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第八話「Fühl mich!」
青い空と、大きな白い入道雲。セミの鳴き声と、爽やかな夏の匂い。
鈴介は車を降りると、ぐーっと大きく伸びをした。
「っはーー! ついたー!」
「運転ありがとう、鈴介くん」
「ううん、楽しかったねぇ」
帽子を被り、サングラスをかけた夜鞠も車から降りてくる。朝彼に会ってすぐ、鈴介がかっこいいと褒めると、はにかみながら陽に弱いだけなのだと教えてくれた。
「鈴介くんは何かしながらのほうがたくさん喋ってくれますね」
「……うるさかった?」
「ううん、嬉しかったです」
普段二人が暮らしている街中から、遠く離れた山の中。ここは、川のすぐそばにあり、魚釣りや川下りが気軽に楽しめると話題のグランピング場である。
鈴介が車のバックドアを開くと、そこには、大きめのクーラーボックスがいくつか入っていた。
「夜鞠くん、それなあに? ……わ、重たい」
「大丈夫? ……これ、全部食材です。どうせなら思いっきり、と思ったので」
「夜鞠くんの『思いっきり』かぁ、楽しみだなぁ」
鈴介は上機嫌でけらけら笑いながら、荷物をまとめて持ち上げた。二人で分担して、大量の荷物を持つと、まずは中央センターに向かって歩き出す。
センターの職員に案内されて、二人が向かったのは、ウッドデッキのついたドーム型テントだった。夜鞠が荷物を入り口の近くに一度置いて、腕を休ませている間に、鈴介はさっさとその中へ入っていった。夜鞠も、少し遅れて中へ入る。
「……涼しい……」
「意外と広いねぇ」
「……ホント、すごいですね……」
テントの中には、ベッドが二つと、奥に木製の椅子が置かれている。それでも床のスペースは十分にあり、外から見るより断然広く見える。
夜鞠は、入口付近に戻ると、置いていた荷物を持ち上げ、ゆっくり中に運び入れた。
「すみません、道具の説明をしたいので、どちらか外へ……」
「あ、俺が行きます!」
職員に呼ばれ、鈴介はすぐに外へ出ていった。
夜鞠が冷蔵庫に食材を移していたら、外で職員から話をきいていた鈴介が帰ってきた。
「あ、鈴介くん、食材ここに入れているので。……入るかな」
「多分大丈夫だよ。入らなかったらすぐ食べちゃおうよ、俺お腹すいた」
鈴介は、自分の腹に手を当ててにぱっと笑う。
「そうですね、丁度お昼ご飯の時間ですし」
夜鞠は、冷蔵庫に入れていた食材をいくつか取り出して脇に置き、他の食材を全て冷蔵庫に詰めた。
外へ出てすぐ、バーベキュー台の火起こしをしてくれたらしい職員とすれ違い、二人は小さく会釈する。職員はニコッと笑って去っていった。
夜鞠はメスティンの中に水を入れて、網の上においた。
「……わ、なぁにそれ、何作るの?」
「パスタです」
「パスタ!」
鈴介はぴょんと跳ねる。机の上を布巾で拭いたり、包丁の準備をしたりしながら、鈴介は嬉しそうに小さく鼻歌を歌っている。
「鈴介くん、ビール開けませんか」
「……ふふ、開けるー」
鈴介は、にまっと笑った。冷蔵庫へ一直線に向かって、二本の缶ビールを抱えて帰ってくる。鈴介が一本を夜鞠に手渡すと、彼は片手で器用にビールを開けた。
「悪いんだぁ、夜鞠くん。こーんな昼間からビールなんて」
「鈴介くんもね」
「ふふふ」
鈴介も、プルタブを持ち上げて、心地よい空気の震えを楽しむ。それから、夜鞠の持っていた缶と自分の缶をぶつけて、ぐいと一口、ビールを流し入れた。
「あーあ、飲んじゃったなぁ……」
「いいじゃないですか、おいしいし」
「おいしーねぇ……」
鈴介はぼんやりとした声で呟きながら、ビールを傾ける。夜鞠は手早く具材を準備すると、それらを小さめのフライパンに入れた。
「鈴介くん、これ焼いててもらえますか」
「いいよぉ」
鈴介はフライパンの前に立つと、ヘラで具材を掻き混ぜ始めた。中には、まだ半分凍ったようなシーフードミックスが入っている。
