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雪のような人 1
第一印象は「きれいなひと」だった。
玄関先で「角巻 健人 」と名乗ったその人は今、俺の右隣にいる。
今日から俺の家庭教師をすることになった彼は、俺の定期テストの答案を見つめていた。
彼の手作りだという英単語テストを与えられたものの、無機質なアルファベットの羅列にしか見えないやつの意味など分かるはずがない。カッコを一つも埋めることができない俺は、時間を持て余している。どうせ暇だから、彼の横顔を観察することにした。
やっぱり第一印象は間違っていなかった、と思う。長い前髪を耳にかけ、手に持った紙を俯き加減で見つめる彼は、玄関先で会った時よりも顔が見えるようになったぶん、余計に美しく感じられた。眼鏡の奥の目は、下を向いているために、まぶたが降りてまつ毛の長さが際立っているし、眉間から鼻先にかけての筋は真っ直ぐに伸びている。毛穴など存在していないのではと思うほどつるりとした肌に、真一文字に結ばれた口まで、なぜだか色気を感じられる。
と、その口が動いた。
「なんですか。僕の顔を見ても問題は書いてませんよ」
「先生、きれいだなぁと思って」
視線に気づかれていた恥ずかしさで、俺はとっさに口走ってしまった。完全に間違えたと思ったが、もう遅い。彼の整った顔が、こちらに向けられる。すっ、と彼の目が細められた。
「まさか、君の性愛の対象は男ですか?」
「はっ!?」
真剣な顔つきで何を言われるかと思ったら、予想の斜め上をいかれ、俺は絶句した。
「だとしたら困ります。田丸 さん――君のお母さんは、僕が男で、君も男だから、このような『密室で二人きり』の状況でも、安心して君を任せてくれているのだと思いますが、僕も君の恋愛対象に入ってしまうとなると、前提条件が崩れてしまいますね?」
彼の表情には茶化すような気配がない。俺をからかっているのではなく、本気で心配しているようだ。
――「きれいなひと」じゃなくて「変なひと」だったかも。
「残念でした。俺は女の子が好きだよ」
同性に見とれてしまっていた自分に困惑し、冗談だったことにしたくて、笑顔を浮かべてみたものの、うまく笑えた自信がない。
「まったく残念じゃありません。むしろ安心しました。僕も恋愛対象は女性ですし、男性を好きになったこともありません。それに、もう恋はしないと決めているので、間違いが起こることもないでしょう。さっさと問題を解いてくださいね。僕もいただいたお給料分は働かないと」
彼は淡々と言った。「恋はしないと決めている」に引っかかりを覚えたが、目を伏せ、再び俺の答案用紙とにらめっこを始めた彼に、問いかけることはできなかった。体全体でこれ以上踏み込まないでくれ、と主張しているように見えて、「やっぱり彼と仲良くなれる気がしない」と思った。信頼関係を築けるかも分からない。この先生と三ヶ月も一緒にいられるだろうかと不安になった。
*
時は遡り、一時間前。
「角巻 健人 と申します。よろしくお願いします」
玄関先で頭を下げた彼の髪の毛はさらさらで、動きに合わせて音がしそうだった。彼が顔を上げて、小指で前髪を横に流したとき、隠れていた顔があらわになった。思わず「あっ」という声が出かけたが、喉元で押し殺した。
鼻にかかるくらい長い前髪の奥には眼鏡があって、彼の目はほんの少ししか見えなかったけれど、それでも彼の顔が整っていることは分かった。
母さんから、「友達の甥御さんが家庭教師をしてくれるって」と聞かされていたが、思ったより若い人だったから驚いた。彼から目が離せないのは、多分そのせいだ。
一月下旬、水曜日の夕方。外で雪がちらついているのも相まって、「透き通る、雪のような人だ」と正気とは思えない言葉が浮かんできたのも、絶対にそのせいだ。
「あなたが健人くんね。三ヶ月間よろしくね」
母さんの目がこちらを向き、俺はまだ自分が一言も喋っていないことに気がつく。
「田丸 悠里 です。よろしく」
慌てて名乗ると、声が裏返った。
「はい。よろしくお願いします」
表情筋を動かさず、感情の読み取れない声で言った彼は、母さんに促されるがまま、靴を脱いで俺の家に足を踏み入れた。彼が通るスペースを開けるつもりで、俺は体をよじった。彼が俺の横を無表情ですり抜けていく。一瞬だけ肩が並んだ。ということは、身長は同じくらいか。高校二年生の俺は百七十三センチで、平均より高めだと自負しているだけに、少し悔しい。
俺がそんなことを考えているうちに、母さんが彼をリビングに案内してしまう。俺は二人の後ろ姿を小走りで追いかけた。
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