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#8「どこまでもお人好し」 ④
翌朝、午前九時半頃。
目を覚ますと、シャワーの音が聞こえてきた。横には悠の姿は無い。いつもなら俺が起きてもまだ寝ているか、先に起きても俺の目覚めを待ってくれている悠だったが、今日に限っては先にベッドから起き上がってシャワーを浴びていた。そのまま浴室に向かって二人で入っても良いはずだが、やはり昨日の喧嘩が頭を過り、どうしても気まずさを感じてしまう。
しばらくするとシャワーの音が止み、浴室から出た悠が洗面台でドライヤーをする音が聞こえてきた。その間も、俺は寝起きの朦朧とした意識と気まずさの中、布団の中から身動きを取ることが出来ずにいた。
ドライヤーを終えて、部屋に戻ってきた悠と目があった。
「…おはよう」
「…おはよぉ…」
いつもよりも気怠げな返事。やはりいつもの調子ではなさそうだ。
「…シャワー浴びてきたら?」
「…いや、いい、かな。家帰ってからで」
「…うん」
口数少なく、淡々と着替えを始める悠。ああ、もう帰るのか。と何も言わずとも感じ取り、自分もベッドから出て着替えを始めた。
ホテルから出ると、十二月の冷たい空気とは裏腹に、朝の暖かい陽が射していた。悠の様子を伺うと、まだ眠いのか、朝日が眩しいのか、目を細めて下を向いている。電車に乗り、最寄り駅に着いて帰路を歩いている間もお互い無言のままだった。
◆
家に着いてからも気まずさが解消されることはなく、悠は黙ってスマホをいじっている。居た堪れなくなった俺は、頭を冷やすために浴室へと逃げ込んだ。
シャワーを浴びながら、悠の昨日の発言を反芻する。悠の言う「普通の人」とは、異性愛者のことだろうか? 悠は俺の事を元より同性愛の気が無く、ただ流されるまま男と付き合っている異性愛者だと捉えているから、昨日のような発言をしたのだろうと推測した。
元々男好きな悠と、異性愛者だが男と付き合っている俺とでは、意識の乖離があるのは当然だろう。確かに悠の言う通り、俺は世間から「一般的でない」とされている人々をただ認識しているだけで、理解しているとは言えないのかもしれない。
それでも…当事者目線に立てない俺でも、「普通がよかった」という悠の発言に、強い引っ掛かりを感じていた。
「昼飯買ってくる」
シャワーを終えて出かける準備をし、悠の返事も待たぬまま逃げるように家を出た。
悠との蟠りを解消するにはどうしたらいいか考えても、いつも通りの話し合いしか思い浮かばなかったが、それをするにはまだ何かが足りていないと感じた。話を切り出すきっかけとなればと思い、誕生日ケーキを買いに行こうと思い立ったのだ。
コンビニで昼飯を調達した後、駅前のケーキ屋に寄る。クリスマスにもケーキは食べたし、もしかすると要らないと言われてしまうかもしれないが、それでも何かせずにはいられなかった。
落ち着いた雰囲気の店内でケースに入ったケーキを眺めていると、何故か悠長にしてはいられないと思い始め、ソワソワと落ち着かない。悠を一人で家に置いてきてしまったことが、今になって気がかりになってきた。謎の焦燥感や胸騒ぎが判断を急かしてくる。だが、やはり焦っていては正常な判断が出来ない。そんな状態でケーキを見ていても、どれが良いのかさっぱり分からない。
そんな中、他のケーキよりも一層カラフルなフルーツタルトが目に入った。スイーツやデザートにはあまり詳しくないし、悠の好みもよく分かっていないが、直感に任せることにした。
タルトを購入し、足早に家へ向かう。どうも落ち着かない。何か嫌な予感がする。早く家に帰らなければ。
◆
家に着き、急いで玄関の戸を開ける。
「…ただいま」
部屋の電気が付いていない。いつも居る奥の部屋には悠の姿は見当たらなかったが、玄関から入ってすぐ左にある洗面所の電気が付いていることに気が付いた。恐る恐る覗き込むと、そこには洗面台に両手をついて下を向いている悠の姿があった。
「ゆ、悠…?」
項垂れているように見える悠の元へ近づいてみると、洗面台に一本の剃刀が落ちているのを見つけ、一気に血の気が引くのを感じた。
「…!」
思わず悠の両手を掴み、腕を注視した。
「き、切った…のか…?」
声をかけても、悠は顔を上げようとしない。だが、腕には薄くなった古い傷跡しか無く、剃刀や洗面台に血痕らしきものも見当たらなかった。
「…?」
「き…きってない」
状況が理解できずにいると、ようやく悠が口を開いた。前髪からわずかに覗く目や頬には、涙の跡があった。
