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雪のような人 2
「美奈子 さんに相談してみてよかったわぁ。健人くん、引き受けてくれてありがとね」
母さんの声が普段よりワントーン高い。笑顔というよりも、筋肉が緩みまくったような母さんの顔を見れば、彼のことを一目で気に入ったことが分かる。
「いえ」
俺たちの向かい側に座っている彼は、短く応じると、母さんが差し出した湯飲みに手を伸ばした。
母さんは、俺の隣の椅子に腰掛けながら話を続ける。
「悠里ね、全然勉強ができないの。家で勉強してるのも見たことないし、心配で。三年生になるまでになんとかしてあげたい、と思ってたところだったのよ。ほら、高校二年生の三学期って大事でしょう?」
最後のは担任の先生の受け売りだと思った。入学式、終業式、始業式など、節目ごとに言われているから、逆に大事ではない時期はいつなのだろうかと思ってしまう。それに、言われなくたって、俺はどんな時も大事に生きてきたつもりだ。
俺がむっとしていることに、母さんは気づいていない。その目には彼しか映っていない。恋する乙女のように頬を赤らめて、嬉しそうにしている母さんを見るのは、なんだか面白くなかった。
「でも、調べてみたら塾も家庭教師も高いのね。夫を早くに亡くしてしまったから、あまりお金に余裕はないし、悠里が大学に行きたいのかも分からないし、迷ってたの。だから助かったわ。健人くんはA大の教育学部なんだって?」
「はい」
彼はそこでなぜだか俺の方をチラリと見てから、母さんに再び視線を戻した。
A大というのは、隣の県にある国立大学だ。俺たちが住んでいるのは雪の多い田舎だが、A大がある県は栄えていて、この辺の地方では一番規模が大きい大学だった。学年の順位を下から数えた方が早い俺からしてみれば、A大に通っているというだけで、雲の上の人みたいに感じられる。
「教師を目指しているんでしょ? 美奈子さんから聞いたわよ」
「はい、まあ。今のところは、ですけど」
「実家から通ってるの?」
と母さんが尋ねた。
A大はここから電車とバスで一時間半なので、通学圏内だ。実家から通っている人も多いらしい。全部母さんから聞いた情報だ。
「いえ。大学のそばのアパートを借りて、一人暮らしです。ただ、今の時期はテストやレポートが中心で、授業がほとんどないので、実家に帰ってきています。春休みが終わる三月までは実家におり、田丸さんの家にも通えそうでしたので、こちらのお仕事を引き受けさせていただこうと思ったのです」
足元の鞄から、彼がクリアファイルを取り出した。A4の用紙を抜き取ると、テーブルの真ん中に置いた。
「こちらの条件で問題ないでしょうか」
彼が長い指先を使って、紙をこちらに近づけてくる。次のようなことが箇条書きになっていた。
・一月から三月の三ヶ月間、週に二回(水・金)、十八時半からの一時間
・教科は数学と英語
・料金は三ヶ月で二万円
・連絡は叔母を通じて行う
「三ヶ月で二万円は、いくらなんでも安すぎない?」
母さんが恐縮したように言ったが、彼は真顔のまま、眼鏡を人差し指の第二関節で上げた。
「いえ、構いません。私も去年までは高校生だったはずなのですが、早いもので、受験や高校時代の勉強の記憶が薄れてきています。教育学部とはいえ、家庭教師のプロではありませんし、高校生相手に十分な指導ができるか分かりませんので、この価格の方がむしろありがたいのです」
「それはもちろん、こちらも安い方がありがたいけど……」
「では、決まりですね」
彼が少し口角を上げた。笑ったのだ、と理解した時にはもう、元の無表情に戻っていた。
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