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第二話「Weil ich dich mag」

 「…………ッ!! 夜鞠くんっ!!!」 「えっ?」  アルバイト中、聞き覚えのある声で名前を呼ばれ、夜鞠はぱっと顔を上げた。 「あっ、ああ! 鈴介くん! こんばんは」  鈴介が、いつも学校に持ってきているのと同じリュックを背負い、夜鞠の正面に立っていた。鈴介は、顔を右へ左へ振りながら、その場で小さく飛び跳ねた。 「コンビニ! 夜鞠く、えと……、ここ……ッ、コンビニ……!」 「ふふ、落ち着いてください、鈴介くん」  夜鞠は柔らかく微笑む。鈴介は、少し恥ずかしそうに笑ってから、商品を台に乗せた。甘いものがいくらかと、缶チューハイが五本並んでいる。 「あ、袋あるよぉ」 「はい、ありがとうございます」  鈴介はそわそわしながら、夜鞠と店内の様子を交互に見て、残念そうに俯いた。大人しく、何も言わずに財布を開く。 「……ふふ」 「ん?」 「いいえ、なんでもないです。君は本当に……」  夜鞠は言いかけた言葉を飲み込んだ。あまり何度も言えば、彼に変な気を使わせかねない。彼が自分をどんな目で見ているのかよく分からない内は、図に乗って攻めるような真似は無粋だ。  夜鞠は、鈴介の買った商品を精算しながら、ちらりと時計を見た。 「……僕もうすぐ終わるんですが……、その後で良ければお話しませんか?」 「する!」  鈴介は身を乗り出して、キラキラした目を夜鞠へ向けた。大袈裟なほど、嬉しそうにニコニコ笑う鈴介を見ていたら、夜鞠はなんだかくすぐったくなって、少しはにかんだ。 「じゃあ、向かいのお店で待っててください。すぐ来るので」 「いいよ、俺外で待つ!」 「今日結構暑いですよ」 「大丈夫!」  鈴介はお金を機械に流し入れて、レシートを受け取ると、商品を持ち、さっさとコンビニを出ていってしまった。もう六月も目前で、なかなかの気温だというのに、彼は構わず外へ出ていく。鈴介の後ろ姿を見つめながら、夜鞠は時間通りにレジを離れた。  仕事を終え、制服を脱いでコンビニから出ると、外はもう暗くなりかけていた。夜鞠はきょろきょろと辺りを見回す。鈴介は、駐車場の隅の車止めの上に座って携帯をいじっていた。 「……鈴介くん」  柔らかい夜鞠の声に、鈴介が勢い良く立ち上がる。主人が買い物から帰ってきたときの犬さながらの様子に、夜鞠はくすくす笑った。 「いいですよ座ってて。駐車場空いてますしね。待っててくれてありがとうございました」  夜鞠は鈴介の手に、冷たいペットボトルを握らせた。 「メロンソーダ!」 「お好きですよね?」 「うん! 貰っていいの?」 「はい」 「わーっ、ありがとう!」  鈴介はぱっと笑って、再び座り込むと、ペットボトルの蓋を開けて何口か飲んだ。炭酸が喉を震わせる感覚が心地よい。それをリュックに入れながら、鈴介は話し出す。 「知らなかったな、夜鞠くんがこのコンビニで働いてたなんて」 「はは、言ってませんからね」 「知ってたらもっとこっちに来たのに……」  鈴介は心底残念そうな声でそう呟く。焦げ茶の瞳が夜鞠を見上げた。 「ほら、やっぱりさ、学校の目の前にあるコンビニに行っちゃうでしょ? 俺ん家反対だし……。でも、俺は夜鞠くんにもっと会いたかったから……、知ってたら絶対こっち来たのにって」 「いいですよ、恥ずかしいですから、なんだか。制服が派手で、落ち着かないですし」  いつも通り、全身真っ黒な夜鞠を見つめて、鈴介は先程の、はっきりとした色の制服を着ていた夜鞠を思い出していた。 「……夜鞠くんはコンビニの制服でもかっこいいね」  呟いてすぐ、ハッとした鈴介は口を押さえた。 「……俺の目、ちょっと贔屓目かな」  真面目な顔で鈴介に見つめられ、夜鞠はくすくす笑った。 「…………そうかも。だって僕、あの色とても似合わないでしょ」 「そんなことないよ! 絶対ない! 似合ってたよ、夜鞠くん」 「褒められてるのかあんまり分からないですねそれ……」 「褒めてるんだよ! 