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第二章

 カイはもう、当時そういう(・・・・)存在だった。  何百年もの年月を生きたカイは、一国を護れるほどの【力】を保持する反面、死を凌駕した化け物だった。  そんなカイと相反するように、もしくは番の絆のようにして、【対の鍵】が現れた。  王家の血を受け継ぐ人間の中に一人だけ、赤い瞳と、白銀に色を変える髪を持つ人間が存在するのだ。  そんな彼らは密やかに【対の鍵】と呼ばれ、代替わりを繰り返しながら、途切れることなくカイの傍らで生きてきた。  カイの血肉を喰らうことで、この【力】を受け継ぐことができる唯一の存在でありながら、ただ、カイに思い出だけを残して。  けれど一方で対の鍵達は、カイ自身の血液や体液を身体が求めるままに欲しがる。  定期的にある程度を摂取しなければ、己の命に関わると本能で知っているからだ。  それが不足して、意思を手放した対の鍵を知っている。  人を襲い始め、不意に正気に戻った彼らはそうして最後には懇願するのだ。  痩せこけて干からびた身体で「殺してくれ」と。  天寿をまっとうした対の鍵、事故に見せかけて殺された者、自ら命を絶った者。  そして懇願した者。  けれど誰もカイを喰らわなかった。だからまだ生きている。 *** 「カイ・シュヴァルツ。扉を開けろ」  久しぶりに自分の名を呼ぶ声を聞いたな、そう思ったカイは、作業机の上にやりかけの仕事を残し、扉を開く。  あることがきっかけで軟禁されていた生活から不意に開放されると、ある日、カイの元に見覚えのある一人の従者が家を尋ねてきた。  軟禁生活の間の世話と、ここにまた戻ってきた道すがらをカイに先導した従者だった。  夜の闇に溶け込むようにひっそりと、逃亡防止の為か、目隠しを施された小さな少年を引き連れている。  全身黒装束の脇に佇む、見るからに高貴な血筋だとわかる装いの小さな男の子。歳は七、八歳くらいだろうか。  痩せ細って筋張った手足と、暗がりに浮かぶ異常な白さの肌、そしてなにより、パサついて艶のない白銀の髪が、その身なりに反してなんだかやけにちぐはぐに見えた。  誰も言葉を発しないまま、従者が一歩下がって片膝をつく。彼によって少年の目隠しが音もなく外された時、カイには予想したような戸惑いはなかった。  ただ少しの痛みと懐かしさが過っただけだ。 「……あの子は逝ったのか」  誰に向けたものでもなかった言葉が、カイの口から零れ落ちた。  真っ直ぐにカイを見つめる赤い瞳(・・・)の色が、眩しくて、悲しいと思う。 彼女(・・)は死んだ。  誰に教わらなくとも、こうして新たな赤い瞳の人間を目の当たりにするたび、カイは理解してきた。  対の鍵が、彼女からこの男の子へ代替わりしたように、カイのそばにだけそうやって、繰り返し、対の鍵の面影が記憶の片隅に積もってきた。 「あなたにこの子の世話をしろとのご命令です」  微かな哀愁に浸る間もなく、従者が丁寧な物言いをして傅いた。  返事もせず、カイの方も小さく頭を下げる。  誰から、とも告げられず、こんな時にだけ恭しく頭を下げられたことが馬鹿らしかった。  この日初めて、カイはヴィンセントに出会った。 ***  黒装束の従者が来た時と同じに、まるで影のように姿を消すと、その場には表情もなく立ち尽くした少年とカイだけが残された。  外の静寂が、室内にいる二人の間を包み込むように広がり、カイは無言のまま少年を見下ろすと、改めてその様子を確かめ、気づかれない程度に小さく息を吐いた。  またおかしなことになったものだ、と内心で思う。  あの人――国の意志そのものである国王。