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第4話

その街には名前がなかった。 大戦が始まる遥か前、既に大半の人間が忘れ去った名前をなにかの折に知ったスワローは、悪趣味な皮肉に笑ったものだ。 『デストロイたァえらくしゃれてんじゃねえか。叩き壊して燃やして破壊する、夢も希望も打ち砕く。俺たちあこぎな賞金稼ぎにゃぴったりだ』 正確にはデストロイじゃないが、かすってはいる。 大戦期、その街はご多分に漏れず原爆を落とされた。 生き残った人々は命からがら逃げ出し、半世紀も経って漸く人間が住める程度に放射能が薄まった頃合いにのこのこ戻ってきたが、そこで問題がおきた。 先住者がいたのだ。 大戦期に落とされた爆弾でできた巨大なクレーター。 すり鉢状に抉れた底と側面に張り付くようにあばら家を建て、過酷な環境に負けじと暮らしていたのはもちろんまともな人間じゃない。 故あって故郷を追われたもの、戦争帰りの兵士、犯罪者、娼婦、戦災孤児……極め付けは廃棄処分にされたミュータントたち。 嘗て破壊者の街と唄われた都市は、迫害や差別にさらされ放浪する根無し草の吹き溜まりになっていた。 彼らは濃縮された放射能にも怯むことなく―そもそも選り好みしていられる立場ではない―|廃棄された土地《ワイルダネス》に逞しく根付き、街を発展させ共同体を作り上げた。 破壊者の街は存外懐が広く深かった。 各地に散らばった元住民の子孫や噂を聞いて新たに流入する者も拒まず受け入れて、加速度的に規模を肥やしていった。 人が増えれば当然犯罪も増える。 もともとが素性のよからぬろくでなしの集まりだ。 政府はすでに解体され、文明水準が低下した混沌の時代の真っただ中。 警察に軍隊、国家に帰属する組織の権威は軒並み失墜し、故に人々は自らに降りかかる問題におのれで対処せねばならなかった。 そして生まれたのが賞金稼ぎだ。 西部開拓時代と同じく、力こそ正義の時代の再来。 この街は賞金稼ぎ制度が再興し、大陸全土に広がっていった原点といわれている。賞金稼ぎ発祥の地であるからして、当然賞金稼ぎが集まる。賞金稼ぎ崩れの犯罪者も増える。賞金稼ぎをお得意様とあてこんで商売を始める連中も居着く。 その街の名は、アンデッド・エンド。 どこにも行けない死にぞこないの墓場だ。 くり返しになるが、アンデッド・エンドは賞金稼ぎの街である。 石を投げれば当たる確率で賞金稼ぎがうようよしている。たちが悪いことに同じくらい賞金稼ぎ崩れのゴロツキの比率も高く、お世辞にも治安が良いとは言えない。 強盗、強姦、密売、誘拐、暴行、詐欺、殺人……犯罪発生件数は大陸随一の犯罪都市で、お上品なよその連中には、社会に適応できないろくでなしの|吹き溜まり《ダンプサイト》とも揶揄されている。 石を投げれば賞金稼ぎに当たる。賞金稼ぎじゃなければアル中かヤク中か売人か売春婦かお尋ね者で、もしくはその複数を兼ねる。 何故お尋ね者が堂々と街なかで顔をさらして暮らしているかと訝しむ向きもあるが、それがアンデッド・エンドの常識にして日常なのだから仕方ない。木を隠すなら森の中の発想で、結構見付かりにくい。 アンデッド・エンドには大陸中から賞金稼ぎをめざす若者がやってくる。 日頃忘れられがちだが賞金稼ぎは免許制だ。ここには中央保安局がおかれていて、免許が欲しければ申請の手続きを要する。 元来一匹狼気質が多い賞金稼ぎは基本的にフリーで活動するため、保安局には免許を配布する以外の権限がほぼないが、需要と供給が結び付いた互助組織だのなんだのが自然に生まれ、なにかと便宜をはかってくれるのは有り難い。