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第四話「Das Geheimnis」
彼にとっては馴染み深いバーカウンターで、夜鞠は一人、酒を飲んでいた。店主に、新作のカクテルを試飲させてもらい、満足げに頷く。
「へえ、おいしいですね、甘くて」
「度数も低めなので、女性向けにと思いまして。どう思います?」
「はは、僕に聞かれても」
「琴川さんは甘いものも好きでしょう。参考に」
その時、扉が開く音がして、少し遅れてカランカランとベルが鳴った。
「夜鞠くん!」
呼びかけられて、カウンターに座っていた夜鞠は振り返る。鈴介が、扉を閉め、早足にこちらへ寄ってきた。いつもとは違い、暗い色の服を着ている鈴介を見て、こんな服も着るのかと感心した。
「夜鞠くん、こんなところ知ってたんだねぇ。さっきね、その辺りでお姉さんに話しかけられちゃったんだ。ちょっとびっくりしちゃった」
「大丈夫でした? ごめん、迎えに行けば良かったかな……」
「ううん、大丈夫だよ」
鈴介は促されるままに夜鞠の隣に座ると、酒の瓶やグラスの並ぶ棚を右から左へじっくり見つめたあと、夜鞠に目線を戻した。黒地に紺のストライプのシャツが、机についた肘からピンと張っている、その直線でさえ美しく見える。長時間見つめられた夜鞠は、さすがに変に思い首を傾げた。
「どうかしました?」
「……夜鞠くん、こういうお店がよく似合うね」
「あはは、それは、僕を褒めてくれてるのかな?」
「うん。……夜鞠くんが、知らない大人のひとになっちゃったみたい」
鈴介はなんだか少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「……琴川さん、そちらが?」
店主が、カウンターを挟んで夜鞠に話しかけてきた。夜鞠は肘をついたまま、にこりと笑う。
「鈴介くんです」
鈴介はさっと立ち上がり、頭を下げた。
「は、はじめまして! 俺、鈴介です!」
「おや、お行儀がいいようですね。私はここの店主です」
鈴介は、再び椅子に座ると、もう一度ぺこりと軽く頭を下げる。店主は、少し微笑んでお辞儀を返した。
「鈴介くん、お酒飲めますか?」
「うん! 俺お酒好きだよ」
「そうなんですか?」
夜鞠は驚いた顔をした。
「何がいいとか、ありますか?」
「え、えと、分かんない……」
「じゃあマスター、新作を彼にもお願いします」
夜鞠の注文に、店主は頷いた。手早くカクテルを作り上げてから、彼はゆっくり口を開く。
「……珍しいですね、琴川さんがお友達なんて」
その言葉に、夜鞠は目を瞬かせて、意味ありげに笑った。
「ふふ、友人……友人ですね」
店主は顔を上げる。
「……ただの友人ではないですよ、彼は」
夜鞠の隣で、店主からグラスを受け取った鈴介がびくりと跳ねる。グラスの縁に口をつけて、鈴介は目をそらした。夜鞠はくつくつと楽しそうに笑う。
今日は客が少ないようで、店には二人と、数名の客が隅の席にいるだけだった。店主は、グラスの手入れをしながら、夜鞠に話しかけた。
「……今日は随分上機嫌ですね、琴川さん」
「っはは、そうですね……。鈴介くんをここに呼んでから、少し飲みすぎてしまったかもしれません」
「そうなの?」
夜鞠は小さく頷いた。
「……楽しみで待ちきれなくなってしまったんです。君はこんなところにはきっと慣れていないだろうなって、君がお酒をどんなふうに飲むのかなって思ったら、ドキドキしてきて」
夜鞠は机に肘をつき、机の上に半身を雪崩れさせる。鈴介を見上げるようにして、夜鞠はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「……君をこんな悪いところへ連れてきたのは、きっと僕がはじめてだろうなあって」
その、今までになく柔らかい表情に、鈴介はどきりとする。
「悪い……ところ……」
普段より心なしかユルい夜鞠に思考回路を奪われていた鈴介は、ほとんど無意識に気になった言葉を小さな声で復唱した。
悪いところ、とは一体どういうところのことを言っているのか。頭の中でいろいろな憶測と妄想が飛び交い、鈴介は固まった。
夜鞠と鈴介の様子を見て、店主がくすくす笑う。
「……失礼だ、琴川さんは」
