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第一章

 カイ・シュヴァルツが暮らす家の前には、幹に腕が回らないほどの大きな木が植わっている。  その大木の枝に長い紐を括り付け、カイとミアの食料分が採れる庭を挟んだ家の雨樋に、もう片方を結んで、洗濯した衣類を干すのだ。  隣国アルテリアの三分の一にも満たない小さな国、セレン。  国内に点在する魔導師が人々の日常を支え、彼らが施す術に自国で採掘される宝石が多用されること、また、手作業で染め上げられる美しい漆黒の染色技術、そこから由来して、名前を、黒く透明な石「セレンディバイト」から名ずけられた。  その国の中央に聳える王宮内の末端に、この小さな家、……もとい洗ったものを干す紐もある。  家と言っても小屋に近い造りは簡素で、それぞれの寝室と納戸に使っている部屋が一つ、食事を作るちょっとしたスペースが一間続きになった仕事場兼居間があるだけだ。  現国王、王妃両陛下に側室含む第三位にまでなる三人の王子が住まう後宮と、政を司る宮廷、正規軍兵舎、魔導師の集う魔塔、それらを包括する王宮内は迷路のように入り組み、複数の隠し扉や地下道、入り組んだ林に隔てられ、カイの暮らしを知る者はほぼ居ない。  ミアを除いた家族、友人知人は住んでおらず、もちろん執事や従僕も居ないので、生活の全般を自分たちで賄っている現状、家事も自分たちでこなす。  例えば今のように洗濯も例外ではなく、カイも近々(きんきん)の仕事がない限りは、いつも身につけている黒い手袋を外し、普段着であるシンプルなズボンをたくしあげてそれに勤しむ。  長い前髪は前に垂らし、肩についた分はミアが気まぐれに編んでくれる。今日は耳の端の両脇を少しだけとって編み込み、左側へ緩く結んでくれた。  もともと他人(ひと)様(さま)に傅(かしず)かれるような生活を送ったことはなく、ほとんどはカイも同意でこういう暮らしをしているので特に文句はない。  大きな盥(たらい)になみなみと入れた水が揺らめき、服を踏みつけるたびに波打つ感触が心地いい。濡れた白いシャツの袖口は肘のあたりまで捲りあげている。  朝露が残る草花と冷たいその肌触りは、夏の始まりの蒸し暑さをかき消して、気持ちまでも清々しく涼やかにするのだ。  一瞬、視界に薄い緑が反射したように見えた。 「なにか飛んだんですか?」  緊張のない、けれど特別柔らかくもない声が背後から聞こえた。盥の中に居るカイの一方で、ミアが呆けて空を見上げていたように見えたらしい。  トガと呼ばれる肩がドレープ状になった服を着たミアは、細い腕を胸元で祈るように引き寄せ大きく肩を震わせた。足首まである巻(まき)衣(ぎぬ)の腰に巻いたベルトの飾りと、編み上げサンダルに括りつけた同じそれが揺れる。  不意の一声に傍らのミアは明らかに驚き、それを傍目にしたカイは、一瞬の隙を付くような真似をした相手を窘めるように振り返る。  幼い頃からの顔馴染みに遠慮はいらないが、同年代異性への気遣いは果たされるべきだ。 「ヴィンセント、驚かすなよ」  そう呼ばれた男が、肩を竦めて小首を傾げた。  陽に透ける薄い金色の髪に、赤い瞳の持ち主、ヴィンセント・シラー。  特別な者のみに許された特徴のある白い騎士団服をさらりと着こなし、今年二十三になった彼は、見栄えのする相変わらずの容姿でカイの目を惹き付けた。  きっちりと寸分の狂いなく、身体に馴染んだジャケットとズボン。それから、所属する第六兵団を表す胸元の金のライン飾りと、階級を示す肩章に編み上げのブーツ。  適度に引き締まった体躯はそれらをより輝かしく見せ、ヴィンセントを引き立てる。  人の見た目をあれこれ言うつもりはないが、よくもここまで立派に育ったものだ。カイ自身もミアだけは見た目を褒めてくれるが、涼しげだと言われる顔に派手さはないし、室内が似合う青白い肌は軟弱で、ふた周りは身体が華奢だ。特筆して特徴のないそんな自分とは対照的だと思う。  大きな立襟のある膝下丈のマントは裏地が深い緑色で、風に靡(なび)くたび、奥の林に続く周囲の景色に同化している。  それを片腕で荷物のように持ち、静かに佇んでいる男。