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第五話「Ich habe…」
蛍光灯の切れかけた、相変わらず薄暗い教室。窓の外では、ざあざあと雨が降っている。
「うー、頭痛いー」
鈴介が、頭をおさえて唸る。夜鞠は心配そうに、鈴介の顔を覗き込んだ。
「偏頭痛ですか? 大丈夫?」
「大丈夫くない……。えぇう……雨やだなぁ……」
「薬飲みますか? これ、お店で売ってる薬なので」
「だ、大丈夫だよ」
鈴介は首を振ることもせず、手を軽く上げるだけで夜鞠を制止した。こめかみをおさえながら、ふっと小さく微笑む。
「……夜鞠くんも頭痛持ちなの?」
「はい。でも、今は痛み止めを飲んでいるので平気です」
「……大丈夫?」
「もちろん。……今は君のほうが心配です」
夜鞠は鈴介の頭をそっと撫でる。その手に、鈴介は擦り寄った。
「……痛い」
夜鞠は、一瞬驚いて固まったが、すぐにいつもの調子を取り戻して、鈴介の頭から手を離した。リュックの中から、小さなポーチを取り出す。
「やっぱり薬飲んでください。今から授業だし、多分つらいですよ」
「…………うん。じゃあ……そうする。ありがとう」
鈴介は夜鞠から薬を受け取って、それを飲んだ。
「うぅ……俺雨嫌い……梅雨嫌い……」
「ふふ、来たとき雨でビシャビシャだったから、はしゃいじゃったのかと思いました」
「流石にそんなことない……」
鈴介は、前から回されてきたプリントを受け取って、一枚を夜鞠に手渡す。プリントにざっと目を通したところ、今日はなにやら小レポートを提出しなくてはならないらしい。普段はプリントなど一枚も配らないくせに、と思いつつ、プリントの左端に、鈴介は自分の名前を書き記した。
「えっ」
「え?」
突然夜鞠が声を上げたことに驚いて、鈴介はすぐに反応を返す。夜鞠が、はっとして口元に手を触れた。
「……あ、いや……そうだったんですね」
「なに?」
鈴介が首を傾げる。夜鞠は、少し言いづらそうに口を開いた。
「鈴介くんって、漢字……鈴だったんだと思って……」
「……え……っ!? 今まで知らなかったの……?」
「ご、ごめんね、知らなかったです」
「あはは、面白いねぇ」
鈴介は、頭痛が気になって、いつもより控えめに笑った。このような授業形式では、確かに、他人の名前を見る機会などまずない。しかし、ここまで一緒にいて、まさか一度も彼に漢字を教えていなかったとは。
「だから君のSNSのアイコンが鈴なんですね」
「あ、アレは姉ちゃんたちとお揃いで買った鈴……これ」
鈴介は、リュックについていた小さな鈴をひっぱって夜鞠に見せた。黄色い紐がついた、可愛らしい金の鈴だ。表面には、花の模様がついている。
「俺ねぇ、姉ちゃんがいて……、鈴 って名前なんだよね」
鈴介は、鈴を手で弄りながら、楽しそうに話し始める。
「で、兄ちゃんが鈴太郎 で、その次が俺」
「なるほど……じゃあ三人兄弟なんですね」
「……そうだけど……、俺の下にまだいるかもしれないって可能性はゼロ?」
「あっはは、だって鈴介くんは末っ子でしょう」
鈴介は、馬鹿にされたーと納得していないような顔で呟いた。夜鞠は、そんな彼を優しい瞳で見つめて、ふっと微笑む。
「……可愛がられたでしょう」
「ええ!? あの人たちは俺のこといいように使える奴隷だとしか思ってないよ!」
鈴介は、ありえないと言いたげに夜鞠を見る。しかし、その顔は、どこか楽しそうだった。
「……君はかわいがられ方を分かっている人だから、きっとお姉さんたちが、君をかわいがっていたんだろうなって」
