肉を繋げ情を通じるなどあってはならぬこと。 そのあってはならぬことが、ここでは行われている。 近親相姦。 離れを直接訪ねる勇気はどうしてもなく、遠くから仰ぐのが精一杯。 橋での再会を夢見て通うのが不器用な男の精一杯。 毎日毎日時間を見つけては橋を訪れ、欄干に凭れて胡蝶を待つ。 待ち人きたらず時間だけが残酷に過ぎていく。 知らないふりをするのが賢いとわかっている。内内の事情に首を突っ込み、せっかく得た職を失いたくない。 保身を求める利己欲に胡蝶を不憫に思う気持ちが勝る。 初めて橋の上で会ったとき、蝶の翅を無心にちぎって撒いていた娘の面影が幾度も瞼の裏に甦り、夜毎秀圭を悩ませる。 親に見捨てられ兄に虐げられる娘を、自分まで見捨てていいものか。 責任感、使命感、義務感。 そのどれとも近くどれとも違う感情に支配され、今日も秀圭は橋に通う。 そして、決定的な場面に出くわした。 「胡蝶……さま」 夢かと思った。 胡蝶がいた。出会った時の姿のままに欄干に腰掛け、どこか思い詰めた眼差しで水面をのぞきこんでいる。 今日は両方とも靴を履いている。 靴の爪先が水面にふれ、ちゃぷんと波紋を広げる。 元気になったのか。体はいいのか。 勝手に出歩いてるところを塞翁に見られて叱られないか。 様々な想いが錯綜し、声が喉に詰まって出てこない。 橋の欄干に腰掛けた胡蝶は絶句したきりの秀圭に気付かず、おもむろに身を乗り出し― 水柱と同時に水音が上がる。 「!!」 池に落ちた。 否、身を投げた? 体が傾ぐのをそのままに、まるで吸い込まれるように…… 「馬鹿、何を考えてるっ!!」 秀圭の行動は早い。 即座に上着を脱ぎ捨て池にとびこむ。 纏足では泳げない。 纏足では抗えない。 沈もうとした胡蝶の腕をつかみ、衣装と髪とが藻の如くまとわりつく体をしっかり抱え、池のほとりへと泳ぎ着く。 息をしてない。 死んだ?まさか。 肺活量一杯息を吸い、口移しで吹き込む。 人工呼吸と交互に力強く胸元を押し心臓に衝撃を与える、手のひらに違和感を感じるも振り払い蘇生に集中する。 「だから言っただろう、欄干に座るのは危ないからよせって!言うことを聞かない嬢やだ、池で溺れ死んだりしたらお前が殺した蝶々どもが笑うぞ、蝶々の祟りで死にたいのか!!」 何度もくちづけ息を吹き込み、胸を強く押して心臓をどやしつければ、瞼がぴくりと動く。 目を覚ます。 「―っ、がほげほがほっ」 体をふたつに折って苦悶する。激しく咳き込んで水を嘔吐する胡蝶に安堵の笑みを浮かべ、額の汗を拭う。 「手の焼けるお嬢様だ……」 待て。 何かがおかしい。 ぜいぜい間延びした喘鳴をもらす。濡れそぼった髪が肌にまとわりつくさまが色っぽい。 さっきの違和感はなんだ。無我夢中で胸を押した。十四・五の娘にしては平坦な…… 「お前は……」 どうして気付かなかったのか。 化粧と衣装にごまかされたか。 纏足は女性の風習だという先入観に騙されたか。 おそるおそる手をのばし、胡蝶が首に巻いた布に触れる。 水を吸ってぐっしょり濡れそぼったそれを掴み、力を込める。 かちゃん。 金属音をたて枷が外れる。 喉仏があった。 「男、だったのか」 布に鉄枷を裏打ちし、埋め込んだ突起で声帯を圧迫し、同時に喉仏を隠し。 長いこと布でしばられていた首には痛々しい痣ができていた。 塞翁との結合部は着物の裾に隠れ見えなかった。 普段は着物に隠されわからねど胸は平たく、実際に触れてみれば体全体が女性らしい丸みに欠けていた。 衝撃の事実に取り乱し、手にした布を握り締め頭を下げる。 ようやく胡蝶が、否、目の前の「少年」が自分より格上の存在だと思い出したのだ。 「―…………ご無礼をお許しください胡蝶さま」 「『僕』に様なんか付けるなよ、秀圭」 くすくす。 変声期を迎えた少年独特の掠れた声で囁き、恐縮する秀圭へと腕をさしのべ、首を抱き寄せる。 体格の違う秀圭に凭れ、首元に顔を埋め、抱きつく手に縋りつくような力をこめていく。 「お前が余計なことしなきゃ………ねる、はずだったのに」 すん、すん。 