135 / 135
(朝)パブロフの犬 2
「健人さん……?」
悠里は、突然黙ってしまった僕を訝しがっているようだった。しばらくしてから、衣擦れの音がして、かすかに笑う声が聞こえた。
「もしかして、健人さんも犬だった?」
「違います! これは名前を呼ばれたせいではなく、悠里がかわいすぎるからで――」
勃起していることは認めてしまっているじゃないか、と思ったが、もう遅い。後ろから肩をつかまれ、バランスを崩してそのまま倒れた。いつの間にか上体を起こしていた悠里の脚に、僕の頭が乗る。仰向けにさせられた僕は、まるでベッド同士をつなぐ橋のようだった。お尻がずるずると重力で下に引っ張られるのを、脚と腹筋でこらえる。
悠里がニヤリと笑った。眼鏡を取られた。悠里の顔が降りてくる。口づけされる。額、鼻先、口の端。ぺろり。犬が飼い主にするように、悠里が僕の唇を舐めた。
「健人さん。好き。健人さん、健人さん」
悠里からキスが落とされる。ズボンの上から下半身をまさぐるように、悠里の手が動いた。
「へへ、勃ってる」
悠里が嬉しそうに笑う。
「んんっ」
恥ずかしい声が出てしまう。体から力が抜け、床に落ちそうになって、慌てて悠里の手をつかんだ。
「だめです。朝食を食べ損ないます。バイキング、楽しみにしてたでしょう? 支度してください」
ベッドの上から手探りで眼鏡を見つけて、かけなおす。
「はあーい」
悠里がずいぶん不本意そうな声を出すので、目を見て言ってやった。
「夜になったら、たっぷりかわいがってあげますからね」
悠里が真っ赤な顔で固まった。その表情を見られたことに満足して、僕は体を起こして悠里のベッドに座り直した。
「冗談です。慣れないことをして疲れているでしょうから、今夜はゆっくり休んでください」
悠里の頭をひとなですると、嬉しそうに目を細めてくれる。
この世の全生物の中で一番かわいい、僕の恋人。愛しい愛しい、僕の悠里。
「シャワー浴びてきたらどうですか?」
「うん。そうする」
悠里がパジャマを体に巻きつけて、ベッドから降りた。
「きれいな体で美味しい朝食を食べにいきましょう。ねっ、悠里」
悠里が頭のてっぺんから足先までを赤く染めながら、僕の前を素通りしていった。
名前を呼ばれるだけで反応してしまうなんて、お互いどれだけウブなのだろうと思う。普通に名前を呼び合えるようになるまで、どれくらいの時間がかかるのだろうと考えると、笑えてくる。
「下着、忘れてますよ! 悠里!」
ビニール袋を掲げ、かさかさと鳴らしてみせるが、無視されてしまった。前屈みでバスルームに向かう恋人の背中を追いかけながら、悠里 を一生手放したくないと強く思った。
(「初夜 ―名前を呼んでよ―」了)
ともだちにシェアしよう!