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第七話「Ich bin glücklich mit dir」
「はい、そこまで。筆記用具は置いてください」
しんとしていた教室に、教授の声が響いた。紙を触る音と、落胆のため息があちこちから聞こえる。鈴介も、ふっと息を吐いて、シャーペンを下ろした。
「……テスト、どうでした?」
「わかんなかったぁ」
「あはは、僕もです」
夜鞠が、困った顔をする。彼が真面目に授業を受けているところを結局一度も見なかったため、そんな顔にもなるだろうな、と鈴介は笑った。
「んーっ、でもこれで前期終わった!」
鈴介はぐっと伸びをする。この開放感がたまらなく気持ち良い。テストを回収された鈴介は、筆記用具を片付けはじめた。
「いいですね。僕は明日が最後です」
「がんばってぇ」
鈴介は小さくガッツポーズを作ってみせる。夜鞠はふっと笑ってから、何か思い出したのか眉をひょいと上げた。
「……あ、そうだ。鈴介くん、今日…………」
「今日?」
夜鞠は自分の左手を右手で握って、俯いた。
「…………いえ、明後日、なにか予定はありますか?」
「ないよぉ。どこか行くの?」
鈴介は首を傾げる。
「その、釣りに行きたくて」
「釣り!? 行ってみたい!」
鈴介はぱっと明るい表情になった。それから、口元に手を当ててけらけら笑う。
「あはは、夜鞠くん、最初は今日釣りに行くつもりだったの? 余裕だねぇ」
「……まあ、正直さっきまで、単位落としても別にいいかなぁと思っていました。……でも、君と一緒に卒業できないの、嫌だなと思って」
「……夜鞠くんてそんなに単位ギリギリなの?」
夜鞠は苦笑を溢した。既に、何度か教授たちから「留年したいのか」と脅されている。でなくて、こんなにも興味のない講義を、自分という人間が取るはずがない。
「うーん、俺もギリギリな気がしてたけど、これ落としたら卒業できない! ってほどじゃないなぁ」
「鈴介くんは大丈夫ですよ。僕だってまだ間に合う気でいるんですから」
「一緒に卒業しようねぇ」
鈴介はにこりと笑った。
所々に苔の生えた岩の並ぶ、川の上流部付近。木々が多く生えていて日陰がちなこともあり、それなりに涼しさも感じられる。鈴介は、水の流れる音に耳を傾けながら、辺りをぼんやり見回していた。
「わ……!」
苔むした岩に足を取られて、鈴介はバランスを崩す。これは転ぶ、と感じて、反射的に手を出したが、その腕は思い切り掴まれ、身体が夜鞠に引き寄せられた。
「気をつけて、鈴介くん」
夜鞠は安堵して笑った。こんな場所で転んだら、下手すれば岩で頭を打つことになる。
決して細くはないその腕を、夜鞠はゆっくり離す。鈴介は、驚いて竦めていた肩の力を抜いて、へらっと笑った。
「……ありがと」
夜鞠はふと、鈴介の腕を見て首を傾げた。
「鈴介くんって、何か部活してました?」
「テニスしてたよ! 硬式ね」
「ああ! あはは、鈴介くんテニスボール似合うなぁ」
「……テニスボールが似合うって何」
鈴介は苦笑した。
二人は釣り場につくと、川岸に折りたたみ椅子を置いて座った。夜鞠は、すぐに準備を整えて、釣り竿を鈴介に手渡した。
「投げ方わかりますか」
「分かんない……」
「貸してみてください」
夜鞠は釣り竿を手に取ると、いとも簡単に川の真ん中の辺りまでウキを飛ばした。鈴介は拍手をしながら立ち上がる。
「すごいね、上手!」
「持っててください。かかったら、巻いたらいいので」
「えっ、えっ、分かんない。夜鞠くん教えて……」
鈴介が夜鞠を上目遣いで見る。夜鞠は苦笑をこぼした。
「……僕は、いいんですが……」
夜鞠は糸を巻き取って、再び釣り竿を鈴介に持たせる。
「じゃあ、投げるところからやりましょう」
「うん!」
鈴介は嬉しそうに返事を返した。
「……まず握り方ですが、これ……このリールのついてる棒を挟むように握ってください」
「うん」
夜鞠は鈴介のすぐ後ろに立ち、そこから両手を伸ばして、鈴介の身体を抱くように釣り竿を持った。鈴介は驚いて目を見開く。
「そしたら、糸を少し指で抑えながら、このレバーみたいなものを上げます」