ヴィンセント。  この男を見るのは久しぶりだった。 「いつ帰ってきたんだ」 「ついさっきですよ。報告を終えて、その足で」 「……ふうん、どうせ腹減ってるんだろ。部屋で待っててくれ」 「減ってますけど……ああミア、ごめん。驚かせたな」  話しながらミアを軽く抱き締めて挨拶をしたヴィンセントが、その肩を引き大木の影に遠のいた。「いいえ、お帰りなさい」と続く安堵したような声はいつもの流れだ。  そのすぐ後ろで微動だにせず成り行きを見守っていたのは、ヴィンセントの側近であるギルバート・キーファーだ。  彼がカイに向かって小さく頭を下げた。  短く整えられた黒い髪と榛色の瞳。  緩むことがない背筋に、寡黙が歩いているようなこの男は貴族出身の次男で、正規軍候補生の頃にヴィンセントと知り合ってから、二人はそのまま今の関係が続いている。  長身の背丈は百八十を越すヴィンセントには及ばないが、立派な胸元の厚みと大きさは同等かそれ以上だ。  ヴィンセントと同じ小騎士兵団部隊内の副少尉の地位に座すそんな彼の視線を感じ、カイは一瞬首を傾げ、そしてすぐに真意に思い至った。  水盥から数歩下がった目当ての相手を改めて見返すと、逆光でわからなかったが、陰った位置に移動した男の髪は、カイの想像よりも白銀に近く色を変えていた。 ヴィンセントの髪の色は変化する(・・・・・・・・・・・・・・・)のだ。  自分の「腹が減っているのだろう」という言葉は、あながち間違っていなかったのか。 「……髪の色、しらちゃけたな」  返事を期待した訳ではないが、思ったより声が小さくなる。  その小さな言葉にも敏感に何かを察知したヴィンセントが、カイの視線を独占する己の髪に気がつきそれを指で掴んだ。 「見た目ほど悪くないですよね? 気づいたのはあなたくらいだ」 「……お前、視察だって言ってなかったか? いつも適当なことばっかり言いやがって」 「そのつもりだったんですけど」  国境付近の視察に出かけると言われたのは約二月前の寝入り端のことで、ヴィンセントが暮らす正規軍兵舎とここは遠く離れているので、普段その時間に相手が尋ねてくることは滅多にない。  だから行儀悪く部屋の窓の外まで来たヴィンセントに、カイは玄関から入れとも言えなかった。  小さく開けたガラス越しに「すぐ帰ってきますけど」と指先一本触れもせず言われては、むやみに口を開けなかったのだ。  小憎らしく冷静な眼差しが見られなかった間の出来事で、白く抜け落ちた髪。苦々しい思いでそれを見る。 「俺が行ったら一発で終わるのに」 「嫌な言い方だな」  趣旨返しとして小さなため息混じりに零すと、ムッとした相手がボソリと言う。  その言葉には唇の端を少しあげただけで返した。  カイは便宜上、宮廷魔導師として登録されてはいるが、その【力】ゆえに存在は秘匿されている。  金、宝石の他に鉄などの原料を加工した軍事機器の輸出で、その立場を強固にしてきたセレンは、一方他国の中枢が抱えているとされる【魔法師】の存在を古くから警戒し、驚異に感じてきた。  自然界を司る精霊、もしくは、悪魔や魔物といった類の怨霊。  それらと契約することで不可能を可能にしてしまう魔法師、いわゆる魔法使いの力は偉大だった。  特に国境を接する大国アルテリアには、王家の血を継ぐ者の中にそれが居るのではないかと囁かれており、セレンはその対抗策として、古くから力を借りてきた魔導師を集め、化学と知識で国を護り支えてきた。  なにより、小さな国内の権力を二分する教会側の圧力があり、国王は魔法師を排除せざる得なかったのだ。  人々を惑わし、災いをもたらすとされる()のつくものに対して否定的な教会側は、国が頼る魔導師(・・・)に対しても懐疑的だった。  権力を維持したい国王側と、その地位を奪いたい教会側。  そのことから、面倒事を起こしかねない新たな勢力、魔法師を、国王は排除したがった。  結果、内情はどうであれカイもそういった経緯の一端(・・・・・・・・・・)でこの力を手にし、それ以降、カイの【力】は他国の追随を許したことはない。  そもそも魔法師の存在の真否は確かではないのだが、カイ自身はただ、この力が必要とされる限りそれを行使するだけだ。  