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Angel Feather

その夜、ピジョンは屋上に出た。 ならず者の天下《デスパレードエデン》……この界隈はそう呼ばれている。 スラム街にほど近く、お世辞にも治安がいいとは言えない。 貧困層が住む古いアパート群が密集する一帯は、マフィアの抗争が絶えざる危険地帯としても有名で、猥雑な生活音とごたまぜに何かが壊れる音や銃声が響き渡る。 喧しい痴話喧嘩と赤ん坊の夜泣きを背景音楽に、コンクリ打ち放しの屋上をゆっくり一周。 縦横無尽に張り渡されたロープを洗濯ものが占拠し、井戸端会議に沸く主婦のそばで子どもたちが賑やかに遊ぶ昼とは違い、夜は人っ子ひとりいない。 倒れたまま放置された三輪車やプラスチックの玩具が、侘しさに拍車をかける。 ダウンタウンの峡谷を吹き抜ける風は、誰かが捨てた古新聞や外れ馬券を紙吹雪の如く舞い上げて、どこか遠くへ連れ去っていく。 左隣の屋上にはデカい看板が掲げられ、「エンジェルダスト」といういかにもな安モーテルの名前を、天使の羽根を模したチューブが取り囲む。 ピジョンは夜の屋上が好きだ。 だだっ広い空間を独り占めしてるようで、とびっきりの贅沢を味わえる。 子供の時分なら暗闇と高所の二重苦に怯えたかもしれないが、大人になった今では、夜闇に瞬くネオンの退廃的な風情も楽しめる。 アンデッドエンドに来て暫くは、都会の夜が明るいことに驚いた。 ピジョンが知る夜はベッドで毛布にくるまり過ごすもので、ブラインドを捲って見上げた空には、月と星がかそけく輝くばかりだった。 借り物の光で照る空は、天鵞絨に撒いたスパンコールのようにチープで美しい。 ドロップスを散り砕いたかの如くカラフルな点滅は、月と星の自然光を圧し、アンデッドエンドの夜を軽薄に染め上げる。 キレイで甘い毒を孕んだ、合成着色料の夜。 「………」 もっとも、夜遊びが趣味のスワローなら下品で猥褻と腐したかもしれない。 屋上の縁に立ち、呆けたように夜景を見詰める。 貧困層向けのアパートが犇めく手前は窓の明かりも歯抜けで不景気だが、地続きの歓楽街は大層賑わっており、風に吹きちぎれた嬌声やクラクションが届く。 アンデッドエンドにおける車は一種のステータスシンボルだ。燃費が悪くても買い手が付く。 「|悪運の法廷《バッドラックコート》は……あっちか」 ぐるりと視線を巡らし、噴水広場をさがす。 夜はカップルが屯するデートスポットであり、覗きのメッカでもあるアンデッドエンドの名所には、誰からも愛されない不憫な男の像が建っている。 幼い頃読んだ物語を思い出し、無意識に頬が弛む。 「こんなに明るいなら、幸せも不幸せもよく見えるだろうね」 あそこに建ってるのが幸せの王子だったら? 貧しい人々に身を捧げ、打ち捨てられた王子の像だったら…… 噴水広場から手前の通りに目を転じれば、浮浪者が古新聞に包まって横臥し、極端にスカート丈の短い娼婦が足踏みで寒さをごまかしている。 「……」 もし広場の中心に幸せの王子がいたら、富める者は肥え太り、貧しき者は野垂れ死ぬしかない虚栄の市を憂えるだろうか。 屋上の縁にたたずみ、束の間感傷に浸る。 幸せの王子はピジョンにとって思い出深い話だ。まだ赤ん坊の弟を膝にだっこして、くりかえし読み聞かせてやった。 小さすぎる弟は筋を理解できず、ちっちゃい手で挿絵を叩くばかりだったが、当時からひどく涙もろかったピジョンは、ツバメと王子が死ぬシーンで毎回必ず泣いてしまっていた。 遠い窓の向こうで、日夜くり広げられる悲喜劇を見守るしかない王子に同情したピジョンは、白いクレヨンで彼に翼を描いてやった。 愛しい愛しいツバメと飛べるように、と。 ネオンが支配する夜は明るすぎ、全身に黄金と宝石をまとう王子すらみすぼらしく霞ませる。 「王子様は出る幕ない、か」 大昔に好きだった絵本を想起したのは、町の中心に聳える|象徴《シンボル》の共通点からだが、遺言で自身の像を建立させた俗物と献身の代名詞の王子では天と地ほど差がある。 手に持っていたポラロイドカメラを上に向け、シャッターを切る。 写真を煽るのを中断、まじまじと覗き込む。 「……失敗。真っ暗だ」 がっくりと肩を落とす。 「専用のカメラじゃないとやっぱだめか……」 「どーわっ!」 「わひぃっ!?」 背後で上がる大声に比喩ではなくとびあがり、振り向く。仄白く湯気たちのぼるマグカップをもったスワローがいた。 「お、脅かすなよ!?