「よ、夜鞠くん、それ横からでもできない? だめ?」
「ふふ、分かりづらくなっちゃうので。……鈴介くん、集中してますか?」
「ほ、本当にそう? 俺のことからかおうとしてるんじゃなくて?」
どうでしょうね、と呟きながら、夜鞠は鈴介の手を上から包み込み、糸を抑えてベールを動かす。
「あとは投げれば終わりです。こう……、あ、後ろは確認して……人に引っ掛けちゃうと痛いので。……それで、こう!」
鈴介の手の上から握った釣り竿を、そのまま夜鞠が振る。釣り竿の先で、餌のついた針が揺れた。
「やってみてください。次は、いい感じのタイミングで、その釣り糸を押さえてる指を離してくださいね」
夜鞠は鈴介のそばを離れる。鈴介は眉をひそめて首をひねる。
「いい感じってどんな感じ……」
「ええとですね……こう……飛ばすイメージです」
鈴介はまだ赤い顔で釣り竿を見た。
「分かんなくなっちゃった……。えっと、糸持って、これ上げてから……」
鈴介は、一度工程を指差しで確認する。
「ふふ、僕はいいんですよ、もう一回後ろから教えても」
「夜鞠くんに殺されちゃう……」
釣り竿を握って、鈴介は後ろを見ながら構える。
「こうして、こうやって……こう! こうでしょ!?」
鈴介は、ぱっと笑った。夜鞠はニコッと笑って、鈴介の頭を撫でた。
「そうです。案外簡単でしょう?」
「すごいねぇ」
鈴介はくすぐったそうに笑いながら前を向く。
「で、これ……レバーを戻してください」
「ればー? これ? こっち向き?」
「うん」
鈴介は、ベールを戻して、自分の投げたウキが川の中にあるのを見て笑った。
「糸の巻き方も教えましょうか」
「だ、大丈夫! これ、これ回したらいいんだもんね?」
ずいぶん慌てながらリールに手を伸ばす鈴介を見て、夜鞠は苦笑した。
「そうです。……あっ、鈴介くん、それ逆です」
「こっち?」
「うん。そうそう」
夜鞠は自分の釣り竿を手早く準備すると、手慣れた様子ですいと振った。
夜鞠の身体を不必要なほどぺたぺた触りながら、鈴介は釣り糸の先を見つめる。すでに鈴介は釣り竿を持つのをやめて、地面に置きっぱなしにしていた。
「釣れないねぇ」
「あはは、ここ、あまり釣れないので」
「そうなの?」
「うん。人がいっぱいいるところでたくさん魚を釣り上げるより、人のいない場所で釣り糸垂らしてるほうが僕好きなので」
カラカラとリールを巻きながら、夜鞠は言う。鈴介は、夜鞠の袖を握って引っ張って遊んでいた。そろそろ、夜鞠の膝にでも乗ってきそうな勢いだ。
「……たくさん釣る釣りは、今度グランピングのときにできるかなって思って。……今日は、君とゆっくり過ごしてみたかっただけなんです」
夜鞠は再びルアーを遠くへ飛ばして、またカラカラとリールを巻いた。
「……釣りたかったら、移動しますよ、釣れるとこに」
「うーん、いいかなぁ」
鈴介は呟く。夜鞠の肩の上に顎を置いて、サラサラと揺れる水面を見ていた。
「だって人がいたら、夜鞠くんにくっついてられないもん」
「…………もしかして、自覚があって僕にくっついてたんですか?」
鈴介は一度しまったという顔をして、それから夜鞠の身体をなぞりながら笑った。
「……ふふ、まぁ、ちょっとは近めにしてたかもねぇ」
「君は……本当に……」
彼のどこまでが天然で、どこからが策士なのか分からない。夜鞠は苦笑を浮かべて前を向いた。少しだけ、顔が熱くなる。
鈴介は椅子にしっかり座り直して、やや夜鞠の方に身体を傾けた。
「……そういえば、テニスね、俺県二位だったんだ」
「えっ、すごいじゃないですか!」
「そうでしょ」
鈴介はにこっと笑った。夜鞠は首を傾げる。
「……大学、テニス部じゃないですよね?」
「部活入ってないからねぇ」
鈴介は、川の向こう岸をぼんやり見つめながら呟いた。
「……好きだけど、もうやりたくはないかな」
夜鞠は、鈴介の横顔をじっと見る。何と言うべきか迷っていたら、突然こちらを向いた鈴介と目があった。
「夜鞠くんは? 部活してた?」
「僕ですか?」
夜鞠は口元に指を当てて、苦笑いを浮かべた。
「……実はね、少しだけ野球をしてたんです」
「ホント!?」