日照りなら働き口も世話してくれる。 とはいえ組合がもってくるのは借金の取り立てだの娼館の用心棒だのシケたヤマばかり、一発大物狙いで功をあせる若者はやきもきしている。 アンデッド・エンドのすり鉢の底、スラム街のほど近くに場違いな教会がある。 庶民の信仰心が廃れた昨今、すっかり寂れきってるかと思いきやそんなことはなく、こぢんまりした外観ながら手入れは行き届いている。 十字架をてっぺんに掲げた切妻屋根と白い壁、両開きの巨大な扉。 見た目は何の変哲もない、どこにでもある教会だ。 錬鉄の柵に囲まれた敷地内にはマグノリアやエニシダ、薔薇や蛇イチゴなどの生け垣が巡り、右翼に併設した孤児院では子供たちが無邪気にじゃれあい、回廊で繋がった左翼の修道院ではうら若きシスターが窓を拭いたり床を掃いたり甲斐甲斐しく立ち働き、その光景は日常的な親しみやすさを感じさせる。 左翼に修道院、右翼に孤児院を従えて、中央に鎮座する教会の中では今しもかくれんぼが行われていた。 「えーと……こっち!きっとそうよ、私の勘がそう言ってる!」 自信満々に言いきって、信徒席が左右に並ぶ道を駆けていくのは年の頃7・8のおさげ髪の少女。 ぱっちりした目が印象的な利発そうな子で、溌剌とした物腰から活動的な性格が窺い知れる。 「だめだよ、勝手に入っちゃ神父様に怒られるよ。モノを壊すといけないから遊んじゃだめって言われたでしょ」 女の子の後ろを歩くのはさらにひと回り小さい少女。 おさげ髪の少女は猫に酷似した毛皮に覆われた耳としっぽをピコピコ弾ませ、後方の幼女は爬虫類じみた鱗に肌を覆われ、シューシューと呼気に伴い二股の舌を出し入れしている。 彼女たちはイレギュラー……|亜人種《ミュータント》の落とし子だった。 「どこに隠れたんだろ?絶対見付けてやるんだから!」 「ねえ戻ろうよ、バレたら叱られるよ」 「いやよ、ここで引き下がったら負け越し3連敗よ!今日のオヤツ賭けてるんだからね!」 裾を引っ張る幼女をなんのそのとひきずって、対抗心を燃え立たせた少女は大股でずんずん進んでいく。 教会の敷地内でのかくれんぼは彼女たちの日課だ。 おさげ髪の少女は大股で一番奥まで進み、ステンドグラスの神々しい光彩が洗う白磁の聖母子像を見上げる。 「マリアさまが見てるよ?」 「知ってるもん」 神父様は教会じゃ遊んじゃダメって言ったけど、そんなこと関係ない。こんなトコに隠れる方が悪いのよ。 おさげ髪の少女はませた仕草で肩を竦め、注意深く周囲を見回す。 いた。 聖母子像の後ろからちょこんと、ミミズのような節の入ったしっぽの先っぽがはみでている。 あの形状はハリーに間違いない。頭隠してしっぽ隠さずなんておマヌケさんね。 おさげ髪の少女はニヤケた笑みも全開に、だしぬけに片手を突きだし、まぬけなしっぽをむんずと掴む。 「めーっけ!」 「いっでえ!!?」 不意打ちでしっぽを鷲掴みにされた男の子が驚いて跳びあがる。 拍子に腕が激突、説教台にのっかっていた銀の燭台がぐらりと揺れる。 「「あ」」 その場に居合わせた全員が息を呑む。 おさげ髪の少女は自らの犯した過ちに青褪めて、後ろの幼女は目を覆い、そばかすだらけの男の子は棒立ちになり、説教台から落下する三叉の燭台に凍り付いた凝視を注ぐ― たいへん、お仕置きされる! 「おっと」 あわや、床に叩き付けられるかと思った燭台が空中でキャッチされる。 