「どのくらい炒めてたらいい?」
「僕のパスタのソースの素ができるまで。すぐできますよ。……あっ、口に合わなかったらごめんね。僕の家で作ってもらってたものだから……」
「大食いの人の家のご飯はおいしいって決まってるんだよ」
鈴介は、右手でヘラを適当に動かしつつ、左手でビールを飲んだ。
「……夜鞠くんは料理上手なんだねぇ。前作ってくれたのもおいしかったなぁ」
「鈴介くんは褒め上手ですよね」
「えへへ、ホントのことだよ」
鈴介はへらへら笑う。首から汗が伝って、彼の胸に滑り落ちた。強い日光と火の熱気のせいで、焼けるように熱い。夜鞠は肩で汗を拭い、顔を上げた。
「……あっ、鈴介くん、そこのタオル取ってもらえますか? 汗入っちゃいそう」
「うん、いいよ」
鈴介はタオルを持ちあげると、側まで来て、夜鞠の額に押し当てた。柔らかいタオルは、そのまま夜鞠の頬を滑って一度離れる。
「……暑いねぇ」
はにかみながら、鈴介は再びタオルを反対の頬に滑らせた。夜鞠は、そのわざとらしく動く腕を掴んで止めさせ、するりと腕の先へ手を滑らせる。鈴介の手に握られたタオルを掴むと、苦笑をこぼした。
「……ありがとう」
夜鞠はタオルを鈴介からとりあげて、顔を隠すように汗を拭いた。
「照れてる?」
「……鈴介くん、ちゃんとフライパン見ててください」
「……ごめんね、ちょっとわざと」
「そんな気はしましたよ」
夜鞠は眉を下げてくすっと笑った。
「……ホントに、君といると気が抜けないな……」
「……嫌だった?」
「嫌ですよ。振り回されてるところって大体かっこ悪いでしょう」
「……今の顔好き……もっかいして」
「聞いてますか?」
鈴介は、ゆっくり体勢を変えて、汗を拭いながら笑う。
「……だってそこ気にするの変じゃん。君が俺をからかうのと同じ気持ちだよ」
ビールを胃に流し込みながら、鈴介は少し考える。
「……えっ、もしかして夜鞠くんはいつも俺のことかっこ悪いなーって思ってるの……?」
「違いますよ……」
「よかったぁ」
夜鞠はバツが悪そうに目を逸らして、フライパンを持ち上げる。
「……はい、鈴介くん、炒めるのおしまいですよ」
「はーい」
「……よいしょ……」
夜鞠は鈴介の持っていた小さなフライパンを取り上げて、中身を自分の持っていたフライパンに移した。中をのぞき込んだ鈴介が、からから笑った。
「……多いねぇ」
「トマト缶、母さんはいつも二人分で一缶なんですけど、いつも全く足りないので三缶で作りました」
「あはは、本当に『思いっきり』なんだねぇ」
鈴介はけらけら笑って、ビールを一気に飲み干した。
暫くして、パスタが茹で上がった。それをソースに絡めて、夜鞠はフライパンを持ち上げる。
「さて、鈴介くん、パスタできましたよ」
「たべる」
「新しいビールをテントから取って来てもらえますか?」
「はーい」
鈴介はビールを二本抱えて帰ってくると、机の上に並べた。紙皿に取り分けられたパスタを見て、鈴介は首を傾げながら夜鞠を見上げる。
「何てパスタ?」
「ペスカトーレです」
「ぺすた」
「ふ、ふふ……ペスカトーレ」
ペスタコーレかぁ、と鈴介は呟く。夜鞠はくつくつ笑いながら、デッキに用意されていた木製の椅子に座った。
「さ、乾杯しましょうか、鈴介くん」
「する!」
鈴介と夜鞠は、机を挟んで向かい合って座った。
「かんぱーい」
「乾杯」
二人は一気にビールを流し込む。鈴介はぺろりと唇を舐めて、満足そうに笑った。
「んーっ、つめたーい! 今日はあっついねぇ……」
「あはは、見事な日本の八月ですね」
「雨、心配してたけど降らなくてよかったねぇ」
蝉の声が止まない。今いる場所は、ウッドデッキの日陰とはいえ、なかなかの暑さだ。
鈴介は紙皿を片手で持ち上げて、軽く手を合わせた。
「いただきます、夜鞠くん」
「どうぞ」
夜鞠は、鈴介が小さな口を懸命に開けてパスタを食べるのを見つめた。