夜鞠が呟くと、鈴介は夜鞠に身体を寄せて、にこっと笑った。
「甘え上手でしょー」
「……本当に。困っちゃうくらい」
夜鞠は眉を下げてくすくす笑った。鈴介は夜鞠から離れ、満足げな表情で、プリントの隅に何やら文字を書き込みはじめた。
「こと……かわ……よ……まり……」
「何書いてるんですか?」
「んー」
夜鞠がプリントを覗き込むと、そこには自分の名前があった。鈴介は、夜鞠の方を向いて、へらっと笑う。
「……ホントに綺麗な名前だなーと思って」
琴川夜鞠。頻繁に見るようになってから、もう随分経つが、まだ慣れない文字列だ。
鈴介は、今度はその隣にペン先を移動させた。
「みやき……よ、まり……。うーん、琴川夜鞠には勝てない気がする」
「宮木夜鞠?」
夜鞠は片方眉を下げてくすっと笑った。鈴介は、真剣な顔で、可愛らしい字を並べている。夜鞠は少し彼の方へ体を寄せて、「琴川」の部分を指差した。
「……そういうことなら、琴川鈴介ってすごく綺麗な名前じゃないですか?」
「そうかも!」
鈴介はぱっと顔を上げる。その瞬間、近い距離で、夜鞠と目があった。鈴介の頬が、赤く染まる。
「…………な、何の話してるんだろうね……」
「ふふふ……真っ赤ですよ、鈴介くん」
「だって……」
鈴介は口をやや尖らせた不満そうな顔のまま、おとなしく前を向いて、机に突っ伏した。教授が、こちらをちらりともせずに、すっと授業を開始する。鈴介は、プリントの隅に書かれた文字を消し、頬杖をついてつまらない黒板を眺めた。
授業が終わり、小レポートと名のついた感想文を提出し終えると、夜鞠が突然、思い出したように口を開いた。
「……そうだ、鈴介くん。夏休み……泊まりで遊びに行きませんか?」
「行く!」
鈴介は間髪を入れず答えた。夜鞠はほっとしたように笑う。
「よかった。……グランピングとか、鈴介くん興味あるかなと思って」
「えっ……好き……! なんで知ってるの……?」
「この前ショッピングに行ったとき、キャンプのところ見てたじゃないですか」
「……見てたかもしれない……よく気づいたね」
「結構な時間見てましたよ。忘れたの?」
夜鞠が鈴介の元を離れている間。彼はずっと、いろいろな店のキャンプ商品を眺めていた。わくわくと輝く瞳が、あまりに綺麗だったのを、夜鞠はしっかり覚えていた。
「キャンプは、僕たちには道具も、道具を揃えるお金もありませんけど、グランピングならそこは関係ないですから」
夜鞠はニコッと笑う。鈴介はその場で飛び跳ねん勢いで立ち上がった。
「やったー! でも、いいの? 夜鞠くん、こういうの好き?」
「嫌いじゃないですよ。アウトドアスポーツなら、釣りとかよく行きます」
「夜鞠くん、釣りするんだ! じゃあ釣りができるグランピングのとこに行こうよ」
「ハマっていたのは、オーストリア時代なんですけどね。……僕が目をつけてるところ……ここなんですけど、どうですか? 釣りもできるし、魚は捌いてくれます」
「わっ、綺麗だねぇ! 俺好きだよ」
鈴介はぱぁっと瞳を輝かせて、楽しそうに笑った。ドーム型のテントが印象的なグランピング場で、ここからならそこまで遠くない距離にある。
「……ただ、僕本当にたくさん食べるので、食材買うのが大変ですけどね……。…………いくらかかるか分かりません。あ、でも、食材費は僕が払いますから」
「……えっ、半分しようよ、俺も結構食べるよ」
「申し訳なくなっていっぱい食べられない方が嫌なので」
夜鞠は苦笑いを浮かべる。せっかくの機会を最大限に楽しめないのは、もったいない。鈴介は、腕を組んで、うーんと唸った。
「あっ、じゃあ俺レンタカー借りるお金出すよ! 大体一緒くらいな気がする」