切り札として隠し守られているカイの力。  他国は、この力が及ぶ限りここを制圧できない。 「どこでなにが起きても、あんたはここを離れないでしょ」 「あ、嫌な言い方だな」 「カイが来ても足でまといですよ」  小さいし、非力だし、軽い。悪口の三連発を挙げ連ねたヴィンセントは、渋々といったていでカイのそばに寄る。カイよりも頭一つ分高い景色からの視線。  特別、ヴィンセントの言うようにカイが魔導師として能力が劣る訳ではない。カイ自身が個人的に直接攻撃を仕掛ける場合には身に宿るこの力はあまり関係してこないし、もともとの能力はそれなりにあるはずだ。  学ぶ機会はいくらでもあった。それくらいの長い時間を生きてきたのだから。 「これを」  不意に手のひらを差し出され、淡く柔らかい緑の光が視界に入った。さっきなにかが反射して見えたのはこれのせいだったのかもしれない。  翡翠の原石をのせたヴィンセントの手元に見入って、少しだけ、カイは昔のことを思い出す。  あれは遠い記憶の仄かな色だ。 「なんだこれ」 「おみやげです」 「みやげ?」 「そうです。だから仕事に使わないでくださいよ。帰りにちょうど採掘場の脇を通ったんです。鎮圧の礼を言われて」  ミアが寄ってきてにこやかに笑う。カイが受け取る前に恭しく両の手のひらを差し出すと、ヴィンセントは知ったふうにぽとりとそれを落とした。 「わぁ、……純度が高いですね。濁ってなくて綺麗」 「石を土産にされても困るだろ」 「そうは言いますけど、翡翠を贈られて文句を言うのはあんたくらいだ」  ミアは盥の水で汚れを簡単に洗い、陽に翳すように翡翠を指で摘んで掲げた。ヴィンセントは文句を言ったが、大きく価値のあるそれを洗濯物と同等に扱ったミアだって大したいい加減さだと思う。  別に、嬉しくない訳ではないが、ただ単純に戸惑ったのだ。  魔術と宝石は切っても切れない。日々忙しなくさまざまな石を手にし検分する。砕き、時には他の材料と組み合わせ、そうして仕事ができるカイにとっては、宝石は装飾品や贈り物というより日常で消費する食料のイメージに近い。  もちろん一般庶民には手が届かない代物だということもわかっている。  けれど産まれながらに黒髪で黒い瞳のカイにとっては、色素が薄い容姿の傾向が強い国柄の、ミアやヴィンセントのような何ものにも変え難い、光の加減で繊細に色を変える髪の色や、透明度の高い瞳の方が貴重なもののように思えた。 「どうすんだ、それ」 「どうしましょう、衣に縫い付けますか? ちょっと大きいかな」  ぼそりと唸る少女は存外に大胆なことを言う。当然彼女の言う衣とはカイが稀に袖を通すトガや、特別な時に着る、正装用のローブやらシャツのことを言っているのだろう。身なりに気を使う年頃のミアが、自分のことをそっちのけでそんな発言をするのは、たいていこうやってカイに対して盲目的な愛情や信頼を示す時に限る。  多分、幼い頃にそばにいた唯一の大人がカイだったからだろう。 「ミア、それは勿体ないだろ。せっかく小遣いを貯めてるんだ。一緒に持っとけよ」 「そうですね。そんなに気に入ったならミアが持ってるといい。もちろんミアの分もちゃんともらってきましたけど、ね? カイは要らないようだし」 「べ…っつに……いらないなんて言ってないだろ。立派な翡翠だったから仕事にも使えるし、ミアの櫛の飾りが取れてたからそれを直してやりたいし、使い道ならいくらでもある」 「……散々迷惑だ、みたいな態度をとっておいて?」  後半自分へ向けてチクチクと嫌味を言われてたじろいだが、とうとう呆れ返ったような声を出されて言葉に詰まる。  すると横合いから、ミアが一言、鈴のなるような笑い声を小さく上げて言った。 「そうですねぇ、これはカイの分なので、私が大事に保管しておきます」  ふふふ、とカイよりもさらに頭一つ分、ヴィンセントにしたら胸元に届くか届かないかの上背しかないミアが、纏まらない話を収めてくれる。  カイはさり気なく視線をさ迷わせながら、気まずさに小さく嘆息した。女性が居るとこういう時に助かるのだ。  一同一旦休憩とばかりに会話がついと途切れる。  しかしつかの間のそれは、その瞬間を狙ったとばかりに頭上で瞬いた声によって掻き消された。 