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第六話「Entschuldigung, dass ich dich hänsele!」

 ガチャリと、目の前の扉が開いて、鈴介は姿勢を正す。白い扉の向こうから、夜鞠が顔を出した。 「……こんばんは、鈴介くん」 「こっ、こんばんは……!」  鈴介は、ぎこちなく、一音一音をはっきり発音する。緊張しているのがきかずとも分かり、夜鞠は笑った。 「さ、上がってください」 「う、うん、ありがとう。おじゃまします」  鈴介はそわそわと家に足を踏み入れた。  装飾品のようなものは一つも見当たらない部屋に、机とソファー、そしてベッドが置かれている。簡素な部屋の様子に、部屋がもので溢れがちな鈴介は感動すら覚えた。 「本当、夜でも暑いですね……。日本は湿気が多くて特に辛い」 「夜鞠くんって暑がりさん?」 「……うん。寒いのは割と平気なんですけどね」  鈴介はふむふむと頷く。  ソファーに座らされた鈴介は、膝に手を置いて、顔だけで夜鞠を追いかけた。いつもよりラフな服装の彼に、鈴介はまた少しだけ緊張した。夜鞠は冷蔵庫の辺りにしゃがんで、何かを棚から取り出した。 「……君には物足りないかもしれませんが」  戻ってきた夜鞠が手に持っていたのはワインだった。鈴介はぱっと顔を輝かせて、その透明な瓶を見つめた。 「白ワインだ!」 「お好きですか?」 「好きー」  えへえへと照れたように笑う鈴介は、とても酒に強い大人には見えない。夜鞠はソムリエナイフの刃でキャップシールを引き裂きながら、少し笑った。 「……それなら良かった」  鈴介はソファーの上から床に降りると、ワインのラベルをじっと眺めた。眉をひそめて首を傾げる。  夜鞠が、くすくすと笑って瓶を握りなおした。 「……読めないでしょう、ドイツ語」 「読めない。すごいね、知らない言語ってこんな読めないんだ……一単語もわかんないや……」 「ふふ、英語とは似てそうで結構違いますからね」  ワインの注ぎ口からコルクが跳ねる。夜鞠に目配せされ、鈴介はワイングラスを手に持った。夜鞠がゆっくりとワインを注ぐ。 「これ、オーストリアのワイン?」 「うん。多分そうです。……父の趣味なので、美味しいかどうかは分からないんですけど」 「えへへ、俺もこのお酒は見たことないなぁ」  鈴介は楽しそうにグラスを傾ける。それから、自分のグラスを机に置いて、夜鞠のグラスにもワインを注いだ。  二人は、グラスを持ち上げて目を合わせる。縁に口をつけて、ゆっくり傾けた。 「…………んー! おいしい!」 「ああ、いいですね」 「すっきりしてるねぇ。俺、これいくらでも飲める気がするなぁ」  そう言って、鈴介はグラスを持ち上げると、清涼飲料水の勢いでワインを飲んだ。ぺろりと舌で唇を舐めて、満足そうな顔をする。机に置かれたグラスに、夜鞠はワインを注いだ。鈴介は、嬉しそうに微笑んで、そのワイングラスを、今度はゆらゆらとゆらして液面を眺めた。  机の上には、いくらかつまみが並べられていた。鈴介が見たことのない料理もある。 「……ねぇ、夜鞠くんのお父さんは今もオーストリアにいるの? オーストリアの人?」 「はい」 「そっかぁ。オーストリア、ウィーンしか知らないなぁ」 「あはは! まぁそうですよね。僕もオーストリアにいた頃は、日本なんて、東京と、ほんの数カ所しか知らなかった」  鈴介はソファーの背によりかかり、小さな声で尋ねた。 「……なんで夜鞠くんは日本に来たの?」 「…………両親が離婚して、母は日本に帰ることになりました」  長いまつげが下を向く。グラスを指でなぞり、夜鞠はうつむいた。 「それで、僕は中学の途中から日本に」  中学二年の夏。夜鞠は日本へやってきた。母の実家に帰ると、祖父母は、お前がしっかりしていないからと母を叱って、夜鞠を哀れんだ。クラスメイトになった少年たちは、あからさまにこちらを好奇の目で見てヒソヒソと笑った。夜鞠は、こんなところへ来るんじゃなかったと、心の底から思った。 「……馴染めないものですよ。最初は皆面白がって近寄ってくるけど、僕がそんなに面白い人間じゃないってすぐ分かっちゃって」  夜鞠は苦笑する。 「僕は案外はっきりものを言いますし、空気を読むとか人に合わせるとか、そんな面倒なことはしません。……いわゆる、つまらない人間です」  それに、あの頃は人を見下していたところもあったように思う。夜鞠は、昔からそれなりに物分かりが良かった。そのためか、年相応にはしゃぐ同級生を、呑気な奴らだと、幼稚だと馬鹿にしていた。  