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第三話「Du bist Bösewicht」

 大学の門の前で、鈴介は前髪を引っ張りながら、ぱたぱたとかかとを上げ下げしていた。校門前の時計を確認して、それからまた携帯で時間を確認する。 「鈴介くん」  横から、低く柔らかい声がした。鈴介はすぐに声の方を振り向く。 「夜鞠くん!」  夜鞠の顔を見るなり、ぱっと明るい笑顔を浮かべた鈴介を見て、夜鞠は微笑んだ。 「早かったですね」 「うん。あのねぇ、楽しみで早く起きちゃったから、早く来たんだよ」 「……ふふ、じゃあ、僕も家で待たずに早く来ればよかったかな」  鈴介は首を傾げた。 「夜鞠くんも早起きしちゃった?」 「……うん。僕、朝は苦手なんですけど、何故か」  苦笑いを浮かべる夜鞠の言葉を受けて、鈴介は、口をにゅっと歪ませて、変な顔で笑った。 「へへ、ちょっとうれしい」  今日は直射日光が厳しい。夜鞠は空を見上げて、眉をひそめた。 「……でも、着いてたなら言ってくれれば……」 「すごい早い時間に、着いたよって連絡したら、急かしてるみたいかなって思って……。今度は、ちゃんと時間通りに来るように頑張るから」 「ふふ、頑張ってくださいね。暑くなってきましたから」  夜鞠は彼に諭すような声音でそう言った。  鈴介と夜鞠は、大学を離れ、ショッピングモールへ向かった。 「誰かと買い物に行くの、久しぶりな気がします」 「そうなの? でも、俺もゴールデンウィーク以来かも」  鈴介は夜鞠の少し前を歩いている。夜鞠の言葉に返答するときだけ、彼はこちらを振り向いて見上げる。夜鞠はその鈴介の動きがなんだか気に入って、わざと彼のやや後ろを歩いた。  ショッピングモールに着くと、鈴介は少し歩くスピードが遅くなった。きょろきょろと辺りを見回して、楽しそうにしている。あちらこちらで、店員の声が響いていた。 「夜鞠くん何がほしい?」 「……何が……?」  夜鞠は首を傾げる。 「うん、Tシャツが欲しいとか薄手の上着が欲しいとか。あとは、このブランドがいいとか……」  鈴介は、何も言わない夜鞠を振り返って、苦笑した。 「…………ない?」 「ごめん。本当に、服を買いになんて来ないものですから……」  服に対し、特にこだわりがない夜鞠にとって、服はただの生活必需品にすぎない。着ろと言われているから着ている、くらいの感覚だ。  少しの間、鈴介は顎に指を当てて考える素振りを見せ、それから顔を上げて笑った。 「……じゃあ、俺が好きなとこから見てみようよ!」  鈴介に引っぱられるようにして、夜鞠は店へ向かった。  「……夜鞠くんって何でも似合う……かっこいい……」 「…………ありがとう……」  夜鞠は苦笑する。買い物が始まってから、これで何百回目だろう。言われ慣れない言葉に、夜鞠はむず痒くなって首を掻いた。  服を代わる代わる夜鞠の身体に当てながら、鈴介は跳ねるように言葉をかける。 「あっ、これ! これ着てみて! 俺じゃ着らんないけど、夜鞠くんなら絶対かっこいいから!」  きらきらと目を輝かせている鈴介の横顔に頭を近づけて、夜鞠は呟く。 「………鈴介くん、楽しい?」 「うん!」  それなら、まぁいいか。そんなことをぼんやり思いながら、夜鞠は明るい色の服と共に試着室へ向かう。落ち着かない空間に困惑しつつ、先程鈴介に渡された服をハンガーから取る。  着替えを終え、いつもは絶対に選ばないような服を着ている自分を、夜鞠は鏡越しにまじまじ見つめた。鉛色の瞳と、目が合う。 「思い上がらないで。君は大したものじゃない」  夜鞠は小さな声で呟いた。  試着室から出てきた夜鞠を見て、鈴介はぱっと顔を明るくした。 「……!! かっこいい!! これ、俺これが一番好き!」  尻尾の幻覚まで見えそうなくらい興奮して、彼は夜鞠に詰め寄った。 「ふふ、本当に? 君はどれも褒めてくれるから、逆に心配になってきましたよ」 「全部かっこいいんだもん、仕方ないよ。…………でも、本当にこれが一番かっこいいよ」  鈴介は夜鞠を見上げてにこりと笑った。 「じゃあ、これにします」 「ほんと!?」  夜鞠は鏡を振り返る。彼がそう言うならというのもなくはないが、単純に、この服がしっくりきたのだ。 「いつでもこの服の夜鞠くんが見られるね! 嬉しいなぁ」  満足そうに夜鞠を眺めていた鈴介だったが、何があったのか突然動きを止めて、苦笑をこぼした。 「……でも、こんなにかっこいい夜鞠くんを、他の皆も見るって思ったら、少し複雑だね」  夜鞠は一つ瞬く。彼が時折見せるその瞳の色は、夜鞠の心を震わせる。慣れない動きで。 「…………鈴介くんだけの僕にしてみますか?」  夜鞠は真っ直ぐに鈴介を見つめて尋ねる。鈴介の顔がかっと赤くなった。 「…………ま、だいい……」 「あはは、かわいい」  夜鞠はけらけら笑った。