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第九話「Ich möchte deine Liebe werden」
「…………おかえり。ゆっくりだったねぇ」
「また飲んでるんですか……。好きですね…………」
夜鞠は苦笑した。鈴介は、ベッドの上に座ったまま、缶を持った手で手招きする。
「夜鞠くんも飲む?」
「ううん、僕はいらないです」
「……もしかして今日飲み過ぎかな、俺」
鈴介は缶の残りを飲み干して、外に置いていた缶用のゴミ袋の方へ向かった。缶を捨てて、空を見上げながら帰ってくる。
「通り雨だったみたい。……もう一回炭入れる?」
「……ううん、大丈夫です」
「そう? お腹すかない?」
「大丈夫ですよ、おにぎりもあるし……」
鈴介は、再びベッドの上に座る。夜鞠も、その隣に座った。
「…………あのね、鈴介くん」
「うん?」
「……少し、考えてみました」
座り直して姿勢を整え、夜鞠は言葉を続ける。
「僕は、やっぱり、君の一番近くにいたいと思っています」
夜鞠は、鈴介を見つめて微笑む。鈴介は目を伏せる。
「……いいの? 俺、夜鞠くんを騙してたようなもんだよ」
「ふふ、君は一度も僕を騙したりなんてしていないでしょう。全部僕の勘違いです。……僕の方こそ、ごめんね。君がそんなふうに思ってることを知らなかったし、君が一番されて嫌な思い込みをしたと思うんです」
「……いいよ、俺は分かってて一緒にいたもん」
鈴介は、少し微笑んだ。夜鞠は胸に手を当てて、鈴介の顔を真っ直ぐに見つめて口を開く。
「……鈴介くんを好きなのが、そんなことで変わったりしませんよ」
「……そっかぁ……」
鈴介は、くくと笑う。
「……俺も、夜鞠くんが好き」
鈴介は夜鞠の手を握り込むと、擦り寄って笑った。
「…………大好き」
蕩けるような笑顔で、彼は自分を見ている。それはまるで、夢のような心地がした。
「俺を、夜鞠くんの恋人にしてくれる……?」
夜鞠はふっと微笑んで、鈴介の腕を引っ張ると、その身体を抱き込んだ。
「もちろん……! 僕は君の恋人になりたい」
鈴介は、その腕の中から身をよじって抜け出すと、夜鞠の口にキスをして、夜鞠の身体を押し倒した。
「わっ」
「っはは、夜鞠くんの恋人だって!」
鈴介は、楽しそうにけらけらと笑いながら、夜鞠の身体に乗り上げて、そのまま抱きしめた。
「……心臓の音する……」
夜鞠は鈴介の頭を撫でる。指先で髪を弄び、耳と首すじをなぞった。
「…………ふふ、くすぐらないで」
「あ、ああ、ごめん。つい」
「……ふふふ、くすぐったくなっちゃった」
鈴介は自分の手で何度か首をさする。まだ彼の手がそこにあるような感じがして、くすぐったい。
そんな彼を見つめて微笑み、夜鞠はゆっくりと口を開いた。
「……あ、のね、鈴介くん」
呼びかけられた鈴介は、夜鞠の顔をまっすぐ見て首を傾げた。
「僕、は……、元々トップばかりですし……、正直……抱かれる側の経験は……ほとんどありません……」
「うん。分かってるよ。……あ、別に、俺に合わせなくていいんだよ。俺、俺はバリタチだから夜鞠くんにネコになれって言ってるんじゃなくて……」
「う、ううん、違うんです、鈴介くん。あのね……」
夜鞠はゆらりと目を逸らす。身じろいで、彼はつぶやいた。
「……君が僕を抱くなら……、それまでに……もう少し時間がほしいんです」
鈴介はこくりと唾をのんだ。
「……いいの? それ、俺は俺のいいように意味取っちゃうけど」
夜鞠は微笑んで、鈴介の頭を撫でた。鈴介の胸が、ドキドキと高鳴る。
「……でも、でも、夜鞠くんは俺を抱きたかったんじゃないの?」
「ええ、まあ……。でも、鈴介くんは嫌なんですよね?」
「うんとね……、嫌……というか……、うん……嫌……」
「……僕はね、別に嫌ではないんです」
鈴介は瞬きをして夜鞠を見つめた。
「そんな目で見られたことがないから、少し驚いてしまいましたけど……。でも、嫌じゃなくて」
夜鞠は目をとろりと細める。なんだかいつもより艶っぽい顔で、小首を傾げて、夜鞠はふっと笑った。
「……さっきお風呂場で、君が僕をどんなふうに抱くんだろうって考えてたら、簡単にたっちゃって。単純でしょう?」