夜鞠くんは何でも似合うね」  鈴介ははっきりとそう言う。夜鞠は、自分より、頭一つ分くらいは背が高い。手足が長く、スタイルも良い。服選びに苦戦する自分と違って、きっと何を着ても似合うはずだ。  にも関わらず、いくら思い出そうとしても、鈴介は、黒い服以外を着ている夜鞠を一向に思い出せずにいた。 「……夜鞠くんの服っていつも黒いね」 「……バレました?」 「うん」  夜鞠はへらっと恥ずかしそうに笑った。 「僕、服を選ぶの苦手なんです。あまり、こだわりもないですから。……鈴介くんはいつもおしゃれですね。今日も」 「これかっこいい?」 「うん、かっこいい」  鈴介は照れ笑いを浮かべて、服を掴んで、嬉しそうに立ち上がる。鈴介の髪がふわふわ揺れた。 「えへ、嬉しいな。この服、大好きになっちゃいそう」  思わず、ふっと小さく笑って、夜鞠は一歩鈴介に近づいた。鈴介の右頬に、右手をするりと滑らせる。手の甲が頬に触れ、鈴介はぴくりと跳ねた。その手は妙に熱く、目は不思議な色を孕んでいた。 「……駄目だな、本当……、かわいいですね、君は」  飲み込んだばかりの言葉を、すぐに口に出してしまった。それほどに、彼はなんだか心が惹かれる人間だ。ふわふわとした気持ちのまま、手の甲で軽く頬を撫で、夜鞠は笑った。 「……どうしたいの、僕を」 「……夜、鞠くん……?」  夜鞠の手の甲が、鈴介の頬から滑り、首に触れる。手は首を横切り、鈴介の左の肩を掴んだ。親指の腹が鎖骨を優しく、そしてはっきりと色を持って撫でる。 「……君はいつも真っ直ぐです。……まるで、僕を試しているみたい」 「た、試す……」  ぱちぱちと目を瞬かせ、鈴介は首を傾げた。 「……ごめんなさい。僕の妄想が行き過ぎたみたいです」  夜鞠は鈴介から手を離して、それから笑った。 「……どうも君といると、僕はよくない。すぐに過ぎた期待をしてしまいます」  鈴介は、一気に頬を赤らめた。跳ねる心臓を押さえつけて目をそらし、恥ずかしそうに口を開く。 「夜鞠くんて不思議だね……。なんか、俺の心の中が読めてて、俺をわざとドキドキさせてるみたい」 「あはは、ありえない! 君の心が読めるなら、僕はこんなにも下手なことばかりしませんよ」  夜鞠はくつくつ笑う。彼といると、何故だか、胸にすっと空気が通るような気がする。 「……かわいいなぁ、鈴介くんは」  夜鞠は、からかうように笑った。 「……! またついてる?」 「何も付いてませんよ、大丈夫」  首元を押さえていた鈴介は、くすぐったそうに笑う。甘酸っぱくて柔らかいこの時間から、早く抜け出したいようでいて、ずっとこのままでいたいような気もする。鈴介は夜鞠の服の袖口を引っ張った。 「…………ね、今度、服買いに行かない? 夏服……、少し安くなってきてるかも」 「いいですね、ぜひ行きましょう」 「いいの? やったぁ」  鈴介はぱっと顔を明るくした。ふわっと揺れるクリーム色の髪の毛が、まるで犬の尾のように思えて、夜鞠は笑った。 「……そろそろ帰りましょうか。夜道を歩くのは危ないですから」 「え、あ、……そう、だね」  鈴介は、名残惜しそうに夜鞠を見上げた。夜鞠は一度立ちどまる。 「よ、夜鞠くん……あの……」  緊張しているのか、鈴介はぎこちなく口を動かす。 「……えと、今日のご飯の予定……ある?」  彼は頬を赤く染め、小首をかしげて尋ねた。  「夜鞠くんってホントにたくさん食べるんだねぇ……」 「あ」  夜鞠が、箸を止めて固まった。 「……すみません、配慮がなくて」 「ううん、違うよ! 俺も食べてるよ」  鈴介は皿をほんの少し持ち上げて笑った。  食べ放題のつけられる焼肉チェーン店。ガヤガヤと喋り声の絶えない店内で、二人は網を囲んでいた。 「…………夜鞠くんの食べ方ね、大口なのに綺麗だから、不思議だなーって思って見てたんだぁ。俺ね、ハンバーガーとか上手に食べられないタイプなの。全部落ちちゃう」 「ああ……鈴介くんって一口が小さいから……」  夜鞠はそう呟いてから、ビビンバをスプーンですくって口に入れた。辛さが控えめで食べやすい。