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第2話

「いい退屈しのぎになったよ。お前ときたら馬鹿で単純で、僕が足を突き出したら文句を言いつつ靴を履かせてくれた。触り方が変にいやらしくないのも気に入った。お前は僕のお気に入りだった」 どうして過去形で語るのか。 どうしてさっきから一度も振り返らないのか。 「これからもここに来るだろう」 今日ここに来たときから様子がおかしかった。ぼんやりと池面を見詰めるばかりで秀圭と目を合わせようとしない。 「これからも会えるだろう?」 切迫した秀圭の問いには答えず、振袖をたぐって目の上に蝶をかざす。 「蝶の性別の見分け方を知ってる?」 「…………さあ」 「僕もわからない。こいつらはきっとオスでもメスでもない生き物なんだ」 長い睫毛が縁取る切れ長の目がスッと細まり、繊手を一閃。 「気持ち悪いね」 翅と胴体をばらばらに引き裂いて池に放り、冷たく吐き捨てる。 「やめろ、胡蝶」 「名前で呼ぶな。嫌いなんだ」 「蝶にあたるな」 柳の籠に手を入れ新たな犠牲を掴み出す。 翅をちぎろうとした手をとらえ叱責すれば、見開いた目に激情の火花が爆ぜる。 「命令するな下男風情が!」 秀圭めがけ柳で編んだ虫籠を投げつける。咄嗟の事でよけきれず、虫籠が頬を掠って切り裂く。 後方に落下した虫籠をあとじさった拍子に踏みつけ、ひしゃげたそこから一斉に蝶が飛び立つ。 「どうして僕に構う?僕はこの屋敷にいない子だ、いない子を相手にしたらお前の立場が悪くなる、わかったらさっさと行け、こんなとこでさぼってないで仕事にもどれ。それともご褒美がほしいのか、靴を拾ってやったお礼めあてか」 「そうだ、蝶の代わりに俺にあたれ。目の前の俺を見ろ、好きなだけ言いがかりをつけろ」 「言いがかりじゃない。僕が女じゃないってわかったろ、下心で近付いたならお生憎様だな、尽くすふりして接吻までして泣きっ面だ!僕が『お嬢様』じゃなくてがっかりしたろ、ははっ、お前が恋したお嬢様なんて本当はどこにもいなかったんだ!」 哄笑を上げる姿はあまりに痛々しく小さく。 虚勢を張ってるのが透けて見えて。 「犬じゃあるまいに毎回靴を咥えてきてよしよしして貰いたかったのか。わかっただろう秀圭、僕はお嬢様じゃない、れっきとした男だ、喉仏だって張ってきた、声変わりだってそろそろ終わる、背だって伸びてどんどん男になっていく!そうなったらきっと」 激情に髪振り乱し、華奢なこぶしで秀圭の胸を殴りつける。 「用済みだ………!」 大人になるのが怖い。 美しいだけがとりえの蝶からその価値さえも剥奪されたら、生かしておいて貰えない。 「胡蝶」 「よぶな」 「胡蝶」 「女の名前じゃないか」 「坊ず」 「ばかにしてるの?」 「わがままめ」 秀圭の胸元を握り、厚く逞しい胸板に顔をこすりつけ熱い息を吐く。 「蝶を食べれば成長が止まるかもとおもって、沢山捕まえた。燐粉の毒が体中に回って背が伸びなくなるって本で読んでそれで……でもダメだ、嘘だった。腹が立って蝶を殺した、たくさんたくさん殺した、そしたら気持ちがスッとした。どこにでも好きに飛んでいける翅があるくせに僕から逃れられないなんて」 「胡蝶」 だからいつもいつも翅をむしっていたのか。 無力で非力な自分と脆く儚い蝶を重ね、翅をちぎっていたのか。 「ひらひら目ざわりな蝶々に纏足してやったんだ………!」 かつて塞翁にされた事を仕返し傷心を慰めたのか。 蝶々の亡骸と一緒に外に恋い焦がれる自らの気持ちも沈めたのか。 「どこにでも好きなところに行けるくせにどうしてまとわりつく、僕を嘲笑ってるのか、こんなみっともない足みっともない格好、男でも女でもない僕をからかってるのか!だからばらばらにしてやったんだ、ざまあみろ、いい気味だ、沈んでしまえ永遠に!」 「蝶は沈まない。軽すぎて水に浮く。何度やっても浮き上がってしまう」 連続で胸を殴りつける手をそっと握り、燐粉にまみれた指を吸う。 「お前の心とおなじだ」 胡蝶は自由を求めてる。 生まれてから十四年幽閉されて育った少年に、外の世界を見せてやりたい。 衣擦れに紛れ消え入りそうな声音で呟く。 「……うらやましくなんか……」 「ないと言い切れるか」 「塞翁は僕の家来だ、なんでも言う事を聞いてくれる、欲しいものはなんでも与えてくれる、珍しい外国のお香だって鼈甲の櫛だって綺麗な着物だって」 「お前に纏足したのは?お前の体を夜毎奪うのは?」 