「いいんですか……?」
「うん! 平等でしょ」
夜鞠は口元に手を当てて少し考える。
「……うん、そうですね、確かにそのくらいかもしれません」
「うん。じゃあ決まりね」
鈴介はにっと笑ってから、大きく伸びをした。
「んーっ、楽しみだなぁ。だってもう、俺の好きなものしか詰まってないもん!」
「……ふふ、よかった、それなら」
好きなもの、か。夜鞠は、その言葉の真意を尋ねてしまいたい気持ちにもなったが、それは胸に押しとどめた。きっと深い意味はないし、彼を困らせてしまう。
二人は揃って建物を出た。玄関前で、夜鞠は傘を開く。鈴介は憎らしげに目を細めて空を見上げた。
「……うーん、今なら雨も許せる気がしてきた……かもしれない……」
「……あれ、鈴介くん、傘は?」
「…………今日は、忘れた」
傘の中棒を自分の肩にかけた夜鞠は、納得した顔をした。
「ああ! だから今日は来たときあんなに濡れてたんですね?」
「うん、そう」
鈴介は不満そうに頷いた。
「だって俺、これの前も講義あるんだよ? 今日俺が出たくらいはまだ降ってなかったもん」
夜鞠は傘を右手で持ち直し、少し彼の方向へ押しだした。
「……入りますか?」
「え? と……。えと……」
鈴介は左右を何度か見回して、空と雨の様子を確認した。
おそるおそる、という動きで、夜鞠を上目遣いで見上げる。
「……いいの?」
「どうぞ」
夜鞠は優しく笑った。おじゃましますと言って、鈴介は傘に入る。
「あ、ありがとう。持つよ、俺」
「いいえ、大丈夫ですよ。……自分より低い人が持ってる傘、少し入りにくいじゃないですか」
「……あ、あんま分かんないかもしれない……」
歩き出すと、鈴介は少しずつ夜鞠から離れていった。夜鞠は鈴介を引き寄せる。
「……離れると濡れますよ」
鈴介の顔がぼっと赤くなる。面白いくらいに彼はジタバタ暴れて、その場に立ち止まった。
「……い、いいよ! 大丈夫だよ!」
「君を濡らしたくないし、僕も濡れたくないんです。ね」
夜鞠は鈴介の腰から手をはなして、傘を持ち直す。
「……友だちがただ二人、傘に入ってるだけ。誰も変だとは思いませんよ」
夜鞠はゆっくりと頬を持ち上げ、鈴介の胸を指差した。
「……それとも、君には、何かやましい気持ちが……?」
鈴介はぴくりと跳ねて口を閉ざした。夜鞠はにやりと笑って手を降ろす。歩きだそうと、夜鞠が顔を前に向けたとき、鈴介は夜鞠の服の袖を引っ張った。
「…………あのね、夜鞠くん」
夜鞠は再び鈴介の方を向く。鈴介は、ひとつ間をあけて、夜鞠を見上げ笑った。
「……あるよ、俺には」
鈴介の手は、傘を持つ夜鞠の手に触れる。驚いて、夜鞠は一歩引いた。鈴介の目は、君にもあるでしょ、とまるでこちらに尋ねているかのようだ。傘から跳ねた雨の雫が、鈴介の髪に飛び付いて滑り落ちる。
「でも、今は必要ないから、しまっとこうかな」
鈴介はにぱっと笑って、できる限り夜鞠に近付いた。パーソナルスペースの狭い鈴介にとって、いつもの友だちと、さほど変わらない距離。それより、下心分やや近め。夜鞠の顔を見上げ、一度驚いて目を瞬かせてから、鈴介は笑った。
「…………ふふふ。俺、雨も好きンなっちゃいそう」
夜鞠は、顔を隠すように持ち上げていた左手をひっくり返して、自分の口元を覆った。
「……君は本当に……」
真っ直ぐで純粋で、それでいてやけによく解っている。
夜鞠は目を逸らす。とても、鈴介の方を見ていられそうになかった。
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