夜鞠はすぐに二口目を放り込んだ。 「鈴介くん、これ好きですか?」 「どれ?」 「ビビンバなんですけど、おいしかったから、好きなら食べてみてほしいなって」 「食べたい! いいの?」 「はい。鈴介くん、ご飯もの見てたのに頼まなかったから、もしかして、ちょっとだけが食べたいのかなって思って」 「うん! そう! そうなの!」  鈴介はおやつの袋を掲げられた子犬のような瞳をして、夜鞠から小皿に分けられたビビンバを両手で受け取った。 「ありがとう!」  鈴介はすぐに口にビビンバを入れる。夜鞠は、相変わらず小さな口だなと、頬杖をついて眺めていた。 「んーっ、おいしい! おいしいね、夜鞠くん」  にぱっと笑った鈴介を見て、夜鞠は微笑んだ。 「ご飯ものって、少し一杯の量が多いですもんね」 「そうなの……半分くらいでいいなぁ」 「他にそういう食べたいものがあるなら、遠慮なく僕を頼ってください」 「そしたら、夜鞠くん好きじゃないものたくさん食べなきゃいけなくなっちゃうよ?」 「あはは、僕嫌いな食べ物ありませんから。食べ物なら全部好きです」 「で、でも、俺、特別好きなもの食べてるときの夜鞠くんの顔が、かわいくて好きだから……」  はたと夜鞠は動きを止めて、鈴介を見た。夜鞠と目があった鈴介は、いつものようににこりと笑った。 「……ハラミ食べてたときの夜鞠くんが一番かわいかった。すごく嬉しそうにしてたよ。ハラミ好きでしょ?」 「……好き、ですけど……」  夜鞠の声は、少し狼狽えていた。 「…………君は……、授業中もですけど、本当に僕をよく見ていますね……」 「うん。好きだからね」  夜鞠は今度は動きを完全に止めて、その意味を咀嚼しようと努力した。固まってしまった夜鞠を見て、鈴介は、目を瞬かせてから、こてんと首を傾げる。 「…………あっ、……ちがう……」  今自分が大変なことを言ったと気がついた鈴介は、顔を赤くしてふいと逸らした。右手で顔を隠すようにして、鈴介は俯く。夜鞠は思わず、唾をのんだ。鈴介の頬に手を伸ばし、指が触れるか触れないかのところで、そっと止めた。 「……違うの?」  鈴介の瞳は、ゆっくりと動いて夜鞠を見る。 「…………ごめん、違わない」  夜鞠は、自分の心臓がドクンとはねた音を聞いた。鈴介の頬に触れる。鈴介は、一瞬驚いた顔をして、それからだんだんと困った顔になっていった。なぜか、鈴介の目が、夜鞠の顔と、網の上を行ったり来たりしている。 「……夜鞠くん、あのね……、あの……、肉……」 「……肉?」  夜鞠は、網の上に目を落とした。そこには、炭のように真っ黒になってしまった肉片があった。 「あっ、ごめん! 僕が食べます!」 「いっ、いいよ! ごめんなさいしよ、ね!」  鈴介は肉を拾い上げて、さっと別皿へ移していく。慌ただしく動いたおかげで、先程の空気感はいつの間にか流されていった。  店の外に出て、すっと空気を吸う。外は真っ暗になっていた。鈴介は腹を擦りながら、夜鞠の方へ近付いた。 「お肉おいしかったね」 「はい。……誘ってくれてありがとうございました」 「ううん! また行こうね」  一度ぱっと笑顔を浮かばせて、すぐに鈴介は、そろそろと目をそらした。 「……途中、変なこと言っちゃってごめんね」 「…………いえ」  夜鞠が首を振る。鈴介は、夜鞠をまっすぐ見つめ直すと、いつもよりもやや低めの声で言った。 「……でも、嘘は言ってないよ」  鈴介は呟く。ほんの少しの笑みを目元と口元に浮かばせて、鈴介は続けた。 「…………でも、今ね、俺楽しいんだ……。友達としての夜鞠くんといるの、すごく楽しい。……だから、この関係をどうにもしたくない」  変えたくない。それが、悪い方向でも良い方向でも、今は変えたくない。だって変えれば、この今の関係は、なくなってしまう。終わってしまうのだ。それは、鈴介にとって、あまりにも寂しく感じられた。  鈴介は、夜鞠の真正面に立つと、彼を見上げて首を傾げた。 「……まだ、このままで、俺といてくれる?」  夜鞠は、もちろんと言う代わりに微笑んだ。 