来てたなら声くらいかけろ」 「かけたじゃん今」 「近すぎて意味がない」 「テメェの鈍感棚に上げて注文がうるせえな、俺なら階段のいちばん下に足のっけた時点で気付くね」 「……一階の、じゃないよな」 スワローが小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。 「ぼっちでたそがれ?遠い目ェしてひたるのは美形の特権だぜ、テメェみてえに面白みのねーのがマネしても目にゴミ入ったって勘違いされんのがオチよ」 「いいだろ別に、俺だって一人になりたい時はある」 「エロい本見る時?」 「下世話な発想しかできないのかよ」 ピジョンが片手に預けたカメラと真っ暗な写真に気付き、スワローが妙な顔をする。 「真っ暗じゃん。何撮ってんだ」 「……星」 「あァん?」 「ほらな、そーゆー反応するから言いたくなかったんだ」 スワローはすぐ俺のこと馬鹿にする。 案の定ニヤニヤしたスワローが喉の奥でくっくっと笑い、屋上の向こうへ顎をしゃくる。 「そりゃまた随分おセンチなこって。せっかくだから夜景撮れよ」 「撮ったよ前に、母さんへの手紙に同封した。今夜は星を撮りたい気分なんだ」 「ネオンがキンキラしてて星なんか見えっかよ」 スワローの指摘は正しい。 アンデッドエンドの夜空はネオンの照り返しを受けてボンヤリ輝き、月と星の存在感は殆どない。 人工の照明に駆逐され、空の隅に追いやられた星々を再び仰ぎ、ピジョンは肩を窄める。 「ほれ」 さっさと受け取れと催促され、大人しくカップを受け取る。手に伝わるぬくもりに安堵するも、すぐ疑念に取って代わる。 「どういう風の吹き回しだ?」 「サービスいいだろ」 「……床が抜けたりしないよな」 弟の気配りが信じられず、天変地異を警戒する兄はさておき、スワローは屋上の縁、一段高くなった部分に飛び乗って歩き出す。 「よせよ、落ちるぞ」 両手を広げて悠々と歩く弟を慌てて窘める。 スワローの平衡感覚は抜群に優れており、猫のように飄々とした足取りで、屋上の縁を歩いていく。 一寸向こうは風吹きすさぶ真っ暗闇、一歩足を踏み外せば真っ逆さま。墜落死はまず免れまい。 されどスワローは些かも怯まず、痛快そうに声を張り上げる。 「びびんなって、お前もやってみろピジョン」 「自殺教唆かよ」 「心中のお誘い」 「悪い冗談」 「びびったヤツから足滑らせて落ちてくあたり人生と一緒」 「俺の肝はお前ほど丈夫じゃない」 「なら鍛えろよ、賞金稼ぎは度胸が肝心だ」 「生憎職人肌でね。危ない橋は渡らず地道にコツコツ行く主義だ」 「風が気持ちいいぜ」 「馬鹿と煙はなんとやらだな」 ピジョンはハラハラと弟に付き従い、彼の身体が傾いで向こうに放り出された時の用心に備える。 一方スワローは追随する兄を振り向きもせず、両手を平行に広げ、右足と左足を交互にくりだし、優雅ともいえる身ごなしで縁を渡っていく。 コイツ、前世は猫だったんじゃないか。だったら高い所を好むのも納得だ。それにしちゃ昔飼ってた子と相性悪かったけど…… スワローは怖いもの知らずだ。 両手を広げて悠然と歩めば、ピンクゴールドの後ろ髪がネオンを透かして靡き、夜空は彼に従い、世界は彼に平伏す。 ピジョンはその背中をちんたら小走りに追いかける。 「悪ふざけはやめろ、死体を掃除する人の身になれ。あちこち飛び散って大変なんだぞ」 「ひでー奴だな、弟の身体よか始末にかかるカネの心配?」 肩を竦めて立ち止まり、屋上の縁に腰かける。 ピジョンは胸をなでおろし、弟と並んできらびやかな夜景を見詰める。 「……覚えてるかスワロー」 「あァん?」 「子供の頃、エンストで立ち往生してさ。押しても引いてもダメで、結局まる一晩荒野のど真ん中で過ごすことになった」 「あー……あったなそんなの。兄貴が小枝拾って、俺が火ィ焚いて」 「母さんと三人、毛布にくるまって過ごしたっけ。焚き火で沸かしたコーヒー、濃く煮詰まってすごく苦かった」 当時の記憶を重ねるように、淡く染まる歓楽街の上空を見る。 「随分遠くに来たよな」 あの頃、母と一緒に見上げた空はもうどこにもない。 一抹の寂寥と郷愁をに俯けば、スワローが足を揺らして嘯く。 「ホームシックかよ。だっせえ」 本当に、この街でやっていけるだろうか。 喉元までこみ上げた不安を言葉にできず、カップのぬくみに甘えて口を付け、反射的に顔を顰める。 スワローが淹れたコーヒーは、あの時のコーヒーに負けない位苦かった。 「ガキ」 「うるさいな」 「……そういやさ、覚えてるか」 「何を」 「兄貴が昔好きだった絵本あったじゃん。ツバメと王子が出てくるヤツ」 「幸福の王子?」 