続きは涙声に紛れて消えた。 なにか勘違いしてないかい。 塞翁は僕の家来だ。 まったく鈍いね、お前は。僕がどうやってここまで来たと思ってたんだい?この足で遠出ができるとでも? よく見なよ。こんな足じゃまともに歩けやしない。ちょっと歩いただけで激痛が走る。いいこと教えてあげよう、僕を毎日この橋に運んできたのは誰か……もう予想はついてるんだろう?そう、塞翁だ。腹違いの兄上様だよ。 物心ついたころから離れに閉じ込められて育った。身のまわりの世話はばあやがやってくれる。外界との接触は殆どなかった。ほらご覧、ちょうどこの蝶たちみたいに……生まれてからずっと籠の中だったわけさ。 僕の話は聞いた?……そうか、お節介なばあやが教えちゃったか。 母上は売女だった。兄上からはそう聞かされている。父上を誑かして奥様に毒を盛って正妻の座を奪おうとした悪女だって。挙げ句に下男と手に手をとりあって駆け落ち、逃げ切れないと悲観して心中ときた。商家に醜聞は命取り。ましてやそんな女が末期に産み落とした穢れた子の存在なんて隠されて当たり前。間引かれず生かしてもらっただけ感謝しなきゃ。 母上は売女だった。だから母上の子も売女さ。血は争えない。僕は母上の淫乱な性質を受け継いでるんだって。だから悦んで腰を振る、兄上にいじめられて泣いて悦ぶ。兄上は僕を憎んでいる。そりゃそうだろう、僕は憎い妾の落とし子、自分の母親を殺そうとした女に生き写しの子。毒を盛られた後遺症で奥様は十数年間ずっと床に伏したまま、もう起き上がれぬほど衰弱しきってる。いつ召されてもおかしくない状態で。 僕に纏足が施されたのはみっつのころ。 纏足の作り方を知ってるか?幼児の柔らかい足に何重にもきつく布を巻き、寝る時もそのままにしておく。 施術は激痛を伴う。痛くて眠れない夜が何日も続いた。 たまりかねてはずそうとしたらひどく折檻され、ほどけないようさらに厳重に縛られた。 命じたのは兄上だ。 『これから女になるんだから纏足するのはあたりまえだろう』って。 どうして僕が女の姿をしてるのかって? どうして声を封じられていたのかって? 兄上の希望さ。 お会いした事ない父上の指示でもある。 李家に男児は二人いらない、家督争いの混乱を避けるためお前は女になれ、と。 僕は生まれたその瞬間から女として生きよと宿命づけられた。 理不尽を感じたか、だって?はは、残酷な質問だね。その頃は何もわからなかった。どうしてこんな痛い目にあうのか、酷いことをされるのか、ばあやに聞いてもさめざめ泣くばかりで何も教えちゃくれなかった。 ただぼんやりと、母上が悪いことをしたからだってのは飲み込めた。 僕は母上の代わりに罰せられてるんだって。 纏足の処置を受けてから数年後、兄上が離れにやってきた。 来た時から様子がおかしかった。 必死で逃げた。 だけど纏足では上手く走れず逃げ切れない。 やがて押し倒され、灼熱の痛みが襲った。 知識がなくて何をされてるかもわからなかった。 ただただ兄上の豹変が恐ろしくて、体を抉り貫く痛みに気が狂ったように泣き喚いた。 兄上は僕の中に母上の幻を見てるのか。 母上の面影を重ね復讐してるのか。 男の身でありながら女の着物を着せられ奉仕する日々。 夜は怖い兄上だけど昼は甘い。 僕がねだれば大抵の言うことは聞いてくれる。甘やかし放題さ。兄上の胸にしなだれかかって囁けば大抵の願いは叶えられた。綺麗な着物も靴も本も玩具も望めばすぐ与えられた。贅沢な暮らしだった。 散歩に行きたいとおねだりしたら兄上は渋った。事情を知らない使用人に見られるのがいやだったのだろう。 だけどじきに折れた。その代わり奉仕を命じられたけどね。ウブな秀圭にはとても言えないような……ね。 兄上は僕を抱いて橋の上に連れて行く。 時間になれば迎えに来る。 それが散歩。 自分で歩けない僕に許された唯一の。 一日のうちの限られた時間、ほんの一刻だけ橋の欄干に腰掛け日光浴をする。 外の空気を吸えるのはその間だけ、橋に腰掛け池を眺めている間だけ。 