今回の場合は、権力や地位を持った貴族の存在もあったかもしれないが――のすることにきっと意味なんてないのだろう。いつだってカイの預かり知らぬところで自分の運命は決まっていく。  カイや対の鍵に対する歴代国王の対応はまちまちで、時には非道でもあったが、今回の気まぐれも珍しいことではなかった。  特に対の鍵は、カイの力を受け継ぐことができるただ一人である為、保護を名目に、自分のそばに置かれることがたびたびあった。  実情は監視の目が行き届きやすく、カイたちの秘密を知る人間の数を減らせること、そしてなにより、対の鍵が他人を襲うようなことが起こって、()に関するあれこれが明るみにでることを恐れての処置だったのだろうけれど。  中にはカイ自身を気味悪がり長い間監禁する国王もいたが、とは言え今回のようにこんなに幼い子どもを相手に、共に生活をすることを命じられた機会はなかった。  一体どうしたものか、と思案する。  とにかく語りかけてみようか。それとも食事? そもそも名前すら聞いていなかった。 「名前は?」  カイは静かに語りかけ、頭を左側に傾げた。特別つっけんどんに言った訳ではないが、不意に落とされた声に少年は一瞬人間らしい警戒を滲ませた。  少年を見た限りで禁断症状による充血や、精神的な恐慌状態はみられない。いよいよ危機が近づいてくると、対の鍵は髪の色が白銀に抜け落ち、白目の部分が赤く充血して獣のようになるのだ。  その様子がないことからも、先代の鍵がいつ頃亡くなったのか定かではないが、定期的にカイの血液を少年は摂取していたのだろう。  国に提出している分の、既に自分の手を離れた血液の行方なんて全ては知らないが、そういうことだ。  カイは、代替わりの後にも彼を支えたであろう人物の影を見つけて少しだけ安堵する。  代替わりの直後は、己の変貌と心身の飢餓感で混乱する者も多い中、きっと大きな波乱があったはずだ。 「お前を今まで助けていたのは母親か? それとも父親?」  またしてもカイが唐突に尋ねた声で、傍らで宙をさ迷っていた瞳が一瞬少しだけ見開く。けれどすぐに視線は下げられた。 「……乳母が」 「乳母?」  その人は今どうしてる?  そう聞けたはずだが、今目の前に彼が居ることが全てなような気もした。  大きな渦に巻き込まれる小さな泡。小さな男の子。 「……俺は、カイだ。カイ・シュヴァルツ」 「…………ヴィ、ヴィンセント、シラーです」 「わかった。ヴィンセント、すぐに食事ができるから座っててくれ」  それきりカイは返事も待たず、食事の支度をするため、部屋の奥にある竈の前に立った。  ヴィンセント・シラー。  シラー家の息子となれば、同じ王宮に住まう三人の王位後継者候補の従兄弟ということだ。  じきに盛り付けも済ませたスープとパンを、傷がついて使い古されたテーブルに運ぶ。  脇にはヴィンセントがやはり俯いて立っていて、カイが手に持ったそれを置くと、微かな温かい空気と匂いが鼻を掠めた。 「俺の残りで悪いけど、とりあえず食事だ。食ってきてないんだろ?」 「……いりません」  ヴィンセントが、消え入りそうな声で答える。おおよそ察しがついていた返答に片膝をついたカイは、彼がここへ来て初めてその顔を覗き込んだ。  スープには、カイの血液を混ぜてある。トマトスープなので見た目は変わらないが、味は明らかに普通とは違うだろう。  けれど、ヴィンセントは残さず食べるはずだ。  カイの血液や体液は、鍵にとって極上のものであるらしい。過去、意図せず関係を持った対の鍵が、束の間の自由も与えずカイを好きにしたことがあるように、最初は違和感があっても、この子の意思にも関係なく身体は受け入れると思った。 