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第一話「Wie heißt du?」

 「あ、あのさ! 名前……教えてくれる?」  人の少ない教室で、彼は震える声でそう言った。あまり使われることのない教室は、蛍光灯が半分切れていて薄暗いというのに、その子犬のような瞳は、何故かキラキラと輝いているように見えた。 「……僕、ですか?」 「そう! 名前……名前だけでいいから、知りたくて……」  やけにおどおどとしている彼は、顔を赤くしたまま、真っ直ぐにこちらを見つめていた。カスタードクリームのような明るい色の髪が、彼の動きにあわせて小さく跳ねる。 「……琴川(ことかわ)……、琴川夜鞠(よまり)です」 「よまりくん……よまりくん……」  彼は小さな声で、二度名前を繰り返した。慣れた様子で、夜鞠は再び口を開く。 「夜に鞠です」 「夜鞠くん……! すごい……すっごく綺麗な名前だね……」  彼があまりにキラキラした瞳でこちらを見つめるものだから、夜鞠は少し驚いて目を瞬かせた。空と雲の中間のような色をした瞳をゆらりと細めて、ありがとうと笑う。 「……お、俺ね、鈴介(りょうすけ)! 宮木(みやき)鈴介!」 「宮木くん……?」 「うん!」  鈴介は嬉しそうにぱっと笑った。夜鞠が、鈴介を見上げたまま首を少し傾げる。 「……用事ですか?」 「うん?」 「何か僕に用事かと思って。違いました?」 「あっ、えっと……名前聞きに来た……だけ……」  二人の間に、僅かに沈黙が流れる。 「……っあは、それだけ?」  夜鞠は、思わず吹き出すように笑った。鈴介の焦げ茶色の瞳がきらりと輝く。 「……ふふ、すみません。さっきからうろうろしてたから、何か大事な用事かと思って」 「ご、ごめんね、用事なくて……」  鈴介はやや目線を下げて、くつくつ笑う夜鞠を見つめた。灰色がかった青い瞳と、真面目臭く切りそろえられた短めの黒い髪。その隙間でキラキラ光っている銀のピアス。遠くからは見えなかった、目の下と、口の横の小さなほくろ。  鈴介は柔らかく微笑んだ。 「……かっこいい」 「えっ……」 「あーっ、みやみぃがいる!」  教室の外から聞こえてきた大きな声に、二人は顔を上げる。すぐに、鈴介がひらひらと右手を振った。廊下からこちらを見ているのは、夜鞠には見覚えのない、三人の男子学生だ。 「今から食堂行くけどお前も来ない?」 「……あー、ごめんね! 俺今日はだめ……」  鈴介の返事に、少しだけ残念そうな声が上がる。しかしそれはすぐに止み、教室は再び二人だけの世界になった。 「……みやみー?」  夜鞠が尋ねる。鈴介は照れたように頬をかいた。 「…………あんまり聞かないで」  はにかみながら俯いて、鈴介はそわそわと背中の後ろで手を組んだ。 「……夜鞠くんって、今日午後の授業……ある?」 「いいえ、ありません」 「ホントに!?」  鈴介は、バシンと机を叩いて身を乗り出し、キラキラ瞳を輝かせた。 「お茶しようよ、奢るよ!」 「……お茶ですか、僕と?」 「そ、そう! 俺、夜鞠くんのこと気になるから、一緒にご飯行ってほしくて……っ。あっ、ナンパじゃないよ、俺真剣に、君のことが知りた……くて……」  途中から恥ずかしくなってきた鈴介の言葉は、尻すぼみになってしまった。 「あ、あれ……、おれ、変なこと言ってる、ね……」  二人の間に、また少しの沈黙が流れる。恥ずかしくなった鈴介が、夜鞠から目を逸らそうとしたその瞬間、逸らされかけた鈴介の瞳は、再び彼に釘付けになった。 「……っ、ははは!」  夜鞠が口元に指を当てて、思いっきり笑った。鈴介は、驚いて何度も瞬きを繰り返す。 「……っはぁ。