人形を虫干しする感覚に近かったんだと思う。 ねだってねだってやっとの事叶えられた外出の時間。 一日で一番待ち遠しい時間。 待ち焦がれた時がくるまでどんなにかそわそわしたか、自分で歩いて好きなところへ行ける秀圭にはわからないだろうね。 この通り、僕は足萎えだ。自力で歩くのは不可能だ。人の支えなしじゃ立つことさえできない。 誰かにおぶわれるか抱かれるかしなきゃ移動もできない不自由な身の上。 お前が拾った靴は兄上の都土産。僕を着飾るのが兄上の楽しみ。僕は兄上の着せ替え人形。 おかしいね、人の手を借りなきゃ出歩けない奴に靴なんて意味ないのにさ。 お前は面白いやつだね、秀圭。 うぶで真面目でからかい甲斐があった。僕の事をまるきり娘と思い込んで疑いやしない。 正直、不安もあった。 声変わりを迎えてから首枷の着用を義務付けられた。うっかりしゃべりでもしたら男だと見抜かれてしまう。 しゃべらない限りは安全だった。現に秀圭、お前は疑いもしなかった。僕の正体を見抜けずにいた。 馬鹿だね。 男なのに。 僕に女のまねをさせるのは兄上の自己満足、征服欲を満たすためのお遊び。 纏足とおなじさ。裾の長い着物をずるずるひきずっては遠くへ逃げられないだろうって。 兄上は狂ってる。 僕の体に溺れている。 あの人は……可哀想な人だ。歪んだ物しか愛せない。 歪んだ足、歪んだ形。 兄上が執着するのは常人が目を背けたがる歪んだものばかり。 兄上が賛美するこの足だってほら、こんなにも醜い。指は縮こまり骨格は歪み、ひとりじゃ立つことだってできやしない。 兄上は畸形しか愛せない。 僕の畸形は生まれつきじゃない。僕は兄上の最高傑作だ。 笑えばいいだろう、うぬぼれだって。 お前に見せてやりたいよ秀圭、兄上がどんな顔で僕の足の指ひとつひとつにくちづけるのか。 ひとつひとつを口に含んでうっとり陶酔するのか、恍惚とした顔で僕を 「やめろ」 長い回想を遮る。 蓮池に架かる橋の上、胡蝶は女の姿で水面に足をたらす。 「どうしたの、おっかない顔して」 「自虐は好かん」 「自虐じゃないよ、事実を言ったまでさ」 胡蝶が蓮池に身を投げた数日後、橋の上で邂逅を果たした二人の間に剣呑な空気がたちこめる。 「聞きたかったんだろう、僕と兄上の閨ごとを」 欄干に腰掛けた胡蝶がゆっくりと向き直る。 秀圭の膂力によって首枷が破壊され声を取り戻し、今では達者にしゃべれるようになった。 「口を開くと可愛げなくてがっかりしたかい?」 「口を閉ざしていた頃もそんなものはなかった。お高くとまったイヤな小娘だった」 胡蝶はまだ女物の服を着ている。ぬばたまの黒髪は丁寧に結い上げ簪を挿し、色っぽい鬢を見せる。 化粧は入念、女装は完璧。 ぎりぎりまで近付いても男とはわからない。しぐさもたおやかで女らしい。 「……俺にはわからん。お前も塞翁さまも旦那さまも頭がおかしいんじゃないか」 「どうして」 「男に女の服を着せ女として偽り育てるなど正気じゃない、ましてや自分の子を……塞翁さまに至っては自分の弟を」 「僕に言われたって困る、本人に直接言ってよ。……ああ、首が飛ぶのが怖くて言えないかな?所詮は下働きだもんね、上には絶対服従だ。僕が靴を投げればとってくるし兄上が土下座しろといえば地を舐める、それがお前の正体だ」 肩ひくつかせ笑いつつ、膝の上においた柳の籠のふたを開け、蝶を一羽つまみだす。 ぐったりした蝶に息を吹きかけ、遠い目をして続ける。 「なにも知らない馬鹿な使用人をからかうのは楽しかったよ。ちょっと流し目くれるだけでどぎまぎして、退屈しなかった」 「………性悪め」 「男って単純。見目のよさにころりと騙される。僕が綺麗なのは当たり前じゃないか、それしか価値がないんだから」 飛べない翅に価値があるとしたら、鑑賞に足る美しさだけ。 ならいっそ、そんな役立たずの翅は摘んでしまおう。 そうすれば諦めがつく。

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