「お前は自分の力をどのくらい知ってる?」 「力?」 「そうだ。髪の色は元々そうなのか? 瞳は?」  語りかけ、気を長くして相手がこちらに心を向けてくれるのを待った。焦らせて、変に警戒して欲しくなかった。 「お前の目が赤くなったのは俺のせいだと言ったら?」 「そうなんですか?」 「……そうだな。説明が難しいけど、俺の身体には訳あって特別(・・)な(・)魔術(・・)が施されてる。国を護れるくらいの大きい力だ……それで、他国の侵略や攻撃を阻む」  カイが滔々と説明すると、ヴィンセントがにわかに不安げな顔を滲ませた。 「……あなたは人を殺すの?」  不意に小さく落とされた言葉に、返って虚をつかれたのはカイの方だった。飾り気のない、真っ直ぐで、幼い問い。  指の先が痺れた。 「……俺は、……この力は、大きな嵐や酷い干ばつを和らげたりする。もし……他国から攻撃された時には、それを退けたりできる」  自分で説明していて、酷く心もとない言葉遣いになってしまった。  元を辿れば、この力に国を守るため、なんて大それた意味はなかったのだ。  過去結果的に国を護ってはきたが、魔術の域を大幅に凌駕するこれの使い道を、実のところカイも持て余していた。  そもそもこの力は、自らの運命に、ある時ぽんと落ちてきたものだ。  誰にも明かせないある事実(・・・・)を抱えて、あの男(・・・)の手によって。 「……だから、ええと……そうだな、俺はこの力のおかげで、もうずっと長いこと生きてる。この力を守っていける人と一緒にだ……お前は、俺の鍵になるんだ」 「鍵?」 「そうだよ。お前は、俺の力を受け継げる唯一なんだ。瞳や髪の色が変わったのもそのせいで……だから、俺を生かすための対の鍵だ」  ヴィンセントは、きっとカイの最後の言葉を正確には理解しなかっただろう。  ――だから俺を生かすための対の鍵だ。  そう言ったが、きっと不自然な言葉だった。  本当は、ヴィンセントはカイが死んだ時のために居る。  その力を受け継ぐため、カイを解放してくれるために。  けれど、ただ力を受け継ぐだけではなくて、カイはカイを覚えていてくれる人として、彼に存在してほしかった。  誰かの記憶ばかり自分の中に積もって、一方的に置いていかれるのではなく。  誰かの中で生きていたかった、今度こそ、どうか。  忘れないでほしい。 「生かすため……」  ヴィンセントは、その言葉を噛み締めるようにして呟き、カイが微笑んで見せると、こくん、と小さく頷いた。  テーブルの椅子を一つ引き、ゆっくりと腰掛ける。スープはもう冷めてしまっていた。 「お前みたいなのが、王族の中に絶対一人はいるんだ。お前の前にはオリビアという女性が居て、すごく素敵な人だった」  語りかけるように呟いて、今は亡き彼女を思う。  オリビアは、対の鍵である前にカイの友人になってくれた数少ない人だった。  国王の目が彼女に向いていると知りながら、カイは、政略的な後推しの流れを見て、彼女の恋を手助けした。  それが少しでも、オリビアの幸せに繋がるのならと思ったのだ。 「庭先で花を摘むのが好きで、特に、菫を見つけると嬉しそうに微笑むんだ。庭師がいる庭園には、もっと豪華で鮮やかな花もたくさん咲いてるのに……不思議だった」  そう言うと、彼女は言ったのだ。「私の瞳の色と一緒なの」と。  柔らかい陽射しのなか、視界いっぱいに美しい花がぱっと花開くような笑顔だった。  王族の血を引く人間は、淡い金色の髪か菫色の瞳のいずれか、もしくは両方を持って産まれてくる。それは血筋の証明であり、オリビアには本来なら瞳の色が受け継がれていたのだろう。  