「私にはおみやげはないの?」  忘れていたとは言わないが、わざわざ今声を上げなくてもいいだろう、とカイは思った。普段ミアとの優しい会話に甘やかされている自分にとって、この声は少し不吉だった。  カイは今から襲い来るちょっとした面倒事を思いながら、ヴィンセントとほぼ同時に、内心恨みがましく大木の枝を見上げた。 「…………リリー」  声にも何かへの懇願が混じる。  艶やかな白い長毛とヴィンセントと同じ赤い瞳を持つリリー。この猫は人の形に姿を替え、自由自在に言葉も操る化け猫だ。ある時ふとカイの元に現れたリリーは、なぜだか自分に懐き、気がつけば一番長く同じ時間を共有している。 彼女曰く(彼女と言うにも語弊があるらしく本当の姿が猫なんだか人間なんだかその部分も怪しい)、「カイの色が好きなの。落ち着くオーラよ」との事だったが、黒髪に黒い瞳だからだろうか。  居たり居なかったり謎の多いリリー然り、この国で魔導師や魔法使いがそれなりに知られた存在であるように、化け猫やその他近い類の魔物も珍しくない。  もっとも、それを日常と呼ぶには語弊があるのだが。 「リリー、まずは降りてこい。そもそも服を着てくれないか。猫に戻るとか、せめてどうにかしてくれ。目のやり場に困る」  ヴィンセントやカイは元より、ミアだって先程まで白猫の姿のままだった彼女を見上げ赤面している。  華奢な四肢に似つかわしくない豊満な胸元を惜しげもなく披露したリリーには、性別という概念も基本的にはない。もちろん恥じらいと言った可愛らしい感情があるはずもなく、ただ単純にミアがいちいち顔を真っ赤にしてオロオロとする姿を面白がっているのだ。  化け猫らしく口と目の端を釣り上げにんまりと笑いながら、陽の光が零れるような透明で高い声がぽろぽろと落ちてくる。 「ねぇ、おみやげが欲しいのよ。ミアが持ってるやつをちょうだい」 「あんたにはありませんよ。光り物は全部喰っちまうくせに、勿体ないだろ」  それに答えたのは、多少口汚くなったヴィンセントだ。それは、仲がいいがゆえ、とか遠慮のない間柄だから、とかの理由ではない。  ヴィンセントはことのほかリリーとの相性が悪いのだ。  なぜだかお互い顔を合わせるたびに牽制合戦をし始めるし、何に対してのプライドなのか、さりげなく罵り合う理由はカイには見当もつかない。  凡そ理解にも苦しむが、いつもいちいち巻き込まれるのは面倒なことこの上なかった。  脇目でギルバートにヴィンセントを早く部屋に入れろと視線を送りつつ、ヴィンセントの顔色を窺う。猫なで声とはこういうことを言うのだ。 「リリー、いい子だから降りてこい。光ったもんなら家の中にいっぱいあるだろ」  両の手をいっぱいに伸ばして語りかけると、信じられないと言った目で見つめてくるヴィンセントの視線をひしひしと感じた。それが顔から、伸ばされた指の先にまで行くのを仕方なしに放置していると、頭上のリリーがつまらなそうに欠伸を漏らした。 「カイは、本当に優しいのね。そういうところが好きよ。つまらない時もあるけど、かわいくて小さな坊やだもの。でも、やっぱりつまらない」 「あんた、いい加減にしろよ。もしかして好き勝手に暴れたんじゃないだろうな? カイのこれ(・・)はあんたがやったのか?」 「ヴィンセント、黙ってろ。リリーも濡れたままじゃ風邪引くぞ。拭いてやるから」  会話が不穏な方向へシフトした辺りで、さっさと切り上げたいカイは焦る。だいたいその行いは虚しく終わるわけだが、指先に集まる視線が痛かった。  これ(・・)と言われた、消し炭を集めて象ったように蠢くカイの手先(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。  見目悪く異形なそれは、さっきリリーが洗濯の水でびしょ濡れになった時に暴れたせいで、ところどころ、肘の方にまで広がっている。 「だいたいあんたもなんで手袋をしてないんですか?」 「しょうがないだろ、洗濯で濡らすのは嫌なんだ」  非難混じりの声に、ため息を零しそうになってなんとか堪えた。 この身体になってから(・・・・・・・・・・)カイは(・・・)被った箇所に通常の傷がつかなくなった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。  