「―っ、僕は……塞翁が、兄上がそう望むなら。だって仕方ないじゃないか、蝶のように蜜を吸って暮らせない、歩けない僕の代わりに身のまわりの世話をしてくれる人が必要だ……誰かに依存しなきゃ生きてけない役立たずなんだ、僕は」 自信と卑下の間を行き来、情緒不安定な胡蝶を強く強くかき抱く。 「世話なら俺がする」 胡蝶が愛しい。 初めて出会い、一目で心奪われた。 橋の欄干に座り無心に蝶の翅をちぎる姿に魅せられた。 「お前を外へ連れていく」 「秀圭………?」 秀圭の腕の中で胡蝶が目を見開く。 怪訝な表情。秀圭の正気を疑うような。 「塞翁さまなど知らん。お前が不憫でたまらない」 「同情してくれるの」 「最初はそうだった。同情だと思った。今は……よくわからん。わからんが、放っておいたら必ず後悔することだけはわかる」 守りたいという衝動が湧く。 恋より強く狂おしく、捻くれた足と捻くれた性格の少年を愛しく思う。 「ありのままのお前でいい、性を偽る事などない。塞翁さまに尽くす義務などない、親の罪を子が引き受けるのは間違ってる。歩けないなら俺がおぶう。お前をつれてどこまでも逃げる」 小さな顔を手挟み、戸惑う瞳をまっすぐに見据え、不器用に微笑む。 「もう二度と蝶をあやめなくていい。お前はただ蝶を見て笑っていればいい」 折から吹いた風が橋上の翅を舞い上げ、水面に運ぶ。 軽さのあまり浮いてしまう蝶の翅を一瞥、断言する。 「蝶々の水葬はこれで最後だ」 「『あれ』と随分仲良しだな、秀圭」 橋からの帰り道、塞翁に声をかけられ立ち止まる。 「……なんのことですか、塞翁さま」 「とぼけるな、あれといったら男でも女でもないあれに決まってる。今から迎えにいくところだ」 おそらくこれが地だろう。 貴公子然とした品行方正な態度はよそ行きの仮面。 下卑た笑みを浮かべ秀圭に歩み寄るや耳元で囁く。 「穴の具合はどうだ。もう試したか。足もいいぞ」 「……どうして胡蝶に纏足を?」 こぶしを握り低く問う。 こみ上げる怒りを辛うじて抑える秀圭を不躾に見つつ、塞翁は言い返す。 「あれは俺のものだからだ。勝手に逃げられたら腹が立つ」 「胡蝶さまはあなたの弟だ。人として恥ずかしくないんですか」 「あいつに惚れたか。男をたぶらかすのが上手いのは母親譲りか」 胡蝶とその母親に対する侮辱に激発、すまし顔に殴りかかる。 塞翁の背に隠れていた護衛がすかさず前に出、いきりたつ秀圭に拳を放つ。 鼻腔の奥に鉄錆びた臭気が絡みつく。 地面に尻餅つき鼻血を拭い、ぎらつく目で塞翁を睨みつける。 「お前がやってることはやつあたりだ、お前の母親に毒を盛ったのは胡蝶じゃない、復讐する相手がちがうだろう!」 「ああ、やつあたりだ。それがどうかしたか。俺だってわかってるよとっくに、だけどやめられないんだ、病気だって諦めてくれ」 「何……」 木の幹に凭れ呼吸を整える秀圭に接近、前髪を掴んで顔を起こし唾を吐く。 「胡蝶の母親は平民の妾の分際で、下男と共謀して母上に毒を盛った」 「……自業自得だ」 「吹き込んだのは葉明か?あいつは妾に肩入れしてたから平気で嘘をつく。麗蓮は婆さんの遠縁の娘……親父の妾にはからったのも婆さんだ」 衝撃の事実に驚愕、前髪をむしられる痛みも忘れ呆然と塞翁を見上げる。 塞翁はあらん限りの憎しみをこめ、秀圭の鼻先にまで顔を近づけ呪詛を吐く。 「黒幕は妾だ」 「嘘だ」 「信じる信じないは勝手だが、俺はあの女が下男に毒を渡すところをしかと見たぞ」 秀圭の前髪を一二度強く揺さぶり、飽きたように突き放す。 「首謀者は麗蓮、下男は実行犯。下男が罪を告白し、それに打たれた妾が駆け落ちに乗ったと婆さんは言ったか?はっ、でまかせだ。真相はな、侍女が箪笥の抽斗から毒を発見したんだ。それで全てバレたってわけさ。毒を隠し持っていたことがバレるや妾は逃亡、逃げ切れないと観念して裏山で首をくくった。おまけを産み落としてな」 胡蝶の母親は無実ではなかった。どころか、事件の黒幕だった。 「妾と下男ができてたのは有名な話だ。庭でちょくちょく会っていたからいやでも気付く。俺だって何度も乳繰り合いの現場にでくわした。旦那さまには内緒だと口止めの飴をくれたぞ、あの女は。毒が練りこんであったんじゃないかと後で肝を冷やしたが」 「今の話が本当でも母親のしたことと胡蝶は一切関係ない」 「正論だ」 秀圭の頑固さを見直し、塞翁はいっそ憐れみに似た視線を向ける。 「俺はともかく、どうして親父まで胡蝶を疎んじる?