赤い瞳の彼女しか知らなかったカイは、その時、丁寧に梳(くしけず)られた菫色の混じる白銀の髪を見て、それと同化して輝く同じ色の瞳を思い描いた。  彼女は結婚して幸せになり、ひとときの安らぎを手にしたが、けれどそれを黙って見過ごしてくれるほど国王は甘くなかった。  権威筋の貴族や反対勢力の抵抗を押し切り、その後すぐに彼女を後宮に一時的に召し上げると、側室の地位も与えぬままに放り出したのだ。  対の鍵であったオリビアは表向きその異端の力を危ぶまれて隔離されると、カイ自身も彼女を手助けしたために軟禁された。  オリビアの様子は嘲笑に交じる噂話や、食事を運ぶ下男の口からでしか聞くことが出来なくなり、彼女が望まぬ出産をしたと知ったのも、ずっと後になってのことだ。  ――お前のおかげで、酷く不幸な子が産まれてきたなぁ。  暗闇の中で見た、そう言った王の顔をカイはきっと忘れない。 「その人は、僕が殺したんですか?」  不意に赤い瞳の視線が、カイを貫いた。  それが揺らめき、率直な言葉の中で、ヴィンセントが必死に不安を押しやろうとしていることがわかる。  カイは安易に何かの答えを与えてはいけない気がした。 「……なんでそう思う?」 「さっき、あなたは僕を見て、彼女が死んだと言ったでしょう」  言いづらそうに頭を下げた男の子が急にかわいそうに思えてならなかった。  白銀の髪が、痩せた手足が、赤い瞳が、安心(・・)を欲しがって叫び回っているように映る。  ヴィンセントの意思に関係なく、ヴィンセントはこういう自分を持て余してきっと傷つくのだ。これから。  この子はもう巻き込まれた。選ばれたのだ。その幼い身体で、過酷な運命を生きていけ、と。  カイは、咄嗟に抱きしめてやりたくなって、けれど、それを表には出せなかった。 「……なぁ、ここにはいっぱい本があるだろう」  問いの答えを与えなかったカイは、話を逸らすようにヴィンセントに語りかけた。  腰掛けた椅子を引き、横の壁一面を覆い尽くす本棚に視線を投げる。  ヴィンセントは、ただカイの言葉を一つも取りこぼさないようにと、縋るような瞳でこちらを見ていた。 「お前は力を得た。それが、お前の意思に関係なくてもだ……だから、考えるんだ。これから不用意に誰かを傷つけないためにも。ここの本ならどれを読んでもいいし、魔術のことなら、教えてやれる……助けてやる」  きっと、ヴィンセントが求めた言葉とは違っていただろう。  けれどどうしても言いたかった。  ――助けてあげるよ。  過去、「あの男」が言ったように、カイも助けてあげたいと思ったのだ。  選ばれてしまったから。カイのせいで巻き込んだから。だから助けてやりたかった。 ***  食事を済ませると、使っていなかった部屋を宛がって寝かせた。カイが居ない間放置されていた家は、ところどころまだ埃と黴の臭いが気になったけれど、突然のことだったので許してもらうことにした。  明日はまず部屋の掃除だ、と自分がいつになく、前向きなことを考えていることにはたと気がつく。  そもそも、後ろ向きだとか、前向きだとか、そういうことを考えたことがなかったのだ。  誰かがそばにいる日々は、生きて、生かされて、生活する、ということに直結するのかもしれない。  簡単に湯浴みを済ませてから一度寝室に引き上げたが、ヴィンセントが来たせいで途中になっていた仕事を思い出した。  積極的にやりたいとは思わなかったが、牢に居た時のように諾々と息をするよりかは、やることに追われている方が楽だ。そういう思考回路は惰性だとわかってはいても、なかなか直らない。  相手が強大だと、立ち向かう気も失せていく。相手の気分で牢に入ったかと思えば、下僕のように働かされたり、男娼まがいのこともした。  