「ふふ。鈴介くん、大丈夫。変なお店じゃないですよ。ただの、普通のバーです」
鈴介は、ほっと胸を撫で下ろした。頭の中では、既に、知らない人の連帯保証人欄に名前を書かされるところまでストーリーが展開されていた。
夜鞠は、酒のグラスに目を落として、おもむろに話し始めた。
「……僕はね、高校生の時からここに通っているんです」
「えっ」
「お酒を飲みにじゃありませんよ。……日本語の勉強をしに」
日本語? と鈴介が首を傾げる。夜鞠はこくりと頷いた。
「……僕、生まれたのが日本じゃないんです。中学の途中まで、オーストリアにいました」
「えっ、そうなの!?」
鈴介は驚きのあまり、ガタンと机に足をぶつけて、きゃぅ、と子犬よろしく鳴いて膝を抱える。夜鞠が鈴介の背と足にそっと手を置いて、大丈夫かと尋ねると、彼は顔を真っ赤にして頷いた。
「じゃあ、夜鞠くんって外国語話せるの?」
「そうですね……、むしろ、ドイツ語のほうが、日本語より話しやすいくらいです。……父はドイツ語を使っていましたし、周りもみんなドイツ語でしたから、当たり前なんですが。母はいつも英語と日本語を使い分けていましたから、それもそれなりに。……どれも日常会話が問題ないくらいの会話力でしたけど、やっぱり、うまくいかないこともあって」
夜鞠は、真剣に話を聞いている鈴介を見て、へらっと笑う。
「ほら、僕の日本語って……硬いでしょう?」
「硬いっていうか……敬語だね」
「これ、父や母が、『どこへ行っても恥ずかしくないように、ちゃんとした言葉を使うべきです』って、すごく堅苦しい言葉遣いだけを家で使っていたせいなんです。もちろん、日本語と同じように、ドイツ語や英語も硬いんですよ。例えるなら、ニュースみたいな感じですね」
夜鞠は控えめな笑みを浮かべた。
「とっつきにくいでしょう。でも、ここに来る前はもっと酷かったんです。機械的……っていうのかな」
鈴介は、想像つかないなと首をひねった。夜鞠の敬語は確かに敬語には違いないのだが、そこまでの堅苦しさや圧迫感はない。
「マスターは、僕の日本語の先生です」
夜鞠は微笑んでから、グラスを一気に空にした。店主は、勝手に夜鞠のグラスを取り上げて、新しいカクテルを机に出した。当たり前のような顔をして、夜鞠はそれを受け取る。
「……琴川さんに教えることなんてほとんどありませんでしたよ。元からお上手でしたから」
「そんなことないですよ。マスターの言葉は難しいものが多いから、勉強になります」
店主は笑った。夜鞠は机の上で手を組んで俯く。
「……でも一番は、やっぱり僕は、居場所が欲しかったんだと思います」
夜鞠の灰色の瞳は揺らめき、バーの優しい照明の光を受けてきらきらと光っている。
「……だから、鈴介くんが僕を側においてくれて、とても嬉しいです」
鈴介は小さく首を振る。
「…………ううん、俺が好きで夜鞠くんといるの」
鈴介は、グラスを唇に当てて傾ける。その様子は、照れ隠しのようにも見えた。
「……初めて見たときね……黒髪の……真面目そうな人だなぁって思ってたの。すごい好きな顔だなーっても思ったけど」
机の上に置いたグラスを両手で握って、鈴介は足をふらふらさせる。
「俺、授業眠くなっちゃってさ、周り見回したんだ。そしたら、すごい隅っこの席で、君が死ぬほど暇そうに窓の外見てたの。だからね、見ててもバレないだろうなと思って、やっぱり好きな顔だなーって、じーって見てたんだ。そしたらね、風が吹き込んできたときに……『あ、あの子ピアス開けてる!』って気付いたんだぁ」
夜鞠は自分の右耳のピアスを触る。鈴介は、けらけらと笑いながら話を続けた。
「びっくりしたんだ、本当に真面目そうに見えたから。そっから俺もう、ドキドキしちゃってね。…………なんか、あの子の見ちゃいけないもの見ちゃったみたいな、変な気持ちになって、変なこと考えたりしてね」
「……変な……ねぇ」
夜鞠が妙な顔をして、それから苦笑を浮かべる。鈴介は首を傾げていたが、何に気がついたのか、突然ボンと顔を赤くした。
「……えっ!? ちが、ちがうの! 違う! 変なって、そんな、そ、そういう、変なきもちじゃなくて……っ」
「っ、はは……! そんなことまでは言ってませんよ僕は」
「そ、想像……っていうか、願望……ほとんど妄想みたいなことで……っ」
