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Cigarette kiss

遅く起きた朝は憂鬱だ。 「ふあァ……だりー……」 寝ぼけて枕元をまさぐり、潰れた箱からのろくさ一本抜く。 メンソールを含む煙がすみずみまで染み渡る頃になり、やっと頭が働きだす。 劉は低血圧で朝が弱い。 用がなければ一日中寝ていたい……が、そうもいかない。 部屋の中は見苦しく散らかっている。 脱いだ衣服や膨らんだゴミ袋が点在する中、安物のパイプベッドに横たわりぼんやり裸の胸をかく。 「今日は……非番か」 ラッキーとダウナーに呟く。 上司の無茶振りに煩わされず心の洗濯ができるとおもうと涙が出るほど嬉しい、おかげさまで朝イチの煙草がゆっくり喫える。 午後まで寝坊したい誘惑にそそられるが、タイミングよく腹が鳴る。 哀しいかな、煙じゃ腹はふくれない。何かモノを詰める必要がある。 メンソール特有の清涼な香りを一気に吸い上げて鼻孔へ抜き、アルミの灰皿で揉み消したあと、下半身に唯一身に付けていたトランクスを脱いで浴室へ。 「ふー…………」 コックをひねって調節すれば、シャワーヘッドから適温の湯が降り注ぐ。 頭から熱い湯をかぶると生き返った心地がする。 髪に手を入れてわしゃわしゃかきまぜ、顔を仰向けて雫を伝わす。身体の裏表を一通り洗ってからコックを締めて浴室を出、タオルで体を拭く。 「パンツ、パンツ……」 洗濯物の山を掘り返せど見当たらず舌打ち。 底までかき回した結果少しだけマシなトランクスを発見、無造作に足を通す。 続いて単身者用のコンパクトな冷蔵庫から牛乳パックをとりだす。 ピザの空箱やヌードルの厚紙に埋もれたテーブルの上には、開封済みのシリアルの箱がちょこんとのっかっている。 試しに振ってみれば三分の一ほど残量がある。 「よし」 ボウルにざらざらとシリアルを突っ込み、牛乳をぶっかける。椅子に掛けて匙を掴み、ひたひたになったシリアルを口に運ぶ。 母親が早くに料理作りを放棄した為、牛乳をかけるだけで完成するシリアルは育ち盛りの彼の主食だった。 味に関しては特にうまいともまずいとも思わない。 劉は食事に関心が薄く、とりあえず腹がくちくなるならいいと考えている。 テイクアウトのヌードルでも冷めたピザでも、最低限腹がふくれて動ければ栄養価だのなんだの些事にはこだわらない。人間は空腹で品性を語れるようにはできていないのだ。 ゴミ袋や洗濯物が転がる部屋の中、猫背気味に背を丸め、トランクス一丁でシリアルを咀嚼。 ふやけたシリアルをひとすくい啜っていると、部屋に面した中庭で甲高い歓声が響く。 バスケットボールのドリブル音におもわず舌打ち。 「るっせえな」 |ならず者の天下《デスパレードエデン》……この界隈の通称だ。 世帯ごとの人口密度が高く、反比例して民度が低いせいで痴話喧嘩が尽きず、やれ何号室の飲んだくれが刺されたの何号室の売人が撃たれたの暴力沙汰も日常茶飯事。 借金の取り立てやギャングが忙しなく出入りし、常にどこかで厄介事が持ち上がる。 スラムにほど近く低所得層のアパートが密集しており、四面を建物が塞ぐコンクリ打ち放しの中庭で子供たちは遊んでいるが、朝っぱらからバスケだの野球だのサッカーだの騒がれちゃたまったもんじゃない。 大所帯の主ともなれば生活音渦巻く喧騒に慣れきって眼下でボールを投げ合うこどもたちになど大して注意も払わず、鳥籠のようなベランダに洗濯物を干したり足の爪を切ったり鉢植えに水をやったり朝の支度に勤しんでいる。 テンションがまるで上がらない憂鬱な朝。 何度目かの匙の往復時、窓の横に鈍い衝撃音が爆ぜる。 驚いて椅子を蹴立てた拍子に牛乳パックを倒す。 「あ、あー!?」 なんてこった。 がたぴしゃ窓を開け放ち、表の子供たちにむかって怒鳴る。 「ひとがメシ食ってる時に邪魔すんな、もうちょい優雅に遊べ!!」 「わー怒った、みんな逃げろー!」 「パンイチの変質者がくるぞー!」 