または気まぐれにこうして家を宛てがわれ、部屋の模様替えのように運命を定められては、誰かと出会い、別れさせられ、傷ついたりする。  そういうことに少しは慣れた。そういう惰性。  少しの間、机上の上の、原石のまま磨かれていない宝石のかけらを指先で転がしていた。灯した燭台に反射して、鮮やかな色で輝くそれらを見て、ふと、ヴィンセントはどうしただろう、と思う。  まさか、いびきでもかいて寝ているわけはないだろう。あの様子だと、そうであってくれたほうがよほど心配がないのだが。  布団にはだいぶ前にカイが編んだ薄い羊毛の一枚布を渡した。  当時の対の鍵が、そういう趣味にひととき熱心だったのだ。レースを編む人々の習慣を知って、自分もやってみたいとひっそりと告白したあの人も、わりあい変わった人だった。カイは横で、レースではなく羊毛を編み混んだのだが。  いまさらそんな物を使うとも思わず、むしろ残っていたことにも驚いたが、敷布として使っても上掛けに使っても問題ないはずだ。  けれどだいぶ古いものだし、やっぱりきちんと管理していなかったのできっと黴臭いだろう。  気になり出すと止まらず、指先が固まる。  ゆらゆらと揺れる赤や黄色、青に橙が混ざった絶妙な色彩を目に焼きつける。  寝ていたら出てくればいい。寝ていなくても、自分には関係ない。  よくわからない言い訳をし、カイは燭台を手に取った。手のひらに収まる量の宝石をポッケに無造作に詰める。  静かな足取りで部屋を抜け、狭く短い廊下を歩く。こういう時に限って靴の音が響いて聞こえるのだ。深夜だからだろうか。静寂が耳に痛いほどだった。  数歩も歩かないうちに目的の扉に辿り着くと、ノックもせずに、きぃ、と少しだけ開いた。隙間から覗く暗闇で、今日は月も出ていないのだとわかる。  せめて月明かりだけでも出ていればいい、そう思ったのに。 「眠れないのか」  自分の入れる分だけを開いて、後ろ手でしめる。  蝋燭の火で淡く照らすと、ヴィンセントは、寝台の上ではなく、部屋の隅の窓際に膝を抱えて座っていた。  豊かな暮らしをしてきた彼が、汚れた木の床に座り込み、何をするでもなく、ただ夜が明けるのを待っている。  それがカイには、同情を誘うものではなく、既視感に近い感覚を覚えさせた。  これは自分だ。  過去や今の、誰かの引力に呑まれて、思考もなく、絶望も希望もなく、ただ、そこにいるだけの。  なす術の無い自分自身。 「隣に寄ってもいいか」 「うん」  やっとか細い返事が聞こえて、カイは知らずに安堵していた。ヴィンセントの幼い口調に苦笑いする。命令を待つ忠犬のような、身の置き場がない様子がかわいそうに思え、小さく息を吐き、ゆったりとヴィンセントに近づいた。目の前ではなく、彼の横になる位置で腰を下ろし、同じ向きを向いて、同じ姿勢になる。 「夜は真っ暗になるだろう」 「うん」 「知ってたか?」 「……知らなかった」  きっとヴィンセントが居たのは、もっと違った世界だっただろう。  小さな灯が柔らかく灯されて、部屋の外に誰かの存在を感じる生活。温かい食事に、清潔な衣服、安心して休める家。  恋しいのか、それとも、もしかしたらカイが憎らしいのか。 「なぁ、憎らしいか?」  カイは俺が、ともその力が、とも言わなかった。  この期に及んで自分が疎まれているかもしれないのを、突きつけられるのは怖かった。  ただ、幸せな日常をある日突然奪われる理不尽を、ヴィンセントは誰かに…… カイにぶつけたいはずだとも思った。  「なにが?」 「なんでもいいよ。何かを恨みたくないのか?」  思いのほか優しい声が出て、ヴィンセントが少し驚いたことにまた苦笑した。  悩みに悩んで口を開いては閉じを何度か繰り返すと、小さな頭は俯いた。 