鈴介はあわあわと口を滑らせる。夜鞠は思わず吹き出した。
「ふは、妄想ですか。……それってどんな妄想ですか? 聞きたいです」
「お、教えない!」
「ええ、残念ですね……」
夜鞠は鈴介に詰め寄って、ふっと笑った。
「ね、僕に教えてください。知りたいです」
両手で顔を隠して、鈴介は俯く。
「……ぇぅ、ゆるして……」
「ふ、ふふ。……あぁ、かわいいな……」
夜鞠は微笑んで、椅子に座り直した。鈴介は俯いたまま、不満そうな顔をする。
「……夜鞠くんって酷いんだ、俺のこと面白がってる」
「面白がってるわけじゃありませんよ」
「……駄目なんだ。そんなふうにされたら、俺どうしたらいいか分かんないもん……」
鈴介は小さな声で呟いて、きゅっと拳を握りしめた。
「ふふふ……。はぁ、満足です。僕少しお手洗いに」
夜鞠は立ち上がる。その後ろ姿が見えなくなるまでじっと見つめてから、鈴介はグラスに口をつけて、ぐいと上げる。
「……マスターさん、お酒、できるだけ強いのください」
「えっ、はい」
「できれば……夜鞠くんが度数知らないやつがいいです……」
店主からグラスを受け取った鈴介は、人差し指を口元に当てて笑った。
「……夜鞠くんに内緒ね」
グラスに口をつけ、鈴介は酒が喉を焼く感覚を楽しんだ。
夜鞠が、たどたどしい動きでドアのカギを挿す。心配そうに、鈴介は彼の顔を覗いた。瞳がゆらゆら揺れていて、眠そうに見える。
「……開けよっか?」
「はは、流石にそこまでじゃありませんよ……」
やっとのことで扉が開き、鈴介はひとつ息を付いた。夜鞠は玄関に座り込み、ゆっくりと靴を脱ぐ。
「……夜鞠くん、大丈夫?」
「うん……」
「……ごめんね……そんなに酔わすつもりなかったんだけど……」
振り返ってみれば、夜鞠は、鈴介のペースに相当呑まれていたように思う。普段のことは知らないが、鈴介が今まで見てきた鈴介自身以外の人間の中では、確実に一番早いペースで酒を飲んでいた。更に、彼は途中から、酒まで鈴介と同じものに変えた。
「……ううん、大丈夫です。……っはは、だめですね、いつもはこんなに酔わないんですが」
目を擦りながら、夜鞠は玄関に上がって、壁を背にして座り込んだ。ゆっくり上を向いて、夜鞠は苦笑する。
「……鈴介くん、もしかして相当強いお酒を飲んでましたね……?」
「……飲んでないよ」
「あはは、知らなかったな……、君がそんなにお酒が強いなんて……。僕もそれなりに強いつもりでしたけど」
鈴介はバツが悪そうに目をそらす。最初から、自分は酒が強いから合わせないでくれと言っておけばよかったかもしれない。しかし、そんなことを言ったって誰も信じてはくれないとも知っている。
それに、おそらく、彼が求めている自分像はこれではないとも感じていた。
「知ってたら君と同じものなんて飲まないですよ……、カッコつかないでしょ?」
夜鞠は白い壁にもたれる。満足そうにくつくつ笑いながら、彼は目を閉じた。
「君といるとなーんにも上手くいきません……なんでかなぁ」
今まで、こんな形でおあずけを食らったことはない。手を伸ばせば確かに手に入るはずなのに、彼の存在は、夜鞠に、手を伸ばすことを無粋だと思わせる。純粋で清らかな関係性。そんなことだから、こちらが不必要に焦らされるのだ。
目が緩やかに開いて、グレーの瞳が青く輝く。その上に、長いまつげが伏せられた。
「でも、それでいい気もするんです」
夜鞠は大きく伸びをして、それから目を閉じた。
「上手くカッコつかなくても、君は僕を受け入れてくれる気がするし、僕もこの時間を気取らず……気張らず、か。気張らず楽しめている気がします」
鈴介は、靴を脱ぐと、玄関に上がってゆっくりと夜鞠の斜め前に座った。一向に目を開けようとしない夜鞠に、鈴介は心配そうに声をかける。
「……夜鞠くん、ピアス取ったら? 危ないよ」
「…………うーん、すごく眠いのでいいです。大丈夫ですよ」
「だめだよ、危ないよ」
「大丈夫ですよ。めったに怪我しませんから」
などと戯言を言いつつ、起き上がる準備をしていた夜鞠が目を開くと、目の前で、鈴介が微笑んでいた。まるで、弟のわがままをきいてやっている兄のような顔。慈愛を含んだ瞳。……まさか、泥酔していると思われているのだろうか?