子どもたちが安堵に胸なでおろし見上げる先、赤みがかった金髪の青年が穏やかに微笑んでいる。 青年は子供たち一人一人を見て、まず最初に確認する。 「怪我はない?」 「う、うん……」 燭台を静かに置き、おさげ髪の少女とそばかすの少年の前にしゃがみ、目線の高さを合わせる。 「だめだよ、ここで遊んじゃ。そういうきまりだろ?」 「わ、わかってたけど……」 「ハリーが先に入ったんだもん!」 「おい!」 「ホントじゃない、みんなにだめって言われてるのに」 「ここなら絶対バレねえって思ったんだもん!」 「オヤツのためなら平気できまりを破るのね!ずるい!ハリーはずるくて汚い泥棒ネズミよ!」 「意地汚ェのはどっちだよ、こないだだって俺のチェリーパイ横取りして……」 「ハリーは歯磨きサボって虫歯がひどいって知ってるもん、かわりに食べてあげたんだから感謝なさいよ!」 「このメス猫!」 「なによドブネズミ!」 甲高く声を張り上げ罵り合う男の子と女の子に手加減したデコピンをくれる。 「こーら、喧嘩しない」 「だってコイツが……」 「仲良くね」 「うぅ……」 「君たちも枕元でドタドタされたらイヤだろ?それと同じさ、ここは神様のおうちなんだ」 「神様のおうち……?」 おさげ髪の少女とそばかすの少年、蛇の女の子が|襁褓《むつき》にくるまれたみどりごを抱いて微笑む聖母を仰ぐ。 ステンドグラスの逆光に翳った端正な面立ちは、無限の慈愛に満ちている。 「簡単なことだよ」 青年は立ち上がり、聖母の胸で安んじる赤ん坊の頭を軽くなで、いたずらっぽく人さし指を立てる。 「赤ちゃんが寝てる。うるさくしたら可哀想だ」 その非常にわかりやすい一言は、教会で騒いだらいけないとか罰当たりだとか神への冒涜を持ち出して脅すよりずっと率直に、いとけなく小さい胸に響いた。 「君達も小さい子が寝てたらそーっと歩くよね?それと同じで、聖母様もゆっくりしずかに子どもを眠らせてあげたいのさ」 青年の言葉に改めて眺め直すと、みどりごを腕に抱いた聖母は、まだ目も開かぬ子の優しい夢を守ろうとする平凡な母親に見えてくる。 教会は神聖不可侵な場所だから騒いじゃいけない。 それは間違ってないが、もっと大事なことがある。 そこには赤ん坊の眠りを守らんとする母親がいるから、うるさくしちゃいけない。 けっして強い言葉を使わず、不敬や不謹慎とも罵らず、人としてごく当たり前の道理を噛み砕いて説いて聞かせる青年を子どもたちが取り囲む。 「「ご、ごめんなさい……」」 同時にしゅんとうなだれる。 獣耳としっぽもくたりとしおたれる。 耳を伏せて反省する一同をじっくり眺め、真面目な顔を装うのに疲れた青年は苦笑する。 「今回は特別。ここで遊んでたのは内緒にしといてあげるから」 「ホント!?」 「もうしちゃだめだよ。今日は天気がいい、表で遊んでおいて。お日さまがぽかぽかして気持ちいいよ」 「ありがとうお兄ちゃん!」 元気に礼を言って一斉に駆け出す子供たちを微笑ましく見送り、青年は腰を浮かそうとする。 そこへ子どもたちの一人、最年少の鱗肌の女の子が引き返し、摘みたての蛇イチゴを渡す。 「コレあげる」 青年のてのひらに赤い果実をのっけてにっこり笑い、瞳孔が縦に長い金の瞳を輝かせる。 緑がかった肌にびっしり鱗を埋め込んだ姿と、二股に分かれた舌の先はミュータントへの偏見が根強い一般人なら忌避するものだが、青年は心から嬉しそうに笑い返し、受け取った蛇イチゴを一粒含む。 「ありがとう。おいしいよ」 「えへへ……」 女の子が後ろ手に内腿ではにかみ、そこへ猫少女がむかえにきて「さっさと行くわよ」と連れていく。 