いいですね、ぜひお茶しましょう」  夜鞠の言葉に、鈴介はぱぁっと面を輝かせた。  二人は、大学近くのファミリーレストランへ入った。注文を先に終えた鈴介は、夜鞠が店員に注文している横顔を、じーっと見つめる。美しい濡鴉と、白い肌とのコントラストに惚れ惚れする。見惚れていた鈴介は、ほとんど無意識に、コップを持ち上げた。  注文を終えた夜鞠が鈴介を振り向くのと同時に、目があった。美しいパールグレー。その縁が、ほんのり青く輝いている。 「……宮木くん、危ないですよ」 「あっ、ごめん」  コップを持ったままぼんやり呆けていた鈴介の手をそっと支えて、夜鞠は笑う。鈴介はコップをテーブルに置くと、気恥ずかしそうにそわそわと体を動かした。 「……あ、あのさ、夜鞠くんって、なんであの講義受けてるの?」 「単位がギリギリだったので……。取りたかった講義が取れなくて……仕方なく」 「お、俺も! アレしか取れなかったよね……。……あっ、夜鞠くんがいつも退屈そうなのは、それが理由?」  夜鞠は瞬きを繰り返し、それから眉を下げて笑った。 「……僕、そんなに退屈そうでした?」 「うん。見るたび窓の外見てた」 「あ、はは……、見てる人は見てるものですね……」  からからとコップを緩く回しながら、夜鞠は苦笑する。鈴介は顔に笑みを浮かべたまま、机に肘を付いた。 「俺、興味なくて、ホントはあんな授業取りたくなかったけど……。でも、夜鞠くんと会えたから、それだけで得した気がするね」  夜鞠は少し驚いた顔をして、困惑したように笑った。 「……ありがとう。素直に嬉しいです」 「うん。すごく得した気分だよ」  鈴介が、にこっと笑った。  しばらくしてやってきた店員が、鈴介の前に唐揚げ定食を置く。それから、店員は、テーブルの上に次から次へ、ドカドカと皿を並べていった。驚いて、鈴介は夜鞠の顔を見る。次に、机いっぱいに並べられた料理に目を落とし、鈴介は心配そうに尋ねた。 「夜鞠くん、それ、量大丈夫? 食べられそう?」 「あ、はは……。よく意外だと言われるんですが……、僕、大食らいなんですよ」  夜鞠が苦笑を溢す。それを聞いて、鈴介はきらりと瞳を輝かせた。 「そ、それなら、あげる! いっぱい食べて!」 「え、え?」  ドサドサと夜鞠の皿に乗せられるからあげ。黄金色の衣と鈴介の顔を交互に見て、夜鞠は笑った。 「あはは! それじゃあ、宮木くんが食べるものがなくなってしまいますよ。……僕のハンバーグあげます。遠慮しないで」  夜鞠は箸でハンバーグを持ち上げると、鈴介の皿に載せた。 「でも、夜鞠くんが……」 「大丈夫。僕はちゃんと足りるように頼んでありますから」  ね、と夜鞠は笑う。鈴介はおとなしく、両手を机の端にちょこんと乗せた。  ハンバーグを鈴介の皿へ移し終えた夜鞠は、箸を持ったまま、手の甲で鈴介の鎖骨下辺りを服越しに撫でた。 「……痩せてしまいますよ。宮木くん、薄く見えるから、僕は心配です」  鈴介の心臓がドキリと跳ねる。軽く触れただけの夜鞠の手が胸元から離れたその瞬間、鈴介はどっと汗をかいた。 「は、わぅ……、夜鞠くんてかっこいいね……」 「……え? ん? ……? ありがとうございます……」  夜鞠は困惑しつつ、とりあえずといった感じで礼を述べた。鈴介は机に肘をつくと、ストローの先端近くをにぎにぎと潰しながら、はにかんだ。 「……俺、夜鞠くん大好きかも」  うっとりとした瞳で、惚けるように机上を眺め、鈴介はカラカラとストローを回す。夜鞠はおもむろに鈴介の前髪に手を伸ばし、それを彼の耳に掛けた。 「ありがとう、……鈴介くん」  鈴介は目を瞬かせ、頬を真っ赤に染め上げた。 「わ……、見ないで……。俺、まっかっかンなっちゃった……」 「……ごめんなさい、下の名前で呼んじゃ嫌でした?」  