仮にも血を分けた息子なのに、家督争いの種になるなんて馬鹿げた理由で離れにとじこめて一度も会いに来ないなんて変じゃないか」 塞翁は皮肉っぽく笑い、手庇を作って橋のほうを仰ぎ見る。 「あいつは父上の種じゃない、俺の弟でもなんでもない赤の他人だ」 「……姦通のはての子だと疑ってらっしゃるのか?」 妾と下男が通じて出来た子だから愛情がないのか、離れにとじこめたまま放っておくのか。 自分の血が一滴も混じってない子がどうなろうが興味はないと、 「産み月の腹で下男と逃げたのがいい証拠だろう」 高らかに笑いつつ歩み去ろうとした塞翁が、行く手に舞う蝶を優雅に手で払い、ついでのごとく呟く。 「俺の縁談が決まった」 顔を上げる。 「半年後に婚儀を上げる。相手は都の官吏の娘だ」 「胡蝶は……」 「今までどおりに決まってるだろう」 「奥方と暮らしながら愛人を囲う二重生活か」 「妬んでいいぞ。悪いお前には一生縁のない話だからな」 「腹違いの弟に女のなりをさせ纏足し愛人として囲っていると知ったら奥方はどう思う」 「お前の首が飛ぶだけだ。まあ試してみればいい、卑しい下男の戯言と誠実な夫の釈明とどっちを信じるかな。屋敷の使用人は俺に絶対服従だ、父上が死んだら俺があとを継ぐ、職の安定と引き換えに秘密を守り続ける」 屋敷にいる限り胡蝶が救われる可能性など万に一つもない。永遠に塞翁の手の中だ。 塞翁の気紛れひとつで握り潰される運命。 身の内で怒りを圧し衝動が巻き起こる。 「………胡蝶をつれていく」 哄笑がやむ。塞翁が振り返る。視線がぶつかりあう。 「俺は胡蝶と逃げる」 「すっかりあいつの毒にやられたみたいだな」 「もう二度と手をふれさせない」 静かな緊張をはらんで対峙。 妥協を許さぬまなざしで塞翁を射すくめ、一言一句に譲らぬ力を込めて放つ。 「籠で愛でられる蝶でも翅を愛でられる蝶でもない、胡蝶は人だ」 「男でも女でもない気持ち悪い生き物だ。子供の頃は難なく騙せた、しかしこの先は考えものだ。声を封じたところでどんどん背は伸びて体格も男らしくなる、成長を止める劇薬を盛るか、いやいい事を考えたぞいっそ去勢してしまえ。あいつがどうかそれだけはと泣きじゃくるから赦してやったが後ろの孔だけあれば事たりるからな、ははっ!」 脳裏で閃光が爆ぜる。 「塞翁さま!」 護衛が止める隙も与えぬ迅速さで跳躍、渾身の力でもって殴りつける。塞翁に馬乗り胸ぐら掴みさらに拳をふるう。 「胡蝶は、お前を、それでも『兄上』とよんだんだぞ!」 どんなに酷いことをされても慕っているからこそ、 「胡蝶を抱いて何も感じなかったか、体の軽さに橋までつれていくとき胸を痛めなかったか、あいつの願いを聞いてやったのはなぜだ、本当に憎いならさっさと殺してしまえばいい、離れからださず一生死ぬまで閉じ込めて聞けばいい、だけどお前は胡蝶の願いを聞いてやった、わざわざ抱いて運んでやった!」 独占欲と嫉妬が結びつく。 塞翁の顔色が豹変、狼狽。 欺瞞で鎧った本心を暴き立てられ極限まで目を剥く塞翁の顔面に、狂ったように拳を叩きこむ。 「依存してるのはお前のほうだ、胡蝶なしでは生きられない腑抜けがでかい口を叩くな!!」 「痴れたか下男!」 「塞翁さまから離れろ!」 「早く石牢へ!!」 もつれ転がり乱闘を演じる、芝生の切れ端に塗れて殴り合う、騒ぎを聞きつけた使用人たちが秀圭を袋叩きにし取り押さえる。 力づくで引き剥がされ殴る蹴るの暴行を受け、自分よりさらに屈強な従僕によって後ろ手に捻じり上げられる。 塞翁が勢いよく折れた歯を吐く。その歯が額にあたって傷がつく。 「どうしたの、なんで秀圭が……塞翁さまに手をあげたって本当なの!?」 厨房からとんできた遥淋が口を手で覆い、その傍らに立つ葉明が一心に手を合わせ何かを念じる。 野次馬で賑わい始めたあたりを見回し、鼻血を懐紙で拭って腰を上げた塞翁が短く命じろ。 「謀反の大罪だ。役人に引き渡すまで牢にぶちこんでおけ」 体中の激痛と熱に苛まれ、野次馬のざわつきと塞翁の声を聞きながら、橋の上に置き忘れられた胡蝶のことだけを考えていた。 塞翁のむごい言葉のつぶてが橋で待つ胡蝶に届かないように、と。 石牢は冷たい。 低い天井からしずくが滴り落ちる。 正面には錆びついた鉄格子。密に詰まれた石の間からは一条の光も射さない。 打撲で腫れて熱を帯びた体には横臥した床の冷たさがいっそ心地いい。 不浄な闇に閉ざされ溶暗する視界。 一週間か、一ヶ月か……混濁した意識では時の経過も判然としない。 肋骨が数本折れているのだろう、寝返りを打つだけで臼で挽かれるような激痛が響く。 