夜鞠は足を組み直す。グラスを机の上に置いて、膝の上で指を絡めた。 「言葉は通じるのに、心はちっとも通わないんです。当たり前なんですけどね、僕のほうがはねつけていたから。だけど、それがすごく……寂しかった」  自分の口から出た、馴染みのない言葉に、夜鞠は更に俯く。自分は心の底で、そんなことを思っていたのかと、絶望感にも似た柔らかい苦しみを覚えた。 「……だから、あの頃は……今もかな。僕は人と一緒にいるのが苦手です。……一緒にいると、勝手にがっかりされるから。僕は、自分がいい人間じゃないのは分かっているので、誰かと一緒にいるのが怖くて」  けれど、鈴介と一緒にいるのは苦ではない。むしろ、楽しいことばかりで、毎日胸がいっぱいなのだ。  それはきっと、彼だからだろう。彼になら、自分は何を見られたって怖くないような気がしてくるのだ。例えば、見えるものだけで判断されるのは嫌だと言いながら、自分は人を見えるものだけで判断する、愚かなところでも。 「……分かったつもりになりたいわけじゃないんだけど、俺もそうだよ」  鈴介は、遠くを見つめてそう言う。 「結局皆、目で見えたものでしか判断ができないんだ。……俺みたいなのも、意外と誤解されやすい」  夜鞠が顔を上げると、鈴介は彼の顔を見つめてはにかんだ。 「俺、結構内向的なの、ちょっと見てたら分かるでしょ」 「……そうですね、確かに」 「でも多分、ぱっと見、こう……人好きに見える」  鈴介はグラスの中身を飲み干すと、そのまま机にそれを置いた。ぐっと伸びをして、ソファーの背にもたれる。 「多分、その時の夜鞠くんも、ぱっと見で、皆からは怖い人に見えたんだね」  鈴介の声音は、まるで、そんなことはないのに、とでも言いたげだった。 「……でも、見えるものでしか判断ができないのは、俺もそう。皆そうなんだ。……だから、一緒にいたら、その人の知らなかった部分が見えてきて、やっぱり、裏切られたり、思ってたのと違ったり……、勝手に失望されたりする」  腕を引っ込めてから、鈴介は夜鞠を見つめて笑った。 「……夜鞠くんは気にしなくていいんだよ。君が悪いんでも誰かが悪いんでもなくて……、それが普通なんだ、きっと」  鈴介の髪がさらりと額を滑る。鈴介は、おもむろに夜鞠側の背もたれに手を回し、じゃれるような笑みを浮かべた。 「……それに、俺は君が好きだよ。知れば知るほど……最初よりずーっと」  夜鞠は思わず固まった。何度も瞬きだけを繰り返す。  鈴介が、一瞬はっとして、そろそろと瞳を逸した。 「…………喋り過ぎたかも。……あ、おいしいねこれ。夜鞠くんが作ってくれたの?」 「……どの程度ですか?」 「……うん? すごくおいしい」 「そうじゃなくて」  目があった瞬間、夜鞠の瞳が、やや熱を孕んでいるのがわかった。鈴介はどきりとして、そのグレーの瞳から、目を離せなくなった。 「……えっ、と……ねぇ……」  鼓動が速まる。なんとかかわす方法を探そうとするが、彼がこちらをじっと見つめてくるせいで、頭がうまく動かない。 「…………あの……俺逃げないよ、夜鞠くん」  鈴介に言われて、夜鞠ははっとする。無意識のうちに、鈴介の腕を強く掴んでしまっていた。迷ったが、そのまま鈴介の腕を握り直す。 「……答えなきゃ、だめ?」  鈴介は首を傾げる。夜鞠は無言のまま、手首から肘へするりと撫で下ろす。 「…………でも……」  鈴介は、真っ赤な顔で目をそらし、小さな声で呟く。夜鞠は、人差し指で鈴介の頬をやさしく撫でて微笑んだ。 「……夜鞠くん、だめ……」  夜鞠は、鈴介の頭を手で覆ってしまうと、そのまま、すっと顔を寄せた。びくりと鈴介の肩が跳ねる。夜鞠の額が鈴介の額にくっついて、夜鞠の指は鈴介の耳をするりと撫でた。 「……ふふ。鈴介くん、答えてくれないんですか……?」 「えっ……と…………、でも……」  夜鞠はゆっくりとした動きで、顔をさらに近づける。鼻が触れ、鈴介はまた小さく跳ねた。夜鞠の睫毛の上下する感覚が伝わるほどの距離。唇が触れそうになった時、鈴介は目を瞑った。  しかし、その瞬間、突然夜鞠はぱっと手を離し、鈴介から顔を離した。 「…………ごめんなさい、意地悪しちゃった」  夜鞠は、にっと満足そうに笑った。鈴介は目を見開いて固まる。彼は、こんなふうにも笑うのか。 「……やっぱりちょっと酔ってる夜鞠くんといたら、俺殺されちゃう……」  鈴介は、爆発してしまいそうな心臓を押さえて俯くと、自分でも分からないくらい少しだけ、夜鞠へ身体を寄せた。

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