顔を手で覆いこんでしまった鈴介に、夜鞠が不安そうに声をかけると、彼は勢い良く顔を上げた。 「嫌じゃないよっ!」  鈴介は机を叩く勢いで立ち上がった。驚いた夜鞠が、その真っ赤な顔を凝視した。 「も、もっと呼んで……?」  鈴介は小さな声でそう呟く。赤い顔をまじまじ見つめて、夜鞠は息を吐いた。 「……っ、あっははは! ……はぁ、はい、分かりました。嫌でないのならよかった。……さ、冷める前にいただきましょうか、鈴介くん」 「……うん……」  鈴介は、嬉しそうに口元を緩ませ、すとんと椅子に座った。  鳥のさえずりが心地よい朝。講義室の中では、今日も数名の人間が、眠そうに机と戯れている。  鈴介は、一度、深く息を吸った。喉を震わせかけた息は、夜鞠の後ろ姿を真正面に捉えた瞬間、音になることなく、再び腹に戻ってしまった。もう一度、ゆっくりと息を吸い込む。 「お、おはよっ、夜鞠くん!」  夜鞠は肩をぴくりとさせて、すぐに振り返った。 「……おはよう、鈴介くん」  夜鞠がにこりと笑い返すと、鈴介は一気にぱぁっと明るい顔になる。その様子が、夜鞠には、まるで子犬のように見えた。  鈴介は、今日もなんとか挨拶を終えられたことにほっとした。何度やっても、コレには慣れない。夜鞠を前にすると、どういうわけか挨拶さえままならないのだ。  鈴介は、夜鞠の右隣の席に手を置いて、上半身ごと首を傾げた。 「……ここ、座っていい?」 「はい、もちろん」  鈴介は、ガタガタと音を立てながら夜鞠の横の席についた。鈴介とは学部の違う夜鞠の机の上には、鈴介の知らない課題が広げられている。一見してめんどくさそうな資料の山を見つめて、鈴介はため息を溢した。 「すごいねぇ」 「……課題は家でやるものですけどね」 「どこでだろうが、やればいいんだよ。えらいねぇ……」  夜鞠は壁にかけられた時計をちらりと見てから、課題と資料をまとめてバッグに詰めた。そろそろ、授業の準備をしたほうが良い時間だったからだ。  それに、今は課題なんかより、彼と話がしたかった。鈴介は、筆箱やノートをリュックから引っ張りだしながら喋りはじめる。 「……夜鞠くん、ソマリて猫、知ってる?」 「そまり?」 「うん、夜鞠くんにちょっとにてる……」  夜鞠は携帯に「ソマリ」と打ち込み、出てきた画像を見てくすくす笑った。 「そうかなぁ?」 「にてる」 「名前に引っ張られてるんじゃないですか? 僕、こんなかわいい生き物に例えられたことないですよ」 「……あっ、夜鞠くん赤いソマリ見てる。これ見て、灰色のソマリ。すごいでしょ」  夜鞠の目に、銀の毛並みをした、長毛の猫の写真が映った。 「……わ、かわいいですね!」  夜鞠は思わず呟いた。鈴介は嬉しそうににこにこ笑った。 「かわいいでしょ! かっこよくて綺麗でかわいくて、夜鞠くんみたい」  えっと小さく声を発して、夜鞠は鈴介を見る。鈴介は何でもない顔で、指をスライドさせ、それから身体をぐいと寄せてきた。 「……あっ、見て見て! この夜鞠ソマリくんにそっくりだよ!」  全て言い終わってから、鈴介は首を傾げた。 「……ん? ネコが……ヨマリ……?」 「ふ、ふふふ……」  混乱した鈴介は、頭の中で自分の言った言葉を復唱しようとした。しかし、おかしいことは分かるのに、どこがおかしかったか、よく分からない。 「……ふふ、はぁ。いいな、ソマリ。気に入りました。ありがとう、教えてくれて」  夜鞠は肩を震わせながらそう言った。 「にてたでしょ」 「いいえ、僕にはかわいすぎます」 「そうかなぁ」 「そうです」  鈴介は再び、そうかなぁと呟きながら携帯をいじっている。特に何にもしていないのに、身体は左右に揺れていた。 