発熱の靄に包まれ浮沈する意識のまにまに愛しい面影を追憶する。 腫れ塞がった瞼の奥の瞳は濁り、視力は衰えつつある。 胡蝶と約束した。 外へつれていってやると。 お前を解き放ってやると。 『兄上がいくら拒んだっていつか大人になってしまう』 『そのうち首枷の寸法も合わなくなる。息の通り道を塞がれ死んでしまう』 ならはずせばいい。 枷をはずさないのはお前の意志か? 『お前になにがわかる。僕は、』 その「僕」だ。 お前の心は男だ。見かけはごまかしきれても心の形まで偽りきれない。 『僕は』 胡蝶が泣く。 『仕方ないじゃないか。「僕」が「僕」のままじゃ誰も好きでいてくれない、誰も好きになってくれない。蝶とおなじだ。醜い毛虫の姿じゃだれも好いてくれない、蝶を誉めそやす奴らも毛虫を忌み嫌う、翅をむしっちゃえば同じなのに』 『お前だって、秀圭』 違うと口で繰り返しても説得力がない。行動で示さなければ。 囚われの蝶を救うと誓った。 自らの魂に契った。 こんなところで時間を潰している暇はない。 日に二度、飯を運んでくる葉明から聞いた。 婚儀を終え次第胡蝶に去勢を行う。 完全に「女」に生まれ変わらせ、妾として待遇する気だ。 『旦那さまは耄碌してらっしゃる。いずれ李家は塞翁さまの天下になる』 『おいたわしやお嬢様……胡蝶坊ちゃま。ワシとは薄いとはいえ血の繋がりがある。あの子の母もよく知ってる。塞翁さまの言うとおり、ワシは少しだけ嘘を吐いた。だが後悔はしてない、現実が惨いならせめて悲恋の美談に仕立て語り継ごうとしたのじゃ。麗蓮と下男はもともと幼馴染、夫婦の契りを交わした仲。それを旦那さまが無理矢理……それを知ってるのは屋敷でワシだけ……他は誰も知らん。ワシと麗蓮と下男だけの秘密じゃった』 『麗蓮の抽斗から見つかったのは悪阻止めじゃ、下男が手ずから処方した……旦那さまはろくに調べもせず捨てなすった』 『どちらの子かはわからん。坊っちゃまは麗蓮に生き写しじゃ。だからこそおそろしゅうて、おいたわしゅうて……』 鉄格子に縋りさめざめ懺悔する葉明もまた、塞翁に加担した負い目に苦しんでいたのだろう。 地下に足音が響く。目を上げる。狭く急な石段を降りてきたのは葉明ではない…… 遥淋。 「………婆さんは?」 「体調を崩して寝込んでるわ。今日は私が代わりに」 「………心配だな」 「あのねえ、自分を心配したほうがいいわよ」 蝋燭の灯火が照らす顔は安心感を与える。つられて笑いかけ、頬の痛みで顔が引き攣る。 「ひどいわね。まだ腫れがひかないの」 「ああ」 「塞翁さまに手をあげたわけは教えてくれないの」 「………」 「だんまり?ホントー頑固ね、やんなっちゃう」 蝋燭を横におき、鉄格子の前に跪くや、懐から鍵を出して配膳用の小さい扉を開く。 「私ね、あんたのこと結構好きだったのよ。お婿にもらってもやってもいいかなってちょっと本気で思うくらい。こんなお転婆じゃ嫁の貰い手もないだろうって?顔に書いてあるわよ」 「……いや。お前はいい女だ」 遥淋が頬を赤らめる。 「……だ~いなし。そういうのは耳元で甘く囁くものよ。こんな臭くて汚い場所で言われたってちっともときめかないわ」 「そうか」 「女心がわかってないわね」 「そうだな」 「唐変木」 「いじめないでくれ」 「どうして塞翁さまに殴りかかったの」 急に真面目な顔つきになる。 「朴念仁、唐変木、奥手でおせっかい。曲がった事が大嫌いなくそ真面目な働き者、女の細腕じゃこたえるだろうって水汲みを手伝ってくれたあんたが理由もなく若様に殴りかかったりする?ないわ、絶対。何を隠してるの、秀圭」 「………」 「申し開きもせずだんまり?お役人に引き渡されていいの?私はいや、あんたがいなくなっちゃったらだれが水桶もってくれるの、すっごく重たいんだから、あれ」 気丈に説得しつつ鉄格子に縋りつく。鉄格子を掴む手が白く強張る。執拗な詮索は下世話な好奇心の発露じゃない、主人に反逆した秀圭の身を案じての事。 秀圭の処遇を憂い、無理に笑おうとして失敗し、泣き笑いに似て悲痛な顔で問う。 「秀圭……なにを考えてるの?」 目を瞑る。 瞼の裏の闇に結ぶ面影、水面の波紋。 「………水葬の、蝶」 「水葬の蝶?」 鸚鵡返しに繰り返す遥淋に、無残に腫れた顔で弱弱しく微笑みかける。 鉄格子の隙間から手を伸ばし、遥淋の手を掴む。 「人の身に憧れる蝶々を知ってる……」 「秀圭」 細い手首に指が食いこむ。 遥淋が痛みに顔を顰める。 