「わからない。でも、悲しませた僕が悪いと思う」 「なぜ?」 「びっくりして、泣いてた。……お母様は、とても、悲しかったと思う」 「……だからそうしてるのか?」  そう問いかけると、ヴィンセントはまた少し間を開けて、「このほうが落ち着くから」と答えた。  小さくぎゅっと縮こまりながらそう呟いた声は、泣きそうでも、悲しそうでもなく、淡々としている。  カイも「そうか」とだけ返して、また浮かんだ問いは言葉にはしなかった。  身体を抱きしめて、戒めて、縛り付けるようにして。  ヴィンセントは、自分が怖いのだろうか。恐ろしくてたまらないのは、ヴィンセント自身なのか。  たった七、八歳に見えるこの子どもに何がわかるだろう。何をどのくらい理解して、傷ついただろう。  もしかしたら小さく縮こめた身体で守っているのは、自分ではないのかもしれない。  この子は、人の温かさを知っている。  人を傷つける痛みがわかる、優しくて弱い呪いの子。  カイは足を崩してから燭台をそっと床に置き、ポケットを漁った。  さっき適当に掴んだ宝石の欠片を取り出してパラパラと巻く。  壁や古い天井に、たわんで皺が寄った敷布の上、抱え込んだ足元。  それら一面に、宝石の様々な色が層を成し蝋燭の灯りを柔く反射させると、ヴィンセントは、わ、と今にも声がこぼれ落ちてしまいそうな幼い表情を見せた。  驚きと少しの好奇心で、上擦る呼吸が、心地好くカイの耳に届く。  じきにヴィンセントの髪も金色を取り戻すだろう。カイはふと、瞳の色は何色なのだろうかと思った。 「きれいだろ、周りが暗ければ暗いほど、よく見えるんだ」  指の先で小さな欠片を転がしながら、隣の体温を触れるぎりぎりの距離で感じていた。 *** 「じゃあミア、行ってくるな」 「はい、行ってらっしゃい」  カイは背後から聞こえた声で、屈みこんで熱心に草花の収集をしていた手を止めた。  傍らの編みかごいっぱいになった様子をチラと見てから、また何事もなかったかのように手を動かす。  前庭に植えた薬草を選別し、摘み取り、薬を調合するのに使うのだ。こういったものはわざわざ魔術に頼らなくとも、薬学の知識があれば日常に役立つ。  夏特有の強い朝日に照らされながら黙々と作業するのは意外と楽しい。  葉がギザギザでいい香りのするローゼムは虫除けに使えるし、小さな黄色の花をつけるフェリネラは、これから季節をすぎ秋になると種をつけるはずだ。それを粉末にして料理に加えたり、胃腸薬にもできる。  大木の木陰に上手く隠れながら、カイは後ろから近づく規則正しく草木を踏みしめる音に耳を傾ける。  ヴィンセントと初めて会ったあの日から、約十年の月日が過ぎていた。  ミアという少女を家に迎え、その後三人で生活するようになったカイたちは、それ以外に特別目立った出来事もなく、穏やかで静かな暮らしを送っていた。  騎士団候補生として、シラー家の嫡子の名で公の場にでるようになったヴィンセントもほぼ毎日こうして出かけて行く。  それを両親はあまりよく思わないようだったが、今のところ大きな問題もなく水面下の平穏は保たれていた。  王宮の奥深くで朽ちていくものと思っていたであろう息子が、見目麗しく精悍に育ち、戦術に長け、処世術を身につけた姿で現れて、複雑な立場を崩せないまま見守っているようだ。  今までにそれについてヴィンセントは話さなかったし、カイ自身も自分のことをあまり多くは語らないので相手の内心は計り知れないが。  鍵の力や、国がこれまで辿ってきた自分たちにまつわる歴史、カイのこと。  それについても一人で調べ続けているらしい。  