正確に言うと、傷口から血液が流れることはなく、空気に触れた途端に黒い炭状の破片がボロボロと溢れ出て広がるのだ。  そうして元の形を生そうと蠢くそれは、実際に痛くない訳ではないが、放っておいても治る。生命力云々ではなく、それがどんなに酷い傷でも、この身体は、そういう【力】に支配されている。  けれど一方で定期的に王宮側へ血液(体液でも構わないができれば御免こうむる)を提供しなければならないので、そうすると身体が一時的に弱り今回のようにいつまでも傷のあたりが形を定められないのだ。  手先が脆く、カイは手袋を手放せない。  ただ、今日に限ってヴィンセントが帰ってくるなんて、タイミングが悪いとしか言いようがないのだが。 「まぁ、いいや」 「あ、おい! リリー!」 「あとで宝石食べるよぉ」  にゃおん、と聞こえてきそうな甘い声を響かせて、リリーがあっという間に姿を変える。  ひらりと舞った長毛はもう乾いていたのだろう。ミアまでも状況を心配して眉を寄せて見守る中、最初に騒動に飽きたのはやっぱり猫だった。  おずおずと手を下げると、変に固まった空気が白々しい。だから嫌なのだ、リリーの移り気は。 「あの猫……だからさっき、ミアは空を見上げてるみたいに見えたんですね」  ヴィンセントがほとんど独り言のように言ってカイに振り向く。 「それであなたも怪我をしたのか」  カチっとはまった視線がまた、ボロボロと溢れ出る指先を追う。それはまるで責めるような言い方だった。  もう、何度も見てきたくせに。  見てきたし、現実を、ヴィンセントは知っているくせに。  後ろ暗いものを見られたようななんとも言えない罪悪感と惨めさに、ヴィンセントの問いに答えないまま、カイはそっと視線を逸らしミアへと向き直る。 「悪いけどミア、足を拭きたいからなにか拭くものを持ってきてくれないか」 「あ、はい、すぐに」  パタパタと足音を鳴らして屋内に逆戻りした先を、カイやヴィンセント、ギルバートが視線だけで追った。  菫色の混じった白銀の髪を後ろで緩く結んだ先が煌めき、同じ菫色の瞳も、最後にギルバートを一瞬だけ捉える。  こうやって、普段は表には出さずとも、不意に見せる、なんらかの欠片がポロリと零れると、カイは少しだけ安堵した。  後ろめたさに駆られた時は尚更、心を他に移して安心する。 「なぁ、ギルはミアを大事にしてくれるかな」 「ギルバートですか?」 「うん」  なんとなくだが、少し前から薄々漂うお互いへの好意をカイは感じていた。ヴィンセントに向き直ると、ああ、と納得した顔をする。「どうでもいいです」とでも言いたげに、持っていたマントを広げて両腕を差し出してきた。 「なんだよ?」 「運びます」 「はぁ?」 「どうでもいいです」  やっぱりどうでもよかったのか。  自分の従者であり親友とも呼べる相手に、こうも無関心でいられる気が知れない。  ギルバートの無骨さはいささか不器用すぎるきらいもあるが、穏やかに愛情深く接する人となりは長年見てきて知っているし、ミアを預けるのなら、まぁ、やぶさかではない、そう、親代わりの身でありながら思っていたのに。 「お前、女の子にもそういう態度をとってるんじゃないだろうな」 「そういうって?」 「冷たくしてやるなってことだよ。居るんだろう、そういう相手が」  ヴィンセントは、カイの嗜めるような視線に、虚をつかれたように瞬いた。  じっと交りあわせ、じきに表情がなくなると、風に揺れた前髪が赤い瞳を掠めていく。  静かで穏やかな顔をして、一度逸らした視線を戻してカイを見つめた。 「あなたは? 誰かと生きていけるんですか」  永遠の時を?  そう聞かれた気がして、カイは答えられない。  その問いの答えを、カイは今だって探しているからだ。  ヴィンセントは分厚いマントを一度大きくはためかせて無造作に芝の上に置くと、「使ってください」とそう言った。小さくなる背中を見つめながら、カイはずっと、その場に立ち尽くしたままでいた。

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