「姿形に心惹かれた。次に魂に惚れた。あいつは笑うんだ、俺の口に蝶々を突っ込んでおかしそうにけたけたと。自分の名に並べて俺の名を書いた、俺といる間はずっとずっとしあわせそうだった、満ち足りた表情をしていた。うぬぼれでもいい、俺もしあわせだった。自由を恋い慕うなら俺がそれを叶えてやる、どこへでも好きに出歩けるよう何度だって靴をとどけてやる、俺があいつの足になる」 愛してる。 愛してる。 もう泣かなくていい、怖がらなくていい、自分を責めなくていい。 お前には俺が居る。 ずっとそばにいてやる。 お前をつれてどこへだって 「蝶々に、纏足などいらない」 どこまでも逃げてやる。 「頼みがある」 ずるずる這いずって鉄格子ににじり寄り、脂でぎとつく前髪のすだれごしに、強い信念やどす双眸で遥淋を見詰める。 胡蝶を守りぬく。 それが俺の生き甲斐だ。 月が中天に昇る夜、塞翁は腹心の護衛をひとり連れ離れを訪れた。 祝言まで数ヶ月。相手は高級官吏の娘。 気位ばかりが高い醜女だったが、かえってその方が都合がいい。塞翁にしたところで相手の家柄にしか興味はないのだ。 婚約者は塞翁に惚れこんでいる。相手の実家は代々宮廷に大臣を輩出してる文官の名門で、塞翁には渡りに船の縁談だった。 「ここで待て。終わったら呼ぶ」 「御意」 護衛を待たせ閨房へ向かう。 『依存してるのはお前のほうだ、胡蝶なしでは生きられない腑抜けがでかい口を叩くな!!』 秀圭の絶叫が耳にこびりついて離れない。 苦々しげに顔が歪む。 歩みが憤然と早くなる。 あいつになにがわかる。 誰が胡蝶を育てたと思ってる。 親父の種かもわからない妾の子を離れに匿って育てたのは俺だ。 本当なら山に産み捨てられ野たれ死ぬはずだった。 父は不義の子と決めつけ胡蝶を憎んだ。 母は十数年ずっと寝たきり、辛うじて息をするだけのボロ人形と化した。 母は塞翁を溺愛した。 その母が倒れたとき、塞翁は妾を憎んだ。 父を奪っておきながら母まで奪うのか。 妾が継母になるなどごめんだ。穢れた血を入れたら家の品格が落ちる。 下男と逐電した妾の抽斗から薬の包みが見つかった時、慌てふためく侍女の袖の袂からそれを掠め取り、山狩りの準備をし集まった父と使用人の前で舐めてもがき苦しむ芝居をした。 大人たちはころりと騙された。 葉明ただ一人が違うそれは悪阻止めだと叫び続けたが、身内の訴えに耳を貸すものはいなかった。 「当然の報いだ」 後悔は、ない。 罪悪感などとうに蹴散らした。 母は幼い塞翁を膝にのせ日々恨み言を吹き込んだ。 可哀想に塞翁、あの女さえいなければ父上はもどってくるのに、お前と遊んでくださるのに…… 呪詛は魂を蝕む毒と化し根づき、母が倒れるとともに全身の毛穴から瘴気となって吹き出した。 妾の落とし子など憎んでも憎み足りない。 腹違いの弟だろうがそうでなかろうが、 「胡蝶と名づけたのは俺だ。お前は俺のものだ。誰にも渡さない」 胡蝶は美しく育った。 塞翁の初恋は麗蓮だった。 胡蝶の中に生きる初恋の人の面影が、妄執の正体か。 下男との逢瀬を見た塞翁を手招き、旦那さまには内緒よと飴玉をくれた女に、子供心に淡い憧憬を抱いた。 「あいつは取り澄ましたうわべしか見てない、俺はお前のすべてを知ってる、お前の中がどんなに熱いか知り尽くしてる。名付け親は俺だ、女の名を与え女として育てた、そうすれば出て行かないだろう、ずっと一緒にいてくれるだろう……」 胡蝶は麗蓮の身代わりか。 それとも俺は、胡蝶がもつ毒にやられてしまったのか。 閨房に入る。 寝台の上に背を向け粛と座す胡蝶。 貞淑な花嫁の如く繻子の面紗をたらし俯く。 「面白い趣向だな。祝言の真似事か」 自分の声がひどく優しくなるのがわかる。 「祝言を上げると聞いてやっかんでるのか」 猫なで声で囁く。 「お前が望むなら二人きりで祝言を上げよう。妻になど興味はない、お前さえいればそれでいい。お前の蜜壷は甘い。いくら子種を注いでも孕まぬ体、永遠の処女だ。母親とは違う。言う事を聞けば可愛がってやる、綺麗な着物も靴も好きなだけ与えてやる、だから」 寝台がぎしりと軋む。片膝乗り上げて胡蝶を抱く。 「……蜜のように甘いその毒を飲ませてくれ……」 胡蝶の体が強張る。 自分の挙動ひとつひとつに怯えてしまう臆病さをたまらなく愛しく思う。 肩を掴む手に力をこめ、ゆっくりと振り向かせ、両手の甲で繻子の面紗を持ち上げる。 「お生憎様、若様」 現れたのは似ても似つかぬ顔。 日焼けした肌にあばたが目立つ、勝気そうな娘の顔。 