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第5話 雨降ればどしゃ降り

 怜を残業メシに連れ出すことに成功した真人は、散歩に連れて行ってもらえる犬のように浮き浮きしている。エレベーターのボタンを押す短い時間に、フットサルのシュートを打つような動作を入れている。 (なんで、そんなに嬉しそうなんだよ。たかがラーメン食うぐらいで)  怜は複雑な気分だ。自分と二人きりで食事に行く短い時間を、こんなにはしゃいで喜んでいるのかと思うと嬉しい反面、彼が他の女性と濃厚なキスを交わしていたのは、つい昨日のことなのだ。真人の真意が、まるで分からない。  ラーメン屋は会社から歩いて十分と掛からない距離だ。真人はチャーシュー麺を、怜はつけ麺をそれぞれ頼み、ぺろりと平らげた。しかし帰り道、二人はにわか雨に遭ってしまった。真人は全くためらわず、急いで自分のパーカーを脱ぎ、頭から怜に被せる。少し視界が狭まって、真人の匂いに包まれてドキドキしてしまう。頬が熱い。恥ずかしくて、怜はモジモジと俯く。 「大島さん、どうしたんすか? オフィスまで走れます?」  怪訝そうに怜を覗き込もうとする真人を止めるように、怜は早口で聞いた。 「や、上着貸してくれるのはありがたいけど、春田は大丈夫なの」 「あぁ。俺、会社にフットサル用の置きジャージあるんで。戻ったら着替えます。それよか、大島さんのシャツ薄手だから、濡れたら寒そうで」 「……ありがとう」  言葉少なに、怜は走り始めた。横を走る真人も、怜を気遣いながら、足取りはしっかりしている。さすが日ごろからフットサルで鍛えているだけはある。  信号待ちしている間に、雷が鳴り響き、急激に雨脚が強まった。 「これ、ヤバいっすね。雨宿りしましょう」  真人は目を眇め、自分たちのいる交差点の背後にあるビルを指差した。 「こういう雨は、少し経てば止みますから」  ビルの通用口の狭い(ひさし)に、二人は肩を寄せ合う。真人は心配そうに怜を見つめ、しっかりパーカーのフードを被せ直し、羽織らせるだけでなく、ファスナーを引っ張り上げて前を閉める。彼に包まれているように温かい。照れ臭くて、怜が無言のまま口を尖らせて目を逸らすと、真人は独り言のように呟く。 「大島さん、仕事抱えすぎじゃないすか? あんまり寝てないでしょ。(くま)がすごい」 「うるせー。お肌の調子チェックしてるとか、セクハラだぞ、それ」 「心配しますよ。そんだけ顔色悪きゃ」  怜の顔を覗き込む真人の表情が、好青年の部下から、ふっと一人の男に変わった。彼は無言で自分のマスクを引き下ろし、怜のマスクの上からそっと口づけた。数枚の不織布は、防御壁としては、いかにも頼りなくて、真人の唇の柔らかさと温かさが浸食してくるのを防げない。真人のパーカーの下で胸が激しく脈打っている。口から心臓が飛び出しそうだと感じてしまい、怜は無意識に口を貝のように噤んだ。目を閉じることのみならず呼吸すら忘れ、パニックで完全に固まった怜を、真人は『キスしても拒まなかった』と受け取った。  彼が怜のマスクに指を掛けた瞬間、怜は体をこわばらせ、びくりと激しく震えた。熱いものに触れて火傷した時のように、真人は自分の手を引っ込めた。その目には、怜に拒絶された落胆と衝撃が浮かんでいる。 「……すいませんでした」  沈んだ声で、彼はぼそっと一言謝ると、激しい雨が続く中を、一人走って行った。 (なんで、僕が春田を拒絶したみたくなってるわけ? グラフィックデザイナーの女の子と熱烈にキスしてたの、昨日じゃんか。なのに、今日は僕にキスしようとするって、どういうことだよ。全然、意味分かんないよ)  取り残された怜は、マスクの上から指先で自分の唇に触れていた。そこはしっとりと濡れている。怜自身の吐息と、雨と、真人の唇の湿度。そして怜の涙で。  もし、真人がただの通りすがりの不実な男だったら、肘鉄(ひじてつ)を食わせて追い払っている。こんなに胸が痛むのは、怜の心は真人のものなのに、真人にとっては、怜とのキスは戯れにすぎないからだ。

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