「わっ、おいしい!」
「おいしい? よかった」
「ホントにおいしいよ、おいしい!」
「ふふ、ありがとう」
夜鞠はくすぐったそうに笑う。鈴介の顔を見ながら、夜鞠もパスタを口に運んだ。
しばらく談笑しながらパスタを堪能していると、ふと鈴介の目が、吸われるように道の方へ向いた。
「……あ、あそこ歩いてるお姉さん美人……」
「……鈴介くんねぇ……」
夜鞠は苦笑いを浮かべた。何か言いかけて、口をつぐむ。夜鞠は既に空になっていたビールの缶に口をつけた。
彼は分かりやすくて純粋で、鈍感でありながら策士だ。今の発言がもし、彼の鈍さから出たものでなかったら、彼は相当悪い男だ。――しかし、今のはおそらく、考えて出たものではないだろう。
「……ああ。そういえば、ここの川、結構釣れるみたいですよ」
「ほんと!? この前の楽しかったからね、楽しみにして来たんだよ」
「ふふ。……それなら、よかったです」
夜鞠はにこりと笑った。
午後五時前。二人は川から帰ってきて、バーベキューの準備をしていた。炭に火をつけて、網の上に食材を並べはじめる。
「あっ、君さっきのかわいい子!」
「……あ、……えと、こんばんは」
突然、通りかかった知らない女性に話しかけられた鈴介を見て、夜鞠は眉をひそめる。よく見れば、彼女は先程鈴介が目を奪われていた女性だった。
「ここだったんだね! 男の子二人で来たの?」
「……はい」
さっきのかわいい子、と言うということは、きっと鈴介がどこかで会ったのだろう。流石に、わざわざ会いに行った訳ではないだろうが、と心の中で考える。
「……あれ、お魚まだ置いてるの? もうすぐセンターのお魚捌いてくれるところしまっちゃうよ、一緒に行こうか?」
「……えぁ、えと……」
鈴介はうろたえる。夜鞠と女性の顔を交互に見て、困ったような顔をした。落ち着かなくなった夜鞠は、考えるより先に、バケツを持ち上げて歩きだしていた。
「鈴介くん、僕が行きますよ」
「え、本当? いいの?」
「うん。焼いててくれますか?」
「分かった」
鈴介はにこりと笑った。女性は、こちらへ付いてこようとしない。面白くないな、と夜鞠は少しだけ冷たい目で彼女を見た。
センターから戻ると、鈴介はまだあの女性と喋っていた。女性はしきりにボディタッチを繰り返し、そのたびに鈴介は恥ずかしそうにはにかむ。
夜鞠は魚を机の上に置いて、とうとう後ろから鈴介を引っ張り寄せると、片手でぎゅっと抱き込んだ。
「……すみません。今は僕の時間なんです」
「……よま……っ」
「え……っ、ああ、ごめんね、そうだよね。せっかくお友だちと来てるんだもんね……」
女性は変な顔をして、そそくさとその場を去っていった。夜鞠はゆっくりと身体を離す。バツが悪くなり、夜鞠は俯いた。
「…………ごめん」
「えっ、いいよぉ困ってたから」
「困ってた?」
「……うん……、あのお姉さん、すごく距離の近い人だったから……」
鈴介は、本気で困ってはいたが、満更でもない、という顔で笑った。
「…………君は、あの女性のこと美人だって言ってましたよね」
「美人だったねぇ……! ドキドキしちゃったもん」
鈴介は、ほのかに頬を赤らめてそう笑った。これもおそらく、策ではない。――彼は本当に、なんて悪い男だろうか。
夜鞠は鈴介の肩を掴んで、そのまま少し屈んだ。鈴介の唇に、キスが落とされる。
「…………な、に?」
ゆっくりと顔を離し、夜鞠は肩をすくめて笑った。
「……今は僕の時間なんですから、よそ見なんてしないでほしいな」
鈴介はしばらくの間顔を赤くしたまま硬直して、そろそろと目をそらし、子どものような表情で俯いた。
「…………反則じゃない?」
鈴介は夜鞠の首に腕を回した。それから、ゆっくりと後頭部を手のひらで包み、ぐいと引き寄せる。
「……屈んで?」
「…………」
夜鞠は、悩んだ末、ほんの少しだけ屈んだ。鈴介が背伸びをして、夜鞠にキスをする。