「そー、それ」 ちょうどさっきまで同じことを考えていたとは口にせず、興味深げな沈黙で続きを促せば、いかにも胸糞悪そうに吐き捨てる。 「アレ、最高にイラっツいた」 「どこが?」 意外すぎる発言に、我知らずなじるような調子で食い付く。 スワローは生意気に鼻を鳴らし、悪運の法廷の方角を睨む。 「ツバメの馬鹿野郎だよ。立ちんぼ王子なんざとっとと見捨てて南へ旅だちゃいいのに、泣き落としにほだされてあと一日もう一日って持ちこした挙句、冬ンなって凍え死にだ。まったくの無駄死にじゃねーか」 「ツバメは王子の友達だから最後まで添い遂げたんだ」 「ハッ、どうだか。だいたい葦の腰付きに惚れるってあたりから常軌を逸してるぜ、特殊性癖こじらせすぎだろ」 「蓼食う虫も好き好き、葦恋う鳥も好き好きだよ」 「ツバメに頼りっきりの王子もムカツク。アレコレ指図するだけじゃなくたまにゃテメェで動け」 「動けないから頼んでるんじゃないか、無茶いうな」 「頭脳労働担当?口先だきゃあ達者だもんな。俺にいわせりゃ王子はただの怠けもんだね、自分の身を粉にして施すなんてイマドキ流行んねーよ、貧乏人に宝石ばら撒いたところでンなの一時しのぎさ、街の根幹から変えねーとダメだね」 「じゃあどうするんだ」 「まず財源の確保。黄金と宝石でできた王子の像なんて格好の観光名所ほっとく手はねえ、いっちょ宣伝打ちゃあ世界中から物見高い野次馬が集まるぜ。そこでツバメを飛脚に抜擢。なんたってコイツは速え、その気んなりゃ世界中をぐるっと一回りできる。ねえ皆さんあの街には素晴らしい王子の像があるんですよ見に来ませんかって、ビラでもなんでも撒いて客寄せすんのさ」 「……続けて」 「したら世界中から観光客がどしどし押し寄せて、街はあっというまに潤って貧乏人はいなくなる。宿屋も飯屋も馬鹿みてーにもうかって、幸福の王子切手や絵葉書、ツバメじるしのクッキー缶にサファイアの目ん玉キャンディなどなどの土産もんは飛ぶように売れまくる。王子の像はますますゴージャスになりツバメは安心して南へ旅立てましたとさ、めでたしめでたし」 ピジョンはしばし顎を摘まんで考え込み、降参する。 「……名案だね」 「だろ?」 「ご都合主義な気もするけど」 「ハッピーエンドを捏造する気概がなくっちゃ人生は切り開けねーぞ」 「お前ってむかしっからそうだよな」 「そうって?」 「気に入らない話は筋をねじまげて無理矢理自分好みにする」 スワローがムッとする。 「―だって」 ……お前が泣くから。 「……え?」 不機嫌に頬杖付いたスワローの方へ身を乗り出す。 「今なんて言った?もう一度」 「二度と言うか。察しろ」 ますますへそを曲げ、行儀悪くコーヒーを啜る弟から大人しく離れ、コーヒーの苦味に舌を慣れさせる。 左隣の看板が影を投げかけ、天使の翼をかたどった管の中を光の粒子が駆け抜ける。 「……覚えてるぜ。『王子様とツバメが可哀想だ』ってびーびー泣いて、クレヨンで翼描きたしたの」 幸福の王子が大好きなツバメと天国へ行けるように。どこまでも遠く飛べるように、真っ白で大きな翼を。 時々スワローはドキリとすることを言い、ピジョンの心臓にタップを踊らす。 「忘れろよ、子供のしたことだ」 子供時代のほんのささいな出来事、ことによると本人が忘れてほしいと願っているエピソードまで、何故こうもハッキリ覚えてるのか。 苦りきるピジョンにしてやったりと流し目を送り、スワローが宣言する。 「忘れるもんかよ。俺の王子様は白い羽が生えてんだ」 弟の真意を問いただそうと腰を浮かせば、スワローがピジョンの手からカメラをひったくり、素早くシャッターを切る。 「わ」 フラッシュを焚かれ、眩さに目がくらむ。 「こらスワロー、いきなり何す」 カメラがジーと写真を吐き出す。それをピッと抜き取って、憤る兄の顔へ近付ける。 「ほらな」 スワローが見せた写真には、天使の翼を背負ったピジョンがいた。 それは隣の屋上の看板が被さり、ちょうど羽が生えてるように見えるだけなのだが、パールホワイトのウイングをカジュアルなモッズコートに付けた姿は、まさしく都会の天使といった趣だ。 「……コレがしたくて追いかけてきたのか」 サプライズの為だけにわざわざコーヒーの根回しまでした用意周到さにあきれかえるも、困惑げな苦笑いが少なからず照れを含んでいることに、ピジョンはとっくに気付いていた。 オンリーワンの傑作を物したスワローは大いに得意がり、写真の天使にキスをする。 「愛してるぜ、俺の小鳩」

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