窓の横にボールをぶち当てた男の子が悪びれもせず走り去り、それに追従した友達も笑い転げて逃げていく。 「くそったれ……しまいにゃ吊るぞ」 毒突きながら引き返し、椅子に掛け直すと同時に牛乳パックの裏に印刷された賞味期限が目に入る。 「……過ぎてんじゃん……」 冷蔵庫に入れてりゃギリギリセーフ?一週間以内ならイケる?味にゃとくに変化なかったが…… 空っぽのボウルをシンクに浸け、悪趣味でサイケデリックな柄シャツに袖を通し、椅子の背に掛けっぱなしだった細身のスラックスを穿く。 口直しに喫いたいと箱を掴むが、こちらも空っぽで脱力。 「しょうがねえ、買いに行くか」 角の煙草屋まで歩いて五分だ。 施錠して部屋を出、故障中のエレベーター前を素通り、壁を取り巻く階段を使って降りる。 「げ」 途中、立ち話をしている主婦を発見。近所付き合いがない劉は、できるだけ目立たぬよう身を縮めて通り過ぎる。 「今の……蟲中天の?」 「下っ端だって」 「なんで快楽天に住まないのかねェ、あっちの方が便利だろうに」 デスパレードエデンに東洋人はめずらしい。 暇人の陰口はシカトし、片手を手摺にかけて小走りに駆け下りる。 エレベーターを除けば上り下りの手段は二通りある、外に取り付けられた非常階段と壁沿いに設置された内階段だ。中央は吹き抜けになっており、手摺から身をのりだすと眩暈がする。 「ぜえ……ぜえ……ぜえ……」 情けない話、階段を下りただけで息切れを起こす。自らの体力のなさが恨めしい、煙草の喫いすぎで肺が弱っているのだきっと。 柄シャツの胸元を掴んで汗を拭き、無秩序に標識や看板が張り出し、グラフィティに埋め尽くされた明るい通りを歩く。 めざす店は1ブロック先だ。 路上にしゃがんでチョークでらくがきする男の子、フラフープや縄跳びで遊ぶ女の子。バルコニーに椅子を出してうたた寝する老人の膝では、太った猫が日なたぼっこしている。 「ワシの名はキマイラーター、史上最強の賞金稼ぎにしてミュータントの救世主じゃ!」 「わーキマイライーターさまお助けをー、ぬすんだブツは献上しますから」 「キマイラーターに賄賂は通じん!とぉ!」 「百万ヘル追加しますからー」 道すがら、賞金稼ぎごっこに興じるガキどもとでくわす。 一番人気の役柄はキマイラーターで、あとは名もない雑魚だ。 下町で生まれ育った子供たちにとって、雑誌や新聞に頻繁に取り上げられる賞金稼ぎは身近なヒーローなのだ。 小枝をぶんまわし銀行強盗役の子分を追い立てるキマイラーターの前に、路地から颯爽と飛び出た少年が立ち塞がる。 物騒なことに手には酒瓶の破片がギラ付く。 「ひっこめ老いぼれ、これからはストレイスワロー様の時代だ!」 「そこをどけ若僧」 「やなこった、コイツらぶっ倒してあり金まるっとひとりじめだ!」 ……いかにもスワローが言いそうな、けったくそ悪いセリフだ。 キマイライーター役の少年とスワロー役の少年はガンをとばしていがみあい、小枝と破片を軋り合わせ丁々発止と斬り結ぶ。 「ちゃんと筋書き守れよケイヴ、ストレイスワローはキマイライーターを庇って退場するんだぞ!」 「ストレイスワローがそんなマヌケなもんか、今をときめく凄腕ナイフ使い、雑誌にひっぱりだこのやり手ルーキーだぞ?コヨーテ・ダドリーだって楽勝だった」 「仲間に手伝わせて手柄横取りしたくせに」 「違うね、踏み台にしたのさ。本人がインタビューで言ってたから間違いない、ドギーは足引っ張っただけだって」 「幻の三人目は?」 「デマだろデマ、クソ雑魚賞金稼ぎはみーんなスワローの引き立て役!キマイライーターこそご隠居詐欺はやめていい加減引退しろよ、郊外に庭とプール付きのでっかい家構えてるってバンチで読んだぞ」 「キマイライーターは生涯現役だ、ぽっと出の新人なんかに負けるもんか!」 力強く振り抜かれた小枝が破片を弾き返し、鋭く翻った破片が小枝の表面を削る。 「ワシに任せて先に行けって言え!」 「きめごと破るなら仲間にいれてやんないぞ、賞金稼ぎの世界じゃキマイライーターがいちばんなんだ!」 