夜鞠はなんだか面白くなくなって、突然鈴介の手を掴んで引っ張った。
「……じゃあ、鈴介くんがやってください」
普段なら、絶対にこんなことは言わない。普段なら、絶対に、同じ条件でも、もっと上手にからかってみせる。しかし、今は、なんだか何も気にならない。とにかく、彼よりもせめて一枚上手でありたいと、そればかりが頭を支配する。
「酔っ払いがやったら傷つけちゃうかもしれないでしょう?」
鈴介は目を見開いて、それからはわはわと慌てだした。夜鞠は、鈴介の手を離さない。酔いのせいで、自分の行動が自分でよく分からなかった。
「お、俺……ピアスわかんない……」
「これは後ろ外すだけです」
鈴介は緊張した面持ちで、左手をその場で少しだけ持ち上げる。
「……さ、触っても痛くない?」
「あはは! 大丈夫ですよ、心配しないでください」
鈴介は、一度こくりと唾を飲み下してから、左手を夜鞠の頬まで伸ばしてきた。親指がほんの少し頬を掠める。鈴介が過剰に反応するものだから、夜鞠もなんだかジリジリと心臓が痺れた。
「……触るよ」
緊張からか、いつもよりやや低い声が、脳を揺らす。
ああ、これは失敗だったかもしれないと、夜鞠は心の中で呟いた。やはり、彼の前ではどうしようもない。耳におずおずと触れる指が、あまりにくすぐったかった。
「……とれた? これ、ちゃんと取れてるかな?」
鈴介は手のひらに銀色のピアスを一つ乗せて、夜鞠に見せた。彼の焦げ茶色の瞳と、思っていたよりもしっかりとした手のひらに、なんだか心が乱された。
「……うん、大丈夫ですよ。ありがとう」
夜鞠が手を離すと、鈴介はその場に小さくなった。夜鞠はおもむろに立ち上がり、ぐっと伸びをする。
「……はぁ。さて、風呂を沸かしましょうか……」
「えっ、入るの? すごい眠たいから寝ちゃうんじゃないの?」
「……入りますよ、もちろん」
夜鞠は苦笑する。
「風呂にも入るし歯磨きもちゃんとします。……僕、別に介護が必要なほどは酔っ払ってないんですよ」
「でも、ピアス……」
夜鞠はふっと笑う。その笑顔を見て、鈴介は恥ずかしくなって俯いた。
「……早く言ってよ」
「早く言ったら、君がすぐ帰っちゃうでしょう」
夜鞠はくすくすと、楽しそうに笑った。
「……あ、そうだ、鈴介くん。来月のはじめに、父がオーストリアからワインを送ってくれる予定なんです」
夜鞠は普段よりも明らかに柔らかく、揶揄うような笑みを浮かべた。
「……どうですか。僕の家で、朝まで」
鈴介は目を逸らして呟いた。
「……ちょっと酔ってる夜鞠くんとずっと一緒にいたら、ドキドキさせられすぎて死ぬかもしれないから……か、考えとく……」
前向きに、と付け足して、鈴介は夜鞠を見上げる。夜鞠は嬉しそうに笑った。
「……ふふ……ぜひ、考えといて」
夜鞠は、鈴介の頬を、人差し指で優しく撫でた。
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