「……ん、っ」
夜鞠はピクリと跳ねる。鈴介の舌が、夜鞠の唇を割って、口内へ入った。鈴介は、夜鞠の剃りあげられた後頭部をさりさりと撫でる。
「…………ふ……、ン、っ……」
思わず息が漏れる。鈴介の指がうなじを滑ると、ぴくぴくと腰が跳ねた。夜鞠は、驚いて、鈴介の肩を握ってぐっと押した。鈴介の唇がぱっと離れる。
「……っは、……は……」
「ごめん、苦しかった?」
夜鞠はうなじを手で押さえて、混乱した表情で、鈴介を見た。
「……首ヤだった?」
「ちが、……あの……」
「分かんない、教えて」
鈴介は、夜鞠に詰め寄る。夜鞠は一度瞬きをして、ゆらりと手をおろした。
「……君、ねぇ……」
夜鞠は耳まで赤くして、目をそらす。
「……どうにかしたいのか、それとも、このままでいたいのか、僕にはもう分からないですよ……」
「……え、ぁ……えと…………」
鈴介は、かっと赤くなって目をうろうろさせた。
「ご、ごめんね……勢い、で…………」
飲み過ぎかな、と鈴介は笑う。そろりと目を逸らし、俯いた。
「……お、れは……」
きゅっと自身の胸元を掴んで、鈴介は縮こまる。
「と、友だちの夜鞠くん、……が……好き。……こんなに楽しい友だちははじめてなんだ。全然違うのに、全部一緒みたいに感じる……それくらい、君といるのは心地いい」
「……そう、ですか」
夜鞠は小さな声で呟く。鈴介は、バッと顔を上げて、夜鞠を真っ直ぐに見た。
「…………でも、俺、夜鞠くんに触りたい」
夜鞠は言葉をつまらせる。鈴介は、またそろそろと視線を逸らした。
「……分かんない。……どうしたらいいのか……」
鈴介は俯いて、右手の甲に左手を被せてぎゅっと握る。
「友だちとしての夜鞠くんが、俺はすごく好き。……今のままだってとっても楽しいのに、終わっちゃうの嫌だ……」
夜鞠は、ゆっくりと鈴介の肩に手をおいた。
「……僕だって、終わらせるつもりはないですよ」
鈴介は顔を上げる。夜鞠の瞳が、星のように輝いていた。
「…………終わらせるつもりじゃない。深くなるつもりなんです」
「深、く……」
「そうです。……もっと深く、君を感じたいから」
鈴介は瞬く。
「…………もっと、僕を感じてほしいから」
突然、鈴介の手は掴まれ、強く引かれた。その手は、夜鞠の服の裾を捲りあげて、みぞおちの辺りに押し当てられる。
捲られた鼠径部辺りを見て、鈴介は、目を見開いた。
「ちょうちょ……」
彼の下腹部に彫られた、青い蝶のタトゥー。彼の動きにあわせて、その美しい羽も揺れる。
「……感じて」
夜鞠は笑う。彼は、鈴介の手を自分の胸まで導いた。
鈴介は、夜鞠の心臓が、ドキドキと、飛び出しそうなくらい跳ねているのがわかった。瞬きして、夜鞠を見つめる。
「…………鈴介くんが、僕は好きです」
夜鞠の声ははっきりとしていた。しかし、心臓は大きく鼓動を続けていて、彼が平常ではないことがありありと伝わってくる。
「……そんなの、俺だって…………」
鈴介は手を離す。引っ張られていた服の裾は、ぱさりと元の位置に戻った。まだ彼の心臓の鼓動する感覚が、この手に残っている。
鈴介がそわそわと目線を逸しかけたとき、夜鞠は鈴介の顔を両手で掴んで、無理矢理前を向かせた。
「これ以上、僕におあずけを食らわすつもりですか?」
「……なんて顔するの夜鞠くん……」
夜鞠が自棄になっているのが、瞳からなんとなくわかる。それくらい、どうにも止められないのだ。
分かっている。おあずけばかりで、そんなふうになっているのが、自分だけだと思わないでほしい。
「…………夜鞠くんは俺のこと分かってない」
鈴介は夜鞠の腕を掴む。
「俺は、夜鞠くんに触りたいって言ったんだ」
鈴介に腕を引っ張られて、夜鞠は鈴介の顔から手を離す。
「……俺の言いたいこと分かる? 多分きっと、夜鞠くんはわかってないよ」