愕然とする塞翁に凛と背筋を伸ばして向き直り、繻子を取り払った遥淋は笑う。 「坊ちゃんはもっといい男を見つけたみたいよ」 足裏で小枝が乾いた音たてへし折れる。 鬱蒼と木々が茂る道なき道を歩く。背中から伝うぬくもりと重みが腰に鞭打つ。遠くから喧騒が届く。 「来たか」 苔が生えた岩は滑りやすく、迂闊に足を乗せようものなら転んでしまう。 一寸先もみえぬ山を月明かりだけを頼りに進む。 「秀圭……」 「心配するな」 背にしがみつく胡蝶が不安げに呟く。その足はだらりと宙に垂れ、秀圭の歩みにあわせて揺れる。 遥淋の背格好は胡蝶によく似ていた。 夜を待って牢抜けし、寝所で塞翁を迎える支度をしていた胡蝶を遥淋を替え玉に仕立てかどわかした。 詮議に問われるのも省みず手引きしてくれた遥淋に感謝の念を抱く。 「山を越えれば違う里だ、さらにその先は違う州だ。そこまで逃げれば追ってこない」 裏山に逃げ込んでからこっち、無理が祟って胸がひどく疼く。 折れた肋骨が訴える激痛にもまして、肩に縋り付く手の震えと心細げな声とが身にこたえる。 「おろして。自分で歩く」 「嬢やは大人しくおぶわれてろ」 「嬢やじゃないってば」 「坊ずはわがまま言うな」 「そっちこそやせ我慢しちゃって、怪我してるじゃないか。汗だってすごいよ」 「俺は平気だ。水桶を運びなれてる」 「僕は水桶より重い」 「あまり変わらん」 「嘘」 「重いのは着物だ。身は少ししかない」 言い争いながら奥へ奥へと歩む。天に輝く月の光も木々に遮られ届かず、墨汁を垂れ流したような闇が茫漠と広がる。 全身が痛い。しかし歩みは止めない。立ち止まればそこで命運が尽きる。 「秀圭………」 首のうしろに熱い涙がしみる。 「ごめん」 「俺はお前の足だ。足に謝る奴があるか」 「もう十分だよ、帰ろう。帰って謝ろう。一緒に謝るから、兄上に」 「謝る相手がちがうだろう」 ずりおちた体を背負いなおす。腕にのしかかる重みに安心感を覚える。 怪我と疲労とで荒げた息のはざまから途切れ途切れに言葉を紡ぐ。 「謝るならお前が殺した蝶に。あとはだれにも謝るな。お前が生まれてきたことも、生きてることも、なにひとつ罪じゃない」 「秀圭と出あったことも?」 「ああ」 「恋したことも?」 「無論」 「恋しあったことも?」 「あたりまえだ」 一歩一歩、足を運ぶごとに体力が削り取られていく。地に足が沈むような脱力感。 胡蝶は声を立てず啜り泣く。 すん、すん。忍び笑いに似た嗚咽。秀圭の首ったまにかじりつき、消え入りそうな声で呟く。 「ありがとう」 そして、飛ぶ。 「!!胡蝶っ、」 秀圭の首から手を放し、下生えに覆われた急斜面に身を投げる。木々の枝がへし折れる音が連続、泥と朽ち葉にまみれた四肢と黒髪が旋回。すかさず胡蝶を追って斜面を滑りおりる。 摩擦で足裏が擦り剥ける痛みを無視、気絶した胡蝶の頬を叩いて目を覚まさせる。 虚ろな目の焦点が定まり、秀圭の顔をとらえるなり絶望と希望が綯い交ぜとなった泣き笑いを浮かべる。 「馬鹿っ、ひらりと跳ぶやつがあるか!」 「僕、軽いから。ひょっとしたら飛べるんじゃないかと思って。この着物もさ、蝶みたいでしょ」 鋭利な枝にひっかけた着物はところどころが裂けて泥だらけの素肌が覗く。転げ落ちる途中に脱げたか、片方素足だ。 「………もういい、秀圭」 「よくない」 「いいんだ」 「よくない」 「お前は一人で逃げろ。僕はここにいる。運がよければ追っ手が見つけてくれる」 「外の世界を見たくないのか」 「………い………」 「はっきりしろ!」 大喝を放つ秀圭の胸ぐらをぐっと掴み、喉も張り裂けよと全霊の絶叫を絞る。 「お前をみちづれにしてまで見たくない!!」 涙をためたその瞳を、おどろに乱れた黒髪が縁取るその顔を見た瞬間、理性が蒸発。 肩を掴み押し倒し唇を奪う。 出会ったときとはまるで違う。着物は汚れきり髪はざんばら、涙で化粧は剥げ落ちて酷い有り様だ。 「―おまっ、え、こそ馬鹿だ、僕の戯言を真に受けて仕事を棒に振った、僕はお前を利用したんだぞ、母上と同じだ、お前を誑かして足の代わりにした、僕をさらって逃げてくれるならだれだってよかったんだ!」 「そんなのはとっくにわかってた!!」 どうしたことだろう。 涙と鼻水でぐちゃぐちゃの醜い顔を、橋の上で蝶をちぎっていた人形めいた無表情より、ずっとずっと愛しく感じる。 「何故靴を落とした?気付いてもらったからだろう?助けを求めていたんだろう」 「僕は」 「靴を落としたのはわざとか。