「死ねっイレギュラー!」 スワロー役が腰だめに破片を構え突進していく。 刺さったら、死ぬ。 「……はァ。だりー……」 通りすぎざま人さし指の第二関節を曲げ、くいと引く。 「え」 刹那、スワロー役の手からすっぽぬけた破片が高々と宙を舞い、劉が自堕落に歩む先で脆くも砕け散る。 そろって面食らうこどもたちを背に、地面で割れ砕けた破片をさらに靴裏で踏みにじり生あくびをかます。 「ガキは蟻の巣穴にコーラ流しこんでノアの方舟ごっこしてろ」 そうこうしてるうちに角の煙草屋に到着、店番の老婆に告げる。 「モルネスのボックス一個」 「あいよ」 カウンターにもたれて覗きこめば、店内の棚には各種煙草が陳列されてる。カラフルな包装にユニークなデザインは、眺めているだけで目に楽しい。 老婆は大義そうに横手の棚をまさぐり、蜘蛛の巣に囚われたモルフォ蝶が刷られた箱をカウンターに滑らす。 モルフォ・イン・ネスト……通称モルネスは劉が愛飲する銘柄だ。 「禁煙したらどうだい?顔色悪いよ」 「ンなことしたら婆さんの商売上がったりじゃん」 「二日とあけず通い詰める貴重な常連にぽっくり逝かれちまうほうが打撃さ。金ヅルは生かさず殺さず、長く細く毟り取るのがウチのモットーなんでね」 「ひっでェな、一応客だぜ」 「アンタ独り身かい」 「所帯持ちでもねーのに健康に気ィ遣ったって意味ねーさ」 「いい人はいないのかい?」 「オンナにゃ興味ねー」 「オトコがいいのかい」 「他人に興味ねーんだ」 「張り合いないねえ」 「食わせる甲斐性もねえし。一人のが気楽だよ」 干乾びた老婆のため息に苦笑い、ポケットから出した小銭を渡す。 今の部屋に引っ越してからずっと通ってるせいでお互い馴染んでしまったが、相手が誰だろうが一切手心を加えない毒舌はいっそ痛快だ。 結果として噂話に節操ない近所の主婦連よりよっぽど気安く話せる間柄になったが、女と認識してないから普通に話せるのか判断はむずかしい。 早速モルネスを開封、真新しい一本を咥える。 「タンブルウィードよこせババア」 この声は…… 店先で一服しようとした劉をおしのけ、カウンターに乗り出す十代半ばの少年。その袖を引っ張って諫めるのはやや年嵩の青年だ。 「失礼な口きくなスワロー、お年寄りには優しくしろって母さんに言われたろ。まずはおはようございますお元気ですねの挨拶からだ」 「るっせえこちとらニコチン切れてイライラしてんだ、今すぐモクで腹一杯にしなきゃ店のガラスぶち割っちまいそうだ」 「おやおやおっかないねえ、弁償代は利子付くよ」 「てゆーかなんで来んだ、邪魔くせーから留守番してろ」 「善良なお年寄りを脅すのほっとけないだろ、心臓発作でコロッと逝かれて葬式代請求されたらどうするんだ」 「とか言って、万引き心配して付いてきたんだろ。アタリ?その顔はアタリだ、実の弟に泥棒の疑いふっかけて恥ずかしくねーのか」 「手癖の悪さは身に染みてるからね。十三の時スタジャンの懐にカートンごと突っ込んでトンズラしたの、忘れたとは言わせないぞ」 「付きっきりで見張るってか?テメェをパシらせりゃよかったぜ」 到着するなり店先で喧嘩をおっぱじめた二人は、似てないくせにどこか似ている。 かたやピンクゴールドの猫っ毛にモッズコート、かたやイエローゴールドのボサ髪にスタジャン。ラスティネイルの目とドッグタグだけおそろいだ。 先に気付いたのはピジョンだった。 「あ、劉じゃないか。煙草買いに?」 「そ」 「どんよりしんきくせー空気が漂ってると思ったらテメェかよ、相変わらず死にぞこなった顔色しやがって。シケモクはお断りだ、寄るなシッシッ」 しかめ面で腐すスワローとは対照的に、ピジョンは偶然の再会を喜ぶ。 「これ、劉が喫ってる煙草?」 「ああ」 「メンソールなんだね」 「オカマ御用達だ」 カウンターに頬杖付いて野次るスワローをひと睨み、興味津々箱の真ん中を突付く。 「綺麗なデザイン……この蝶は?」 「モルフォ蝶だよ。