「…………」
鈴介は、驚いた顔をして固まった。
「…………夜鞠くん、酔っ払ってるでしょ」
鈴介が急に顔を赤らめて、夜鞠の首筋に顔を埋めた。反射的に夜鞠はビクリと跳ねる。その瞬間、酔ってなどいないと思っていたのに酔いが覚め、夜鞠は先程までの自分がふわふわとした思考で喋っていたことに気が付いた。鈴介は顔を埋めたまま、小さな声で尋ねる。
「……だからシャワー長かったの?」
「…………僕さっき何て言いました?」
「……今日の夜鞠くんはシャワー好きだったってことにしておくね」
鈴介は、動揺している夜鞠の口にキスを落とす。焦げ茶の瞳で、ゆらゆらと夜鞠を見つめる。心臓が加速する。どうしようもない、焦りにも似た気持ちが、鈴介の心を占めている。
「…………少し好きにさせて」
鈴介は夜鞠にべったりとくっつくと、手のひらで夜鞠の頭を撫でた。惚れ惚れと、その顔を見つめる。
「……夜鞠くんは、俺の好きな顔なの……。あのね、あと声も好き……。だからね、今こう……わーってなっちゃった……ごめん……」
「いいですよ、いくらでも触って」
「……だめだよ、だってほんとに好きなの……ひとめぼれだよ、そんなのないよ……」
鈴介は、夜鞠の胸に顔を沈めて唸る。
「……食べちゃいたい」
「あはは、鈴介くん、飲み過ぎじゃないですか」
「ううん、酔ってない」
鈴介は、夜鞠の鎖骨にキスをする。少し汗ばんだ首筋を見ていたら、頭がおかしくなりそうだった。
「……でもそうだなぁ……、今日くらい、酔ったってことにしちゃおうかなぁ」
鈴介は、夜鞠の腹を探るように触る。夜鞠は苦笑をこぼしつつ、自分の腹に手を当てて、首を傾げた。
「……これ、気になります?」
「うん」
夜鞠は無言で天井を見上げて、すっと目を閉じた。
「……13歳のときに、自分はゲイだと知りました。ただ呆然と、『ああ、僕は男が好きなんだな』って。そう思いました」
鈴介は、夜鞠の上から降りて、隣に寝転がった。横向きになった夜鞠に抱きかかえられて、左手で頭を撫でられる。
「…………なんでしょう、ナメられたくない……みたいな気持ちがありました。……劣等感かな」
鈴介は夜鞠をじっと見つめる。それから、ゆっくりと手を伸ばして抱きしめ返した。夜鞠は一度驚いた顔をして、小さく苦笑をこぼす。
「まぁ、ハーフだったのもありますけどね。とにかく、あの頃は、弱く見られたくない、強がらなきゃ……みたいな気持ちでいました」
「……だから入れたの?」
「…………まあ、うん。他にもいろいろあったけど……一言で言うと、やっぱり背伸びですかね。大人になったみたいで、気持ちが良かった」
夜鞠はぼんやりとどこか遠くを見つめていた。過去の自分をしょうがないやつだと見つめているようにも見える。鈴介は夜鞠の顔を見上げながら首を傾げた。
「…………なんでちょうちょにしたの?」
夜鞠は鈴介を見る。子犬のように腕の中に収まる彼を見て、また夜鞠は鈴介の頭を撫でて笑った。
「……自虐かな」
「じぎゃ……じぎゃく?」
「うん。女性っぽいデザインでしょう」
夜鞠は、左手で自分の腰辺りに手を当てる。それから目を伏せ、囁くような声で言った。
「……わざと自分からそういうものを選んだのは……他の人から傷つけられるのを避けたくて」
人から言われたら傷つくようなことも、自分から言ってしまえば、自虐ネタとして消化できる。自分の気持ちとしては、それがよっぽど楽なのだ。
「……ぶきっちょなんだね、夜鞠くんは」
「ぶきっちょって……何ですか」
「ええと、不器用のこと……」
「っはは、そうですね……! 少なくとも、あの頃の僕は」
夜鞠は笑って、するりと裾を捲った。青く美しい蝶が、白い肌によく映えた。
「……でも、今は、案外似合うと思っています」
「うん。すごく似合う。かっこいい」
鈴介ははにかむ。
「……夜鞠くんは自虐癖があるのかな」
夜鞠の頭に手を伸ばして、短い髪を優しく撫でる。
時々、彼は自分を卑下することがある。今振り返ってみれば、彼は傷つけられることを、極端に怖がっていたような気がするのだ。
「……誰かが、夜鞠くんを傷付けたの?」
夜鞠は静かに俯く。