今度こそ全員が去ったのを見届けてから残りを大事にコートのポケットにしまい、聖母子像に向き直る。 「かわいい……」 俺も欲しいな、子ども。相手いないけど。 青年―ピジョンはかぶりを振ってしがない妄想を追い出し、信徒席の最前列に腰かける。 木製の長椅子に落ち着き、澄んだ静寂の舞い戻った教会にただ一人、ステンドグラスの大窓を背にした聖母子像と、その頭上に架かる巨大な十字架を見上げる。 両手を組んで瞠目、ごく小さく唇のみを動かす。 「神様、ごめんなさい。俺は罪を犯しました」 ステンドグラスに漉された陽射しが極彩色に華やぎ、ピジョンと十字架の間に一直線に光の梯子を渡す。 眉間にかすかな皺を刻んだ真剣な面差しのまま、固く手を組み懺悔する。 「仕事で人を撃ちました。悪党の肩と手を吹っ飛ばしました。それは仕事なのでお叱りは保留するとして、その……また弟と、してしまいました。過ちに溺れてきました。アイツは絶倫な上にテクニシャンで、後ろから犬のように犯されて抗いきれず、挙句自分で自分を慰めておもいっきりだしてしまいました。俺はいやだって拒んだんですけどアイツがどうしてもって強引に……じゃなきゃ問題起こすぞって脅されたんです、ずるいと思いません?しかも全然言うこと聞いてくれなくて、最中もあちこちがぶがぶ噛み付くもんで、おかげで体中歯型と痣だらけです。正直いまも痛いです、腰はヤバいです。アイツが寝てるあいだにヤスリで歯を削ろうか真剣に悩んだんですが、逆に鋭くなるだけなんで意味ないと気付きました。それだけじゃない、スワローのヤツときたらさんざん俺に恥ずかしいことさせて言わせて……」 ギギギと奥歯を噛み縛り、指が白く強張るほど力のこもった手が軋む。 「誓って言うけど、俺はノーマルです。SM趣味はこれっぽっちもない、健全ノーマルなただの男です。言葉責めなんてちっとも興奮しないし縛られるのは怖いからいやだ、道具を使われるなんて冗談じゃないお断りだ、ちゃんとフツーに叶うことならお互いの顔見てやりたいんです。それが夜の営みにおける最低限のマナーですよね?スワローの馬鹿はなんでか知らないけど俺が痛いの好きだって勘違いしてるんだ、だから平気で酷いことする、乱暴しても壊れないって思ってる」 全知全能の主はなにも答えない。答えようがない。 それをいいことに、ピジョンはのろけとも愚痴とも付かぬ一方的な反省をくどくど垂れ流す。 「大体アイツはガッツきすぎだ、日によっちゃ一回じゃすまず二回も三回も……こっちの体がもたないよ、明日の仕事もあるんだ、ちょっとは加減してほしい。前みたいに毎日求められなくなっただけマシだけど、週三だって十分ハードだ。世間並かどうかは比較対象がないからなんとも言えないけど、コレ多くありません?俺は週一で十分、ていうかしないでいいならしたくないです。腰にクるし怠いし後始末も大変だし……勝手におっぱじめて勝手に出してヌイて、お前が高鼾かいてるあいだに身を浄めてるんだぞこっちは」 日頃から積もり積もった弟への不満を恨み言に変えて吐きだし、組んだ両手をギギギと軋ませこめかみに血管を浮かせる。 「神様どうかアイツに罰をお与えください。勃起不全の呪いとかでもいいです」 If you curse people two holes. 教会で弟の不幸を願う罰当たりに、突如として天の裁きがもたらされる。 「え?」 頭上に降り注ぐ微細な木片に釣られて上を向く。 ピジョンの顔が固まり、派手な破砕音が響き渡る。 「うわあああああァああああァあああああ!?」 