鈴介は目を逸らして口を尖らせる。 「……すぐそれだぁ。夜鞠くんは俺のことかわいいってしか言わない。……そんなことないのに」 「……だって、実際かわいいですから。これがそんなことないのなら、君には、もっとかわいいところがあるの?」  いたずらごころが囁いて、鈴介の頬に、夜鞠は手を伸ばす。 「それは、見てみたいですね……」  しかし、からかおうと伸ばしたその手は、突然鈴介に捕まり、彼の方へ引っ張られた。夜鞠が、何が起こったのかを理解しようと状況を整理している内に、鈴介は、その腕に、頭をすり寄せて笑った。 「……からかいすぎ」  その、いたずらっぽい笑みに、夜鞠は目を奪われた。頬を赤らめて、彼はこちらを窘めるように笑う。  意識が疎かになっていた夜鞠の手の、指と指の隙間を、鈴介の細い指が滑る。骨ばった箇所を楽しむかのように、鈴介の指はもう一度指の中ほどまで戻ってきて留まる。夜鞠は、鈴介の突然の行動に驚いて固まった。 「……ふは、夜鞠くんは悪い人だ」  金の髪は夜鞠の腕を滑る。鈴介は、困っちゃうねぇと柔らかく笑った。彼が突然、知らない男になったかのように、夜鞠には感じられた。  ……悪いのはどっちだ。  魔性の天使とでも名乗るべきだと、夜鞠は心の中で呟いた。跳ねる心臓を押さえつけるように、右手で自分の胸をぎゅっと掴んだ。  どこぞの風景のモノクロ写真がプリントされたTシャツを、ぼんやり見つめる。これは、イギリスだろうか。夜鞠は瞬きを繰り返して、Tシャツを親指で擦る。 「夜鞠くん?」 「わっ……」  呼びかけられた夜鞠は、自分の顔のすぐ近くにあった鈴介の顔に驚いて声を上げた。一瞬ドキリとする。 「疲れた? 大丈夫?」 「へ、平気です……」 「ほんと?」  すぐに心臓も落ち着いた夜鞠は、鈴介の心配そうな目を見て微笑んだ。 「……本当。少しぼーっとしてただけです」 「それならよかった」  鈴介は呟いてから、店の中に展示してあったキャンプグッズをちらっと振り返る。先程から、彼は何度もキャンプグッズに目を向けている。夜鞠は不思議そうに尋ねた。 「鈴介くんは、何か買わなくていいんですか?」 「うん。ビビッときたものがなかったからね」  なかなか難しいんだよぉと自分の背の低さを嘆きながら、鈴介はテントの値段を見てギョッとしていた。店を出て、二人は、今度はアクセサリーショップを覗く。 「夜鞠くんはいいの? 結局、夜鞠くんが欲しいって言った服なかったけど」 「うん。僕は服には、あまりこだわりもないから……」  夜鞠は、手にとった売り物のピアスを眺めながら呟いた。 「……興味なかった?」 「うーん、そういうわけでも。服より、君とショッピングをしたことが、僕にとって嬉しいんです」 「……そっか」  鈴介はへらっと笑った。夜鞠は、棚からひとつピアスを取って、鈴介に向かって掲げた。 「……合いそう、鈴介くんの髪色と」 「そう?」 「うん。……ピアスはあけないんですか?」 「……痛いのむりだもん……」 「あはは、それっぽいなぁ……」  夜鞠はピアスを棚に戻すと、そのままゆっくり店を出た。夜鞠を追いかけるように鈴介も店を出る。 「いらないの?」 「うん。今日はお金を使い過ぎかなって」 「……ごめん、押し付けすぎた?」 「ふは、ううん。君といるとわかりづらいでしょうけど……、僕、人に流されにくいタイプです。僕が必要だと思ったものしか買っていませんから、大丈夫ですよ」  夜鞠は鈴介から目を逸らして、前を向く。 「……でも、今日は君のおかげで少し服に興味が出ました。……どんな服が流行りなのかなって、見て歩くのもすごくいい」 「……! うん! そうでしょ」  鈴介は心底嬉しそうに、にこにこと笑いながら、上機嫌で夜鞠の少し前を歩く。 「それに、僕は単純だから、今度は自分一人で新しい服を見に行きたくなってきました」 「一人で?」 「うん。僕の選んだ服を、君が褒めてくれたら、きっと、もっと嬉しいでしょう?」  いつものからかいかと思い、身構えて振り返った鈴介は、夜鞠がきょとんとしているのを見て、尚更恥ずかしくなった。鈴介が無言でいると、夜鞠はすぐに苦笑をこぼした。 「……まあ、僕には知識もセンスもないから……、褒めてくれるのはずっと先だろうけど」  鈴介は、柔らかく微笑み、心の底から安堵した。 「……夜鞠くんが楽しんでくれたなら、よかった」  鈴介は、夜鞠の横に並んで、下から彼を見上げた。 「ねえ、夜鞠くんは何が好きなの? 俺、夜鞠くんが好きなもの、一緒にやりたいな」 「……僕の好きなものですか」  夜鞠は考える。少し間をおいて、夜鞠は笑った。 「…………鈴介くんが好きだとは、思えないけど」  鈴介はこてんと首を傾げた。

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