けれど、古い本や過去の日記に頼る他ない不確かなものは、どれも多くの情報をもたらしはしなかっただろう。  そもそもカイがこんなふうになるきっかけになった()のことも、ほとんど記録には残っていないはずだ。  あの男は、日記の類も魔術についての覚書もなにもかもつけなかった。  カイがなにかを教わる時は教科書がない学びのせいでメモをとる必要があったので、まず字を書くことから覚えた。吸収したい知識は己で管理保管しろ、そういう態度だ。 「カイ、行ってきます」  そうこうしていれば、いくばくもしないうちに頭上から声が落ちてくる。  見なくても想像できる様子にあの時のような戸惑いはない。初めて軍服を来たヴィンセントを見た時には驚いたものだ。  ずいぶん大きくなったんだなぁと。 「ああ、気をつけていってこいよ」 「はい、夕刻には帰ります」 「わかった」 「ギルが飯を食って行きたいと言ってました」 「ああ」  いつものように答えると、一瞬の沈黙があった。何か忘れ物でもしたのか? そう思い頭を上げようとした瞬間、髪を指ですくわれる感触が身体に伝わった。  動きを止めて、ちら、と振り返る。 「きれいですね」 「……なにがだ」  カイは、上体を折って身をかがめたヴィンセントの視線に絡め取られた。  その瞳に、幼い頃の漠然とした不安のような心もとない色はなく、大人になりきる前の、可能性を秘め、戸惑いを残した少し尖った空気と、カイを慈しむ愛情が混じる。  淡い金髪の煌めきと、しなやかに発達を続ける身体。  本当に、長い間を過ごした。 「やっとこっち見た」 「……何をおおげさに」  髪をすり抜けていく指と、ちょうどよく吹いた風に煽られ、カイはわかりやすくため息をついた。 「早く行けよ」 「はい、行ってきます」 「ああ」 「帰ったらそれ、手伝います」 「いいよ、夕刻には終わってる」 「そうですか」  でも、残しておいてくださいよ、俺のやることも。  そう言い置いてヴィンセントは林の奥に消えていった。  カイはこの日のことをよく覚えている。  これらの不確かで酷く幸せだった日々が変わったのは、あの出来事がきっかけだった。 ***  ドンドンドンドン、という忙しない音を立てた扉が返事をする間もなく開いたのは、ミアが夕餉の支度をしている最中のことだった。  カイは仕事机の上に広げた書きかけの書類もそのままに、咄嗟に腰を上げる。振り向きざま視界に飛び込んだ光景を目の当たりにし、一瞬、何が起きたのかわからなかった。  戸口に立つギルバートは煤だらけで、同じように全身を煤で汚し、肩から胸元に向かって大量の血を滴らせたヴィンセントの腕を支えている。 「カイさん!……ヴィンスがっ」 「……っ!」  堅苦しく、寡黙なギルバートが、公の場では決して口にしない愛称でヴィンセントの名を叫んだ。  勢いのまま一方踏み出そうとして、小さく呻いたヴィンセントの足が縺れるようになり、身体ごと上体が傾ぐ。  慌てて駆け寄ったカイが咄嗟に触れるのを戸惑うと、ギルバートが悔しさを滲ませながら小さく声を震わせた。 「カイさん……ヴィンスが……城下で起こった火事に巻き込まれて……子どもを助けようとしたんです。警備隊だけでは手に負えず、駆り出されて」  聞いた途端、ばかやろう!と口汚い言葉が身体中駆け巡り、心臓が大きく脈打った。  けれどそのどれもが声にならず、ただ戸惑いと焦燥で目の前の光景がぐらりと揺らぐ。  瞬時に、今朝方見たヴィンセントの姿が脳裏を過ぎった。  淡い髪色が白くなりつつある。苦しげに歪む顔に、充血し始めた瞳が焦点を合わせずカイを捉えた。 「っ……!」  カイは、ただぐっと喉がつまり、まったく思考が回らなかった。  混乱に陥った足元に力が入らない。  