「……ふふ、鈴介くんは、ポメラニアンみたいですよね」  そう何気なく言った瞬間、勢い良く顔を上げた鈴介と目が合った。 「ポメ……」  複雑そうな顔をして、鈴介は口を閉ざした。 「……ポメラニアン、嫌でした?」 「嫌っていうか……それって、俺がちっちゃいからでしょ」 「違いますよ、動きが。飛んだり跳ねたり」  鈴介の頭の中で、ポメラニアンがくるくると駆け回る。変な顔をしていたら、急に、夜鞠の手が鈴介の首の後ろに伸びてきた。 「鈴介くんってかわいいなぁ、って」  夜鞠は何かを右手で摘むと、左手で軽く口をおさえてクスクスと笑った。 「どこを歩いてきたんですか?」  夜鞠の右手にあったのは、二枚の小さな葉っぱだった。鈴介は、少し恥ずかしくなって俯いた。 「…………ありがとう」 「いいえ」  鈴介は俯いたまま、椅子の上で身体を滑らせ、ずるずると机に吸われていった。 「…………ねぇねぇ、夜鞠くんって何歳?」 「20歳。今年で21歳の」 「俺もー」  不満げに呟いて、鈴介は口を尖らせる。かわいいな、と夜鞠は心の中で呟いてから、彼はそれが嫌なのだろうけれどと苦笑した。  つまらない授業をぼんやりと受け、やっとのことで昼休みになった。夜鞠が鈴介を昼食に誘おうかとしていたとき、高い声が静かな教室に響いた。 「……あーっ! みやみぃだ!」 「ホントだ、みやみー!」  教室の外から、女子学生が数名、ぶんぶん手を振っている。鈴介が控えめに手を振り返すと、彼女らは嬉しそうに顔を見合わせ飛び跳ねた。 「かわいーっ」 「まじかわいー」  やはり、誰から見ても、鈴介はかわいらしいようだ。顔が特別かわいらしいという印象はないが、動きや言動が、純粋で愛らしいのが理由だろう。  彼は満更でもないのか、変な形に口を曲げて頬を染めていた。 「あとで学食いこーよ!」  彼女らの提案を受け、鈴介は少し困ったように笑ってから、夜鞠と女子学生たちを交互に見た。なるほど、どちらを優先するべきか迷っているらしいと、夜鞠は気が付いた。すぐに、リュックを背負って立ち上がる。 「……それじゃ、僕はこれで」 「えっ、え!」  鈴介は、突然夜鞠の腕を掴んだ。驚いて、夜鞠は振り返る。 「待って、俺夜鞠くんがいい!」  鈴介がはっきりとした声でそう言った。 「わーっ! 失礼!」 「みやみぃさいてーっ」  女子学生たちは、「失礼」「最低」と言われ若干ショックを受けている鈴介をよそに、お互いの顔を見ながらケラケラ笑い合っている。 「……ごめんね」  しょげきった小さな声で鈴介がつぶやくと、彼女たちは一瞬ぽかんとして、それからまたケラケラ笑った。 「あはは! いいよいいよ、全然気にしてない! ごめんねいきなり誘って」 「じゃあまた今度ね、ばいばいみやみぃ」 「バイバーイ」 「……うん。またね」  鈴介は手を小さく振り返して、去っていく彼女らを見送ったあと、机の上に目を落とした。 「……なんかごめんね、夜鞠くん」 「謝ることないのに」  夜鞠は、鈴介の前の机に手をついて、少し屈むと、鈴介の瞳をのぞき込んで微笑んだ。 「……僕も鈴介くんがいい」  ゆったりとした口調とその言葉の淡い色に、思わず鈴介は息を呑んだ。まるでであるかのように、彼の瞳は真っ直ぐに鈴介を貫いていた。 「……一人よりも、ね」  夜鞠はからかうような笑みを浮かべて、椅子の背もたれに立ったまま寄りかかった。それから少しして、夜鞠は困った顔になり、口元を左手で覆い隠した。 「……伝染ります、それ」 「えっ、ど、どれ!?」  夜鞠はゆるりと目を伏せた。覆いきれていない頬が、赤く染まっていた。

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