鈴介は夜鞠の側にぐいと寄る。身体を密着させて、右の手を彼の腰へ滑らせた。それから、するすると指を下へ這わせる。混乱した顔で鈴介を見下ろす夜鞠に、鈴介は更に、自分の腰を擦り付けた。
夜鞠を見上げ、首をこてんと傾げて、鈴介は笑った。
「…………ごめんね、俺はかわいくないんだ」
彼が求めている自分が、本来の自分とすれ違っていることは、ずっと分かっていた。やはり、自分は誤解されやすい人間だ。
「……それ、って……つまり……」
心臓がバクバクとはねる。鈴介はつま先で立って夜鞠に顔を近づけた。
「……ねぇ夜鞠くん。好きだって……、それは……俺を抱けないってなっても……好き?」
鈴介はかかとを地面につけ、夜鞠から少し離れて俯いた。
「…………俺が君を抱きたいって言っても、まだ好きでいてくれる?」
夜鞠がもし、無理だと言うなら、この関係を、どうかそのままにしてほしい。鈴介は、ちらりと夜鞠の顔を見上げた。
「…………君が……僕を……?」
夜鞠が口元を押さえて鈴介から目をそらす。鈴介は、ハッとして、頬を赤くした。
「……君は、前に、それでフラれたことでもあるんですか?」
「まぁ……そう……。君はどう? 俺のこと、ずっとネコだと思ってたでしょ」
夜鞠が黙り込む。鈴介は俯いた。夜鞠は何も悪くない。ずっと曖昧にしてきた自分が悪かったのだ。
「……分かるよ、抱きたいか抱かれたいかって結構話が違う。俺は、抱かれるの嫌だもん……。……嗜好が合わないんだから、ホントはもっと早く言って、浅い関係のままにしておくべきだったの。……でも、俺は……、君が俺のこと……なかったことにするのが、嫌だったから」
「……だから、君は…………」
だから関係を変えることを、あの日彼は拒んだ。このままでいてほしいと言った。彼だけが、分かっていたからだ。まだどちらも引き返せてしまう状況の今、関係を変えてしまえば、自分たちはうまく行かないと。
「……でもね、俺は君に触りたいけど……、でも、壊れるくらいなら、俺は君を抱けなくたっていい。夜鞠くんのそばにいたいだけなの。……これ以上なんてなくっても、今のままでも、俺はいいよ」
彼が関係を曖昧にしていた理由は、きっと最初から、自分とは大きく違っていた。そのことに、今初めて夜鞠は気が付いた。
「鈴介くん、僕は……」
夜鞠は一歩踏み出す。その瞬間、鈴介が空を見上げた。
「…………あ、れ」
「どうしました?」
夜鞠は首を傾げる。鈴介は、ボールのようにポンと跳ねて、机の上の食材に手を伸ばした。
「雨だ!」
「雨?」
「雨降る匂いする! 雨降るよ、片付けて!」
「えっ、雨が降る匂い、ですか……?」
夜鞠は、鈴介に言われるがまま、バタバタとバーベキューの道具を片付け、濡れない場所に置き直した。
二人が部屋に戻った瞬間、鈴介の言った通り、山に雨が降り始めた。
「すごいですね……雨が降る前の匂いが分かるなんて……」
「…………犬みたいって思ってるでしょ」
「思ってます」
「そうだよね……みんなそう言うの……」
外を眺めていた鈴介は、ゆっくり夜鞠を振り返る。
「……夜鞠くんお腹すいてる?」
「…………うん」
「だよねぇ……」
外は土砂降りの雨である。周りのテントから、慌てた声が聞こえている。
「晴れてほしいなぁ」
「…………そうですね」
夜鞠は、てきとうに返事を返した。彼の話に興味がなかったわけではなく、頭の中がうまくまとまらないのだ。
立ち止まっていると、自分が決めつけていたせいで、彼が今までどれほど悩んできたかを考えるばかりになってしまい、頭が働かない。
「……僕、先にシャワー浴びてもいいですか?」
「うん、どうぞ」
鈴介がにぱっと笑う。
この瞬間に、いつものように笑う彼は、隠し事の随分上手い性分らしい。それか、問題の先送りと、今を楽しむことが得意なのか。
「…………待ってるね」
鈴介は窓の外を眺めながら、控えめな声で呟いた。
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