大むかし南米にいたんだと」 「青い翅なんて珍しい。神秘的だね」 「モルフォインネスト……巣にかかった蝶なんて不吉な名前だろ?」 「どんな味がするの」 「ミントガム噛んだあとみてーにスース―する」 「へえ」 「メンソール喫ったことねえ?」 「煙草はあんまり得意じゃなくて……むかし喫ったことあるけど煙たくてダメだった」 「お子様舌なんだよ兄貴は」 「劉と話してるんだから黙ってろ」 ピジョンはしげしげと煙草の箱を見詰める。瑠璃の光沢帯びたモルフォ蝶の美しさに魅了されているようだ。 膝に手をおく中腰の姿勢であんまり熱心に観察するものだから、ちょっとだけ悪戯心が騒ぐ。 「喫ってみる?」 「いいの?」 返事が乗り気に弾む。箱を軽く振って口を向ければ、飛び出た一本をおそるおそる摘まみ、見よう見まねで唇の真ん中に挟む。 「やめとけまたむせるぞ」 「うるはいな、やっへみなはわからひゃいだろ」 「ニコチンタール多く巻いたのは初心者にゃキツいけどメンソールならイケんじゃね」 「食いしんぼはシガレットチョコ啄んでろ」 ライターを出し、オレンジに揺れる炎をピジョンに差し向け……軽やかにターンさせ、自分が咥えた方に点ける。 「ん」 ピジョンは一瞬当惑するも、正面から来る劉に促され、気恥ずかしそうな伏し目で火種を受け取る。 ウブい仕草がなかなかそそる……なんて、ろくでもないこと考えちまうのは呉哥哥の悪影響だきっと。 お互い澄まし顔を取り繕いシガレットキスを演じるも、睫毛の震えや瞳の揺れに慣れない素振りも露わなピジョンが微笑ましく、生温かい気持ちになる。 可愛げあるじゃんと流し目でスワローを挑発すれば、思った通り今にも引っぺがしたそうな形相でこちらを睨んでる。 ざまあみろ。 灰皿にされた仕返しだ。 至近距離に迫った顔が煙に乗じてまた離れ、ピジョンが吐き出したいのを堪える様子で深く吸い込む。 「ホントだ、ス―ッとする……後味が爽やかだ」 「だろ?」 「歯磨き粉とおんなじ味だ」 「そのたとえは萎えるな」 「おいピジョン」 「え?」 振り向いた拍子に兄が咥えた煙草をへし折ってはたき落とす。 「なにするんだ、せっかく劉がくれた煙草を……む―――――!?」 かわりに突っ込まれたのはシガレットチョコ。 「ちょっと、お代がまだだよ」 「コレで文句ねーだろ」 カウンターに紙幣を叩き置き、「釣りはいらねー」と傲慢に宣言。 「ほらやっぱりちょろまかしたじゃないか、目をはなすとすぐこれだ!」 老婆が経営する煙草屋では子供向けのシガレットチョコも販売していた。 それをくすねて兄の口にふたをしたスワローは、タンブルウィードの箱を握り潰さんばかりにいきりたち、煙で輪っかを作ってすっとぼける劉に詰め寄る。 「……見せ付けてくれんじゃん、えェ?」 「スマートな喫い方教えてやったんだ」 「誰に断って駄バトに芸仕込んでやがる」 「劉は悪くない、俺が頼んだんだ。そうカリカリするなよ、な?一口喫った程度で肺癌になりゃしないって」 ピジョンが慌てて劉を庇うが、弟の怒りの理由を完全に読み違えてる。 スワローは気がおさまらず劉に迫るが、その肩を逆に押し返し、横顔に煙を吹きかけて劉が囁く。 「俺を灰皿にしたこと、コイツにバラすぜ」 「……覚えてろよ劉」 スワローが舌打ちし、鈍感な兄の手を引く。 「用は済んだ。帰るぞ」 「ちょっ、待てよ」 蹴っ躓きながら後を追うも、シガレットチョコを大人しく頬張るあたり相当躾けられてると見た。ただ単に食い意地が張ってるだけかもしれない。 「やかましい連中だねえ」 「仲良く喧嘩すんのが生き甲斐なんだろ」 カウンターから首をだした老婆があきれて見送る傍ら、看板と標識で区切られた猥雑な空を見上げ、清々しい気分で煙草をふかす。 ごっこ遊びに夢中な道端のガキどもは知らないだろうが、ストレイ・スワローはおちょくると結構楽しいのだった。

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