塞翁におぶわれながら庭に靴を落とした、誰かに拾われるのを期待して、見つけてくれると願って」 おそらく胡蝶にできる精一杯の反抗だったのだろう。 助けを求める唯一の手段だったのだろう。 「庭におちた靴なんて誰も気にしない、面倒だから放っておく、そうしない馬鹿が一人だけいた……」 靴をぶらさげ庭中歩き回って、蓮池に架かる橋の上に胡蝶を見つけた。 「だれも来なかったら諦めるつもりだったのに……!」 だれか気付いて。 僕のところへやってきて。 見つけだして。 屋敷でただ一人纏足を施された人物のもとへと靴は拾いぬしを誘い、そうして秀圭と胡蝶は出会った。 「いちかばちかの賭けだった、運命なんて糞くらえだ、そんなもの絶対信じない、僕が生まれ持った性別さえ否定し続けた運命なんて信じるもんか!そうさ、兄上の隙を見計らってこっそり靴を落とした、事情を知らない使用人が拾ってやってくれば兄上の悪事を訴え出れる、僕を助け出してと乞える!兄上の読みは当たってる、僕を助けだしてくれるならお礼に抱かしてやったってよかったんだ!」 『お前は僕のお気に入りだった』 『触り方が変にいやらしくないのも気に入った』 切れ長の目尻からあふれた涙がこめかみを滴り落ちる。 「みなが見るのは蝶々の翅ばかり。醜い毛虫には目を背ける」 翅をむしられた蝶に価値はあるのか。 本質が醜い毛虫でも好いてくれるのか。 「……お前が…こんな足に、すごく優しくさわるから……ホントは気持ち悪いはずのものが、キレイに清められた気がして……こんな足の僕でも生きてていいんだって……」 脆く壊れやすい蝶の翅にふれるように、なえた足にふれた。 「キレイな翅みたいに」 兄上以外にこの足にふれてくれる人なんていないと思った。 翅じゃない部分を慈しみ愛してくれるひとなんて、いないと諦めていた。 「この足は僕だ。兄上に虐げられ、萎えて枯れて縮かんだ僕そのものだ」 胡蝶の言葉に応じ、秀圭は体の位置をずらし足にくちづける。 足の指ひとつひとつに唇の火照りが移り、胡蝶がじれったげに唇を噛む。 「どうして池に身を投げた」 「―っ、靴が……閨房の前におちてた……お前に見られたって、兄上との、見られたって、それで」 足を捧げもつ。 親指を口に含む。 一本一本丹念に吸い上げる。 土踏まずの反りをなで、踵の丸みを包み、指の股に舌を潜らせ絡め泥を啜る。 「お前に軽蔑されたら生きていけない……!」 足の指がひくつく。 親指がぴんと張り詰め撓い、鉤字の手指が土をひっかく。 足への刺激だけで達してしまいそうな胡蝶の前で下穿きをずらし、勃起した男根を露出する。 「来て、秀圭。中に入れて。刺し貫いて」 胡蝶が男根に手を添え自ら体内へと導く。潤う媚肉が収縮し、男根をきつく咥えこむ。 ひとつになりたい情熱に突き動かされ腰を使う、唇を貪り合う、燐粉で黄色く変色した手がしっとり汗ばむ肌を這うごと指形がつく、肉壷に抜き差し陰茎が卑猥な水音をたてる、はしたなく上がる足を掴んで吊るす。 「愛してる、胡蝶」 「僕も」 胡蝶が笑う。 秀圭も笑う。 追っ手がかざす松明の火影が燎原の如く麓一帯を覆い、想いを遂げた秀圭と胡蝶は強く手を絡め合い、地のはてまでも添い遂げようと誓った。 それからどうなったかって? そりゃあ、ね。話すだけ野暮ってもんよ。……どうしても聞きたいって?しかたないわねえ、じゃあ話してあげるわ。 翌日になってもふたりは見つからなかった。 山狩りの先頭に立つのは若様。さすがに憔悴してたっけ。 目なんかぎらぎら血走っちゃって、ああいうのを狂相っていうのかしらね。 必死の捜索にも関わらず二人の行方は杳として知れなかった。 そこに第一報が入った。 女物の靴が池に浮かんでるって。 山狩りに駆りだされた使用人の中にはお嬢様の存在自体初耳のものも大勢いたわ。そりゃそうよね、ずっと隠して育てられてたんだもの。いきなりこれこれこういう背格好の娘が下男と逃げてますなんて言われても困っちゃうわ。 若様は血相変えてとびだしていった。 その池は山奥にあってね、すごく綺麗な池だった。そしてたぶん、すごく深かった。 睡蓮が咲く池の真ん中あたりにぽつんと靴が浮かんでいた。金糸で蝶々を刺繍した華奢な靴。 それを見た途端、若様の顔色が変わった。虚脱した、っていえばいいのかしら。すとんと膝をついたかと思いきや、獣みたいに魂切る咆哮をあげてね。使用人たちが止めるのも振り切って池の中へ入っていった。もちろん慌てて取り押さえたわ、後追いでもされたら困るもの。 