「……ううん。これはただ、僕が過剰に武装しているだけです。誰かが、直接的な悪意を持って、僕を傷付けたわけじゃありません。…………それでも僕は……色んなものに、勝手に傷つきそうになった。だから、守ろうとしたんです」
誰からも否定されていないのに、勝手に自分で、否定されていると思い込んだ。
何も危険のない場所で、厳重な武装をして、おもちゃの剣でも持って震えている自分は、周りからはたいそう滑稽に見えただろう。
「…………見えない敵ってのが一番怖いもんだよね。……どこを守っていればいいかわからないんだもん」
そんな夜鞠の側に、ひょいと飛び込んできたのが鈴介だ。彼にその自覚はないだろうが、彼のおかげで、確かに自分は、少しずつ、自分を好きになれている。
夜鞠は鈴介を抱きしめた。きゅっと腕を抱えて、縮こまる。鈴介は、夜鞠が初めて子どものように見えた。
「……そんなの、わざわざ見ようとしなくていいって、気にしなくていいって分かっててもさ、目が勝手に探しちゃうんだよね、見えないのに」
鈴介は、優しい声で夜鞠に語りかける。どんな自分も、決して否定しない。自虐も、自己中心的な性格も、決してやめろと言わない。
鈴介は夜鞠の背に腕を回して、ゆっくりと撫でた。
「俺に、君を見えない敵から守れる力はないけど、一緒に『怖いねぇ』って言ってあげられるよ。一緒に泣いて、一緒に怒ってあげられる」
鈴介は、夜鞠の胸に擦り寄って、ふっと笑った。
「……夜鞠くんが、一人で怖がらなくてよくしてあげられる」
心に、風が吹く。風鈴を優しく揺らす、夏の柔らかい風のように、心地よい。夜鞠は涙が溢れないよう目を閉じて、微笑んだ。
「……鈴介くんのそういうところが、僕は好きです。……自分がどの程度の人間かがよくわかっている」
「……いい意味?」
「え、悪く聞こえましたか?」
鈴介は目をぱちぱちさせて、夜鞠を見た。夜鞠は鈴介から腕を離して、自分の顎に指を当てた。
「えっと……自分のことも相手のことも、よく見て聞いて、理解しようとしてるところ……ですかね。全部不安消してあげる! みたいな、大きすぎることを言わないから、君の言葉は僕にとってすごく安心できます」
「ああ……そういうことだったんだね」
鈴介はくつくつと笑う。
「……悪い意味じゃないなら良かったや」
鈴介は起き上がって、ベッドから飛び降りた。
「俺お風呂」
「鈴介くん」
鈴介は振り返る。夜鞠は眉を下げて、恥ずかしそうに笑った。
「……やっぱり、今からバーベキュー再開してもいいですか? お腹空いてたみたいで……」
「っははは! いいよ。じゃあ俺炭いれてこよー」
鈴介はウッドデッキの方へ向かう。夜鞠も、起き上がると彼を追いかけた。
「……お風呂はいいんですか?」
「うん! また匂いついちゃうからねぇ」
楽しそうに炭を準備している鈴介の側に寄っていって、懲りもせずに耳打ちする。
「……じゃあ、後で一緒に入りますか?」
「はっ……!」
鈴介はぴょんと飛び上がって、顔を真っ赤にした。かわいい、と夜鞠は心の中で呟く。
「……はいり、……ない……」
「あはは、どっちですか?」
「…………入りたい」
鈴介が、真っ赤な顔で夜鞠を見上げてそう呟く。期待を溶かしたような色の瞳に見据えられ、夜鞠はどきりとした。
「……あ、はは……鈴介くん真っ赤ですよ」
誤魔化そうと、夜鞠は下手くそに笑った。しかし、鈴介の目は、じっと自分の顔を見ている。ここまであからさまだと、ごまかしなど通用しないのは、流石にわかっていた。
「……ふふ、うつしちゃった」
鈴介ははにかむ。夜鞠は、口元を手で押さえて、バツが悪そうに目をそらした。
「……今日はだめです。何したって君に負けてしまいそう」
「ふふふ、やったぁ」
鈴介はケラケラ笑いながら、空を見上げる。
「……あっ、見て見て夜鞠くん! 月が見えるよ!」
「本当だ、綺麗ですね……」
鈴介は一度瞬いて、少し頬を赤らめて笑った。
「…………うん。綺麗だね」
星空からは雲が消え、街から見るのとは違って、夜空がほのかに明るく見える。二人は星の下で火を囲み、食事と会話を心ゆくまで楽しんだ。
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