「ええ。中学……転校してきてすぐくらいかな。ほんの数ヶ月くらいですよ」
つまり坊主の夜鞠がいたということ、と鈴介は考える。見てみたいと思いながら、夜鞠の話に耳を傾けた。
「日本じゃ野球かサッカーなんでしょう? それで、母がどっちか入ってみろって」
きっと、母なりに、自分が社会へ馴染む方法を考えてくれていたのだろう。夜鞠は、ぼんやり思った。
「……でも、あの頃はまだよく日本語を喋れなかったので、友だちはできないし、教科書が読みづらいから勉強もできなくなるし……。なにより、僕運動苦手なので嫌で仕方なくて」
「運動だめなんだ」
「ふふ、だから鈴介くんみたいな人には憧れますね」
夜鞠はくすくす笑った。鈴介は、嬉しそうにはにかむ。
「……部活はすぐやめて、中学はずっと家でバオムと遊んでました」
「わんちゃんだ、夜鞠くん家の」
「うん。かわいいんですよ、バオムは。……高校からはこっちで寮に入って、マスターのところに入り浸ってました」
「寮は門限なかったの?」
「うーん、あったかもしれません……」
鈴介は眉をひそめる。門限があったかどうか分からない、という意味が分からない。夜鞠は苦笑を溢した。
「僕、とにかく寮での素行悪かったんですけど、授業は普通に出てたし成績も良くて、ただ寮になかなか帰ってこないだけだったので……、なんだろうな、こう……許されてた……みたいな」
「黙認されてた、みたいな?」
「呆れられてたのかもしれませんね」
あの頃は、自分の居場所は学校や寮ではなかったのだ。誰も自分を咎めなくなったとき、僅かに感じた悲哀の味を、今も覚えている。
「……今考えたら、僕って浮いてる……嫌な生徒だったなって思いますけど、そのときはそうしなきゃ辛かったんですよ。どうしても、人に合わせるってできなかったんです」
夜鞠は呟く。それから、へらっと笑って言った。
「……だから、本当、僕はあんまり条件のいい男じゃないと思いますよ。……君がここまで僕を大切にしてくれる理由が、よく分からない」
顔ですかね、と夜鞠はくつくつ笑う。しかしながら、自分の顔は彼がここまで褒めてくれるほど整った容貌でもない。
鈴介は、ふっと微笑んで、また向こう岸をぼんやり見つめた。
「……俺は、人を殺さない人が好き」
夜鞠は小さく首を傾げる。
「……こうあるべきだ、こうしなきゃならない、こうした方がいい……。皆善意でそんなこと言って、人を殺すんだよ」
人を殺す、とは内面のことを言っていたのか、と夜鞠は頷く。それから、自分にそんなところがあるとは思えない、とまた首をひねった。
「夜鞠くんは、人を否定しない。自分も人も尊重してるから、人に合わせようとしない。俺の変なところは変なまま受け取って、『変だなぁ』って言うの。だから、俺は好きだな」
鈴介はまっすぐ言葉を吐く。心に、すっと風が通るような言葉を。鈴介は、ゆっくり水面に目を落とした。
「……あ、魚だぁ」
「ねえ、鈴介くん……」
「ん? なーに?」
鈴介は夜鞠を見上げる。夜鞠は目を伏せて、満足げに笑った。
「…………君といると、僕は幸せです」
「お、大きなこと言うんだねぇ」
鈴介は少しだけ顔を赤くさせ、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「……でも、俺もそうだな……」
夜鞠のルアーが帰ってくる。夜鞠は再び釣り竿を振る。
しばらくして、鈴介が口を開いた。
「釣れないねぇ……。魚、いるのにねぇ」
「今日はダメな日かもしれませんね」
カラカラと回るリールの音と、鳥虫の声、川のせせらぎ。横で動く彼の服の擦れる音と息遣い以外に、音はない。
「……暑いですねぇ」
「アイス食べたいなぁ、ソフトクリームがいい。道の駅とかに売ってるおいしいやつ食べたい」
「はは、いいですね、それ」
夜鞠は笑う。ルアーが簡単に戻ってきて、夜鞠は変な顔をした。
「……帰ろっか、夜鞠くん」
「そうですね、そろそろ、陽がきつくなってきました」
二人は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
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