「……僕も、今すぐ変えてしまうのは、何だかもったいないような気がします。君といるのは、僕も楽しい」  ぱぁっと、鈴介が笑顔になる。それを見て、夜鞠は手を口元に持ってきて、くすくす笑った。 「……Eile mit Weile(急いては事を仕損ずる)!……、今の僕たちにしかできないことが、たくさんあるはずですからね」 「あいれ、み……?」  夜鞠の人差し指が、鈴介の胸を服の上からなぞる。そのまま、夜鞠はみぞおちの下辺りまで指を滑らせた。 「…………それで、いつかは、君の深くを教えてくださいね」  鈴介は、瞬きをして、頬を赤らめる。それから口をへの字にさせて、なにやら微妙な顔をした。 「……夜鞠くんがかっこいいのと言いたいことの間で変な顔ンなっちゃった……」 「言いたいこと?」 「ううん、今はいらない話」  鈴介ははにかみ笑いを浮かべた。 「……じゃあ、またそのときに」  夜鞠の言葉に頷いて、鈴介はくるっとその場で一周回ってから帰り道の方向を向いた。 「…………じゃ、帰ろっか夜鞠くん。今度、絶対お買い物行こうね」 「あっ、鈴介くん! 忘れないうちに」  夜鞠は慌てて鈴介を呼び止めた。携帯を持ち上げて、少し振る。 「……連絡先、交換させてもらえませんか。……君と、もっと色んな話をしてみたい」  鈴介の顔が、ぱっと輝いた。 「うん! 俺も! 俺も夜鞠くんとたくさん話したい!」 「よかった」  鈴介は夜鞠の携帯に自分の携帯をかざしながら楽しそうに笑った。 「これで夜鞠くんとどこでもお話できるねぇ……あっ、アイコン犬だ! かわいい!」 「かわいいでしょう。実家で飼っていた犬です。『バオム』といいます」 「何の犬?」 「種類ですか? ヨークシャー・テリアです」 「へぇ! かわいいねぇ」  夜鞠は自分の携帯の画面を見る。球体で黄色い鈴の写真アイコンの下に、「みやみぃ」と表示されている。 「……そういえば、どうして皆にみやみぃと呼ばれているんですか?」 「……え? あ、えっとね……」  鈴介は照れ笑いを浮かべ、頬をかいた。 「学部の自己紹介のときに噛んじゃったんだ……。なんか、色んな人にすごいそれで覚えられちゃって……。それからずっとみやみぃ」 「あはは、緊張しますもんね」 「うん。俺あがり症だし」 「そうなんですか?」 「そう……。すごく赤くなりやすいから、それも嫌で……」  頬を赤くしたまま、鈴介は不満気に目を伏せた。 「かわいいと思いますけど」 「……やだ」  鈴介は舌っ足らずにそう言う。 「えっ、ごめんね、嫌でした?」 「……えとね、……やだっていうか……やなんだけど……。俺は、かわいいは嫌じゃないけど、これは違うもん。これはかわいいって言われてもうれしくない……」  彼にも、彼なりのプライドのようなものがあるらしいと、夜鞠は思った。おそらく、彼は自分のその特性が本当に嫌いなのだろう。尊重はしたいが、彼の赤くなった顔は本当にかわいいのだから、口が滑る分くらいは許してほしい。 「逆に、夜鞠くんはなんでそんなにいつも冷静なの?」 「僕は……、多分、ただ顔に出にくいんだと思います」 「いいなぁ! どうしたらいいの?」 「えっ、え? えっと……自分の意志でどうこうしてるわけじゃないので……。僕からは何も言えません」 「そっかぁ……」  団体客が車から降りてきて、二人のいる店に向かって歩いてくる。店の前にいた鈴介と夜鞠はあわてて道をあけた。 「……帰りましょうか」 「うん」  今日はよく見える星の話や、つまらない授業の話をしながら、二人は大学のそばまで戻って来た。二人の家は、大学からは反対方向にあるため、そこで解散となった。  別れ際に、夜鞠は鈴介に小さく手を振った。 「それじゃあ、また次の授業で会いましょう」 「うん! またね、夜鞠くん」  鈴介は、胸元で右手をひらひらと振り返して、彼に背を向けて歩き出した。しばらく歩いてから、鈴介は振り返り、彼の遠ざかる後ろ姿を見て、嬉しそうに笑った。

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