次の瞬間教会の天井、切妻屋根の斜面にあたる一部が崩落。 眩い光がさしこむ穴から何かが落下、反射的に両腕を突っ張って抱き止めるも重量によろめいてもろともに倒れ込む。 「~~~~~~~~~~~~~~~~~ッぐァっはァ!!?」 昨晩の任務とセックスでただでさえ酷使された腰がぐぎりと嫌な悲鳴を上げ、仰け反る喉から声にならない絶叫が長く尾を引く。 「ああ……死ぬかと思った。いや待て、もしかしてここは天国ですか?いやに知り合いにそっくりの天使がおりますが」 間一髪、ピジョンが抱き止めて事なきを得た人物が場違いにのんびり尋ねる。 偶発的な事故でピジョンにお姫様抱っこされたのは、漆黒の僧衣に身を包んだひょろっこい男。 二十代から四十代までいずれにも見える年齢不詳の顔立ち。 小粒のチェーンをたらした度の強い黒縁眼鏡をかけており、その奥で温厚な糸目が微笑む。 若白髪まじりの赤毛をオールバックに撫で付け、聡明に秀でた額を出した風貌は、神父になるために生まれてきたような清廉さを帯びている。 肌の露出は極力少なくストイックな僧衣の立て襟をきっちりとめ、胸元で銀のロザリオが輝く。 中年とよぶには抵抗ある若作り、さりとて青年に分類するには雰囲気が枯れすぎた男が、すっとぼけた調子で続ける。 「君が天使なら羽はどこで落としてきたのですか」 「……まず俺が天使だって前提が間違っています」 礼を失さぬ手付きでどかすピジョンから光のさしこむ方角へ視線を転じ、天井に穿たれた大穴を目の当たりにした男の表情に劇的な変化が起きる。 「神よ!!!!!!!!!」 落雷を背景に絶叫後に平伏、悲愴な形相でロザリオを揉みしだく。 「なんてことだ……私は大変な過ちをしでかしました。ご覧なさいピジョン君、屋根に穴が!」 「はあ……見ればわかります」 「これでは雨漏りどころの騒ぎではありません。ええ、雨漏りならバケツをおいておけば防げますがコレでは滝行です。私はキリスト教徒であるからにして仏教徒にあらず、信徒席の皆さんに滝行の責め苦を負わせるなど言語道断!そも最初からご説明しましょうか、私は釘と金槌を持ち屋根の修繕をしていたのです。そしたら運命のいたずらか神の試練か、突如として足元が抜けて天国へと真っ逆さま!いやはや文法的に間違っていますがご容赦を。しかし命の恩人たる君に怪我がないのは不幸中の幸い、慈悲深き我らが主の采配と言えましょうか。おお我と彼を救い給うたこと感謝します主よ」 その場に流れるように跪き十字を切る神父を、ピジョンは床に足を伸ばし、疲れ切った様子で眺める。 「申し遅れました、なによりまず先に君にお礼を伝えねばなりませんね。ありがとうございますピジョン君、君に命を救われるのはもう何度目でしょうか」 「せ……神父さまが狙い定めたように俺の上に降ってくるのは三回目で、階段から転がり落ちてくるのを止めたのは四回目ですね」 「毎回体を張って受け止めてくれるので、運よく一命をとりとめてます」 運が良すぎる。 「もうあきらめて畑違いの大工仕事は別の人に頼まれては……?」 運動音痴なんだから、という苦言が喉元まで出かけたのをぐっと飲みこんで指摘すれば、埃をはたいて立ち上がった神父は、ずれた眼鏡をかけなおして断言する。 「そういうわけにもまいりません、ここでは私が唯一の男手です。他は女性と子どもばかり故おいそれと頼めませんし……」 「人手不足が深刻ですね」 「借金苦で立ち退きを迫られてますからね」 胸を張って言うことではない。 彼こそこのスラム街で唯一の教会を運営する若き神父であり、ピジョンにとって特別な人だ。