胡蝶、胡蝶、胡蝶ってお嬢様の名前を呼びながら。 どこを見てるかわからない虚ろな目で、うわ言にしか聞こえなかったけど。 池をあさっても亡骸は見つからなかった。まあ、見つからなくてよかったかもね。 醜く膨れ上がった溺死体なんか見ちゃったら首をくくりかねないわ、あの取り乱しようじゃあね。 秀圭と胡蝶は死んだ。心中よ。逃げ切れないと思い余って、山奥の美しい蓮池に身を投じたの。 私もあとで知ったけど、くしくもその池は胡蝶様の母上と下男が首を吊った場所のすぐ近くだった。 運命って残酷ねえ。 でもね、最期の瞬間までふたりは幸せだったと思うわ。約束どおり添い遂げたんだもの。秀圭はけっして胡蝶様をひとりで死なせなかったでしょうし、胡蝶様はけっして秀圭の手を離さなかった、そんな気がするの。 蝶々の水葬。 軽い翅は浮き上がり、結んだ絆は深く沈む。 ね。ふたりとも浮き上がってこなかったわけもわかるでしょ。 それからの事を少し話しましょうか。 胡蝶さまに先立たれ、若様は気がふれてしまった。 ふたりを追い詰めた罪悪感に苛まれ……なんて殊勝なもんじゃないわ。 身勝手なひとだから、ただただ最愛の蝶々をなくした喪失感に耐えがたかったのよ。 秀圭の言葉は正しかった。依存していたのは若様のほうだった。 跡取りとしての重責や周囲の期待に押し潰されかけた若様を支えていたのは胡蝶様だったのね、皮肉にも。 鬱憤の捌け口にしていた胡蝶様が亡くなって、若様の精神の均衡は崩れた。 縁談は破談。 奥様はぽっくり逝き、旦那さまが後を追うようにして他界して、李家もすっかり廃れちゃったわ。 今じゃ使用人は往時の半分。ご自慢の庭は蝶々の遊び場よ。 なあに、葉明婆さん。若様がお呼び?はいはい、今行くわ、ちょっと待っててね。 ……ほら、声が聞こえるでしょ。胡蝶、胡蝶って。 私を呼んでるの。お嬢様と間違えてね。 背格好が似てるからかしら。たしかに一度化けたけどね、容貌は天と地の差だってのに……せいぜい睡蓮と胡桃くらいだって?いやあね、おだてたってなにもでないわよ。というか変なたとえね。 若様がああなっちゃった原因の一部は私にある。 若様が正気にもどるまで……いいえ、若様が死ぬまでお嬢様になりきるつもり。纏足は、ね、いまさら無理だけど。 玉の輿の野望が叶っちゃったわ。 冗談だったのにねえ。人生ってどこでどう転ぶかわからないからふしぎよね。 はいはい、いま行きますよ。胡蝶はここにおりますよ。 ところで行商人さん、何を見せてくれるの? あら、素敵な着物ね!特にこの蝶の刺繍が見事。私にはちょっと派手だけど…… ………なんだか見覚えある柄ね。どこで手に入れたの? そう、隣の州で…… …………思い出した。木の枝にひっかかってた着物の切れ端とよく似てる…… 誰から買ったの? ……そう、若い男。ぜひ買ってくれって頼まれたの? 十四、五の裸足の少年をおぶってた? でもね、まさかそんな……特徴を聞かせてくれる?……ああ、じゃあちがうわ。 胡蝶様の髪は長かった。その子はざっくり短かった。小汚い身なりで靴も履いてないなんて。 どっからどう見ても少年だった? 可愛い顔はしてたけど、ちゃんと喉仏はあった? 男の特徴は……堅物?朴念仁?年の離れた兄弟に見えたって?あはは! すこぶる仲がよさそうだった。少年が耳元でなにか囁けば男が笑う。お互い頬をくっつけあってくすくす笑った。 どうして靴を履いてないか聞いたの? で、答えは? 『もう必要ないですから』 『その靴、きゅうくつなんだ』 ………ふうん。変わった兄弟ね。 着物?いらないわ。ほら、よく見て、ここんとこ破けてるでしょ?繕ったら着れるでしょうけどねえ……傷を抉りたくないもの。 じゃあね、行商人さん。若様が待ってらっしゃるからそろそろ行かなくちゃ。 え?あはは、人違いよ!「お嬢様」は死んだの。 最後に行商人が見た光景を話そう。 別れ際、行商人に一礼して踵を返そうとした男の肩を不満顔の少年が叩く。 男は憮然と首を振るも、少年はなおも食い下がり、平手でやや加減して胸を叩く。 男が根負けして折れる。 男の背中から降り立つやよろけ、慌てて男がさしだした手を払い、ねじれた足でひょこつきながら歩き出す。 寄り添い歩く男と少年の手が自然に絡み合い、はにかみがちな微笑みを交わしあって帰途につくその後を、つがいの蝶々がひらひら追いかけていく。 いま漸く蝶々は自分の翅で飛び始めた。

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