「浩樹くんが僕を置いて家を出ちゃったから、また嫌われたのかと思って、不安になったけど…。浩樹くんと約束したから、切ってない」
小さな震えた声で話す悠。両手も微かに震えているのが伝わった。
「もう浩樹くんに嫌われたくないのに、面倒臭いって思われたくないのに、いつも同じこと繰り返して…。こんなこともうやりたくないのに、全部が不安になるし」
すでに充血している目からまた涙が溢れた。
さっきから続いていた俺の嫌な予感は半分的中し、半分外れていた。何故なら、悠をまた不安にさせてしまったのは事実だが、それによって取り返しのつかないようなことは起きていなかったからだ。
「…でも、お前、切らなかったんだよな?」
悠がこくんと頷いた。
「不安にさせたのは今回も俺が悪い。けど、お前は自傷せずに堪えたんだよな? それだけで十分だよ。昨日は俺が全部悪い。お前は悪くない。それだけだ」
「…」
「お前が無事で安心した」
そう言うとまた悠が大粒の涙を流した。
「ううっ、ううう…っ!」
泣きながら顔を手で覆う。そんな悠の肩を抱きしめた。
「ごめんな。気が済むまで泣いていいから。面倒臭いと思われるとか、いちいち気にしなくていいよ…。俺の方がよっぽど面倒臭い人間だし」
慰めたつもりだったが、悠は黙ったままだ。鼻を啜る音だけが聞こえる。
ふと、思わず床に置きっぱなしにしたフルーツタルトのことを思い出した。
「ほら、昼飯にしよう。昨日から何も食べてないから腹減ってるだろ」
悠の肩を支えたままテーブルへ向かい、買ってきたケーキを目の前で開けてみせた。
「ケーキも買ってきた。ケーキってかタルトってやつ」
店員にホワイトチョコペンで「ゆうくん おたんじょうびおめでとう」と記して貰ったチョコプレートが乗っかっている。
「………」
泣き腫らした目でタルトを見つめている。
「い、要らなかったら無理して食べなくていいからな」
ずっと黙っていた悠だったが、顔に手を添えたまま途端に吹き出した。
「…え、なにこれ」
「…いや、誕生日だから」
「昨日買ってもらったじゃん。プレゼント」
「まあ、それはそれとして…。やっぱ誕生日っつったら、ケーキかなって」
「…ふふ、子供以来かも。誕生日ケーキ」
目は充血し、頬には涙の跡がつき、しきりに鼻を啜ってはいるが、ようやく笑顔を見せてくれた。
「ごめん。ご機嫌取りみたいに感じるかもしれないけど…」
「…ううん。ありがとう。こっちこそ、勝手に暴走してごめん」
そう言って悠はティッシュを手に取り、目周りを拭った。だいぶ落ち着いた様子を見て、俺自身も少しずつ落ち着きを取り戻してきた。
「…あれからずっと考えてたんだけど、やっぱ僕が普通じゃないから、そんな奴からいくら好きって言われても、信じろってのが無理な話だよね。その上浩樹くんから好きだって言われたこと無いからって怒ったりして。馬鹿だよね、好かれるはずなんかないのに」
「…いや、自分の気持ちを上手く言い表せない俺の方こそ悪い。それと、お前昨日から自分が普通じゃないからとか言ってるけど、別に無理に普通になろうとしなくてもいい。それがお前の普通ならそれでいいだろ」
何かを考えてるような表情で、黙って俺の方を見つめる悠。
「昔の奴らに何言われたか知らないけど、そんな奴らの言う事真に受ける必要無いし。確かに最初お前と知り合ったばっかりの頃は、めちゃくちゃ非常識な奴だって思ってたし、許せないって思ったこともあったよ。でも、俺の言う事に真剣に向き合ってくれて、少しずつだけど変わってきてるのは感じてるから。いちいち卑下するなって前にも言ったろ。それに何度も言うけど、今回は完全に俺が悪かった」
悠は相変わらず黙ったままだが、度々小さく頷き、俺の話を聞いてくれてはいるようだった。
「…俺も、相手についても自分についてもこんなに考えさせられる奴に会ったのはお前が初めてだよ。お前に会ってなけりゃ、ただの都合のいいお人好し止まりだったんだろうなって思う」
自分の想いを整頓するように、言葉を捻り出す。
そして、悠の両肩に手を置き、向かい合った。
「もし、これでお前が安心するなら…」そう言って、顔を近づける。
好きだ。
…と言いかけて、思い止まった。肩に手を置いた状態で硬直する。
「…?」
悠が不思議そうに見つめる。
「…やっぱ駄目だ、こんなんじゃ…。こんな事してると、過去にお前に勝手に近づいてきた奴らと同じだから」
「…え?」
「分からせようとするんじゃ駄目なんだよ」