ピジョンが教会に足繁く通う目的は、この人物に起因するところが大きい。 ピジョンはため息を吐き、満更でもなさげな笑みを浮かべる。 「よければやりますよ」 「はい?」 「雨漏りを直せばいいんですよね?お安いご用です」 「ですが報酬は……」 「気にしないでください、日頃からお世話になってるお礼……いえ、恩返しです。こう見えて大工仕事は得意なんですよ、俺。子供の頃からいろんなもの作ってたんで」 気安い申し出に神父は少し躊躇う素振りを見せるも、ピジョンがてこでも引かないと悟るや、感謝と申し訳なさが綯い交ぜになった笑みを向ける。 「お言葉に甘えてよろしいので?」 「まかせてください」 「ありがとうございます。本当にいい子ですね」 「このトシでいい子はよしてください」 「では本当にいい若者で手を打ちましょうか。今日は何しに?」 「仕事帰りで……ちょっと立ち寄りたくなって」 先刻までひとり延々とくりひろげていた懺悔の内容は伏せ、頭をかいて言葉を濁す。 神父は「そうですか」と軽く頷き、ピジョンに歩み寄る。 おもむろに手を伸ばし、ピンクゴールドの猫っ毛にそっと触れる。 「お仕事お疲れ様です。がんばって偉いですね」 「ちょ……だれか来たら……!」 「偉い偉い」 神父はにこにこ笑いながら、動揺するピジョンの頭を小さい子供にするようにやさしくなでる。 ピジョンは赤面して表を気にするも、白手袋に包まれた手の感触と労わりの心にリラックスしていく。 幸せそうに満ち足りた表情で自らに手を預ける青年を見返し、神父が囁く。 「オイタのすぎる黒い子羊を倒したのもえらいですが、大した怪我もなく帰ってきたのが一番偉いです」 ピジョンの無事を喜び、成果を労う神父の口調に嘘偽りはない。あるのは身内に対する愛情だ。 ピジョンは頭を下げて恥じらい、気持ち良さそうに目を閉じて、自分より少しばかり大きい手のぬくもりに甘えきる。 だれかに頭をなでられるのは久しぶりだ。 案外これがめあてで来ているのかもしれない。甘え下手で褒められ慣れてないピジョンへのご褒美。 なでなで。 さわさわ。 「あの……もうそのへんで」 「え?まだいいでしょう」 「じゃああと三十秒だけ……」 「結構長いですね?」 片やなでられる安心感と気持ちよさにうっとりまどろみ、片や繊細な猫っ毛をくしけずるのに夢中になって、大の男同士がむずがゆい光景を演じる。 カウント終了と同時に名残惜しげに手を引っ込め、途端だらしなくふやけきった表情を慌てて引き締めるピジョンに神父が告げる。 「おかえりなさい」 「ただいま……で、いいのかな」 「もちろん。ここは君の第二の家でもあるんですから」 そう自信たっぷりに請け負って、先に立って歩きだす神父に付いていく。 扉に手をかけ開きながら、ふと思い出したように振り返る。 「そうそう、言い忘れました。私のことは昔通りの呼び方でいいですよ」 「え?でも……」 「そちらのほうが呼びやすいでしょうし、私は神父と信徒ではなく、師として君に接していたのでね」 おどけて肩を竦め扉を開け放ち、蛇イチゴが実りマグノリアが咲く、自然あふれる光の庭へと歩みだす。 オールバックに撫で付けた若白髪まじりの赤毛の下、青年とよぶには老成しきり、中年とよぶには若々しい顔立ちが慎ましげに綻ぶ。 ピジョンは恩師である神父と向き合い、几帳面に姿勢を正して報告する。 「ただいまです、先生」

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