自分の考えや想いを伝えようとするのと、相手を自分の思うようにコントロールしようとするのとでは手段が似ていようが全くの別物だ。俺は今、悠が散々欲しがってきた「好き」という言葉だけでその場を切り抜けようとした。その言葉さえ与えれば、悠が抱えている不安が解消されると思ったからだ。でもそれは違う。人の複雑な精神の前にはそんな言葉だけでは不十分だし、何より不誠実だ。現に今こうして思い止まっている時点で、言葉と心情の乖離があることに相手にも感づかれてしまうのではないか? 俺の本心が自分でも分からない状況でこんなことを口にす「んぐっ……!」
…頭の中でごちゃごちゃと考えながら硬直したままでいると、痺れを切らしたのか、悠が不意にキスしてきた。
「…なんか余計なこと色々考えてたんでしょ? どこまでもお人好しだね」
案の定、見通されていた。
「言って」
「…へ?」
「さっき言いかけたこと」
「…」
「お願い」
大きくて真っ黒な瞳に見つめられると、もう逃げる事はできない、と感じた。
「…あ…えっ…と…、
……好きだ」
言った直後、ずっと強ばったままだった悠の表情が綻ぶ。
「嘘でも嬉しい」
そう言って抱きついてきた。
「嘘でも嬉しい」と言わせてしまったことに、とてつもない罪悪感を覚えた。この言葉が実感を伴うに至るまで、どれくらいの時間を費やせるだろうか。
「…お腹すいた。ケーキ食べていい?」
「…あ、おう。ちょっと待ってな、切り分けるわ」
キッチンへ包丁を取りに行って戻ると、悠がタルトの写真を撮っていた。
「へへ。かわいいケーキだから、母さんにも見せようかな」
そう言いながらスマホを操作していた。普段親と連絡を取り合うことはあまり無いと言っていたのに、ケーキの写真を見せようとするなんて随分と機嫌が良くなったようだ。
タルトを切り分け、別に買っていた昼食も温め直してテーブルに並べた。
「…ごめん、ちょっとぬるくなってるわ。放置してたから…」
「別にいいよ。美味しいよ」
「嫌いな果物とか無かったか? アレルギーとか」
「無いよ。アレルギーも無いから大丈夫」
「…実は俺、キウイちょっと苦手なんだよ」
「えっ? じゃあこれ買わなくてもよかったのに。僕が食べるからちょーだい」
タルトをつつきながら、何気ない話を繰り広げる。お互いいつも通りの調子に戻り、いつものように昼食を摂る。
その時、悠のスマホから通知音が鳴った。
「あ、母さんからだ」
先程送った写真への返事が来たのだろう。すると、程なくして着信音が鳴り響いた。
「……母さんが電話してきてる…。ごめん、出ていい?」
「う、うん」
悠自身も、急な母親からの電話に少し戸惑っているようだった。
「もしもし、どうかした? …う、うん、ありがとう」
通話相手の悠の母親の声は当然聞こえないが、大体何を言っているのか察しがつく。母親が息子の誕生日に電話をかけてくることなど、何ら不思議なことではない。
「うん、そう、買ってきてくれて…今食べてる。うん、うん…そう、前言ってた友達。そう、一緒に…。…あ、えっと、実は…。もう友達じゃなくて、恋人…なんだよね」
「!?」
突拍子もないカミングアウトに思わずタルトを拭き出しそうになった。それを横目に見て少し笑っている悠。
「…うん。うん。ありがとう。…単位? 大丈夫だよ。…わかった、また電話するよ。何かあったら」
じゃあまた、と言って通話を終了した。
「………」
「…言っちゃった」
「言っちゃったって…ええ…? いや、別に言うことが悪いとかじゃ無いんだけど…。お母さん、びっくりしてなかった?」
「びっくりしてた…けど、ああ、そうなんだ、一緒に住んでるんだったら、迷惑かけないようにね、って。割とすんなり受け入れてくれてた…のかな?」
「あ、ああ、そう…。理解のあるお母さんで良かったな」
「…うん」
ほんの少し緊張しているように見えたが、どことなく嬉しそうだ。
「嬉しいな。もし何か言われても、人の言う事なんか気にせずにいようって思ってたけど、こうして普通に受け入れられるとやっぱり嬉しい。今後も大丈夫かもって思える。ちょっとだけ」
「…そうだな。俺もだよ」
悠は嬉しそうに微笑んでいるが、目には少し涙が滲んでいた。
「あっ、そうだ」
タルトと昼食を食べ終えた後の片付けをしていると、悠が何かを思いついたようにこう言った。
「年が明けたら初詣行こうよ。僕行ったことないんだよね」
「…ああ、初詣か。いいね。行こうか」
ふと、海に行ったあの日の帰りに、また遠出しようと話していたのを思い出した。
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