けれどそんな状態に陥ったカイの冷静さを取り戻させたのは、「ヴィー!」と小さく悲鳴を上げて近寄ったミアの声だった。 「ミア! 危ないから離れろ!」 「やだ! ヴィー! ヴィーが!」 「ミア!!」  ギルバートが必死にミアを庇い、ミアが、その腕の上からヴィンセントの身体に必死に縋りついている。  その様子を見て、カイはもう、何も言葉に出来なかった。  咄嗟にミアの腕を掴み、振り返らせる。  涙を浮かべた瞳がカイを一心に見上げた。 「……大丈夫だ」  一言だけ発すると、ギルバートは、ハッと息を飲んだようにカイを見つめた。 「カイさん……」 「どうにかする」  絶対に。  声は震えなかった。 ***  小さく呻くヴィンセントを、慎重に支えて歩かせる。とっくの昔にカイの背を超えたことは知っていたが、改めてその逞しくなった身体に内心少しだけ臆して、しかし片腕を肩に回させると、自分もろとも倒れてしまわないように気をつけながらゆっくりと寝室に向かった。  後を慎重に追ってくるミアを部屋の前で制し、盥に水を汲んで、清潔な頭巾を持ってくるように指示し、ヴィンセントを寝台に腰掛けさせる。  じきに指示したものを用意したミアに、大丈夫だ、とふたたび念を押して扉を閉めた。  後ろ手にそこに背中を付け、少し離れた場所から注意深く声をかける。 「ヴィンセント、大丈夫か」 「……っ」  ヴィンセントの肩が揺れ、まだ意識があることはわかった。  けれど小さく呻いただけで、顔をあげない様子を判断しきれずにカイはぎゅっと拳を握りしめる。  まだ大人になりきらない成長過程での怪我は、ただでさえ消耗の激しい対の鍵にとって命取りになる。身体への損害。それを取り戻すように、身のうちに眠る本能がヴィンセントの意思に関係なく暴走を始めるはずだ。  本来なら、傷の手当と充分な血液の補充でどうにかなる。  けれど今すぐに必要なのは、血液だ。  カイの血、血肉、命。  覚悟を決めると、ゆっくりと近づきながら声をかけ続けた。 「血を流しただろう。目が回ってないか? ……ヴィンス、痛かったな。俺の、声が聞こえるか、ヴィンセント」  ヴィー。  そう語りかけ、両膝をついて蹲るように座り込む相手を見下ろした。 「ヴィー、俺を見てくれ」  流れ続ける血が、じわじわと寝台の敷布に赤い染みを広げていく。  カイがまた口を開きかけたその時だった。 「…………さわらないでください」  消え入りそうな声音で、酷く苦しそうなヴィンセントの声が聞こえる。  カイは咄嗟に喉をつまらせた。  たまらない。たまらなかった。カイは耐えきれない。  ぎゅっと一度握った手のひらを、相手の頭上でゆっくりと開き、そっと髪に触れようとする。  その瞬間、反射的な動きで退いたヴィンセントの腕に、カイの手のひらは叩き落とされた。 「やめろ!!」  加減できず拒絶したヴィンセントの方が痛い顔をしていた。  咄嗟に立ち上がりボタボタと床に血液が滴る中、深く傷ついた表情でやっとカイを正面から見据えた瞳は、もう真っ赤に染っている。  カイは不意に、民衆の間で読まれる絵本の中の、血を啜る怪物を思い出した。  全身を黒い闇に包んで、眼光だけを赤く鋭く尖らせる化け物。  あの化け物は傷ついていただろうか。 「俺が、……お前を殺してやると思ったのか?」  立ち上がり傍へ寄ったカイが微笑めば、ヴィンセントは驚き、そしてまたたくまにその表情を苦痛に歪めた。  逞しく立派に育った身体をこれでもかと震わせて、混乱の中を立ち竦んでいる。 「俺はお前を殺してやれないよ、ヴィンセント」  怪物にはさせない。俺が。  その言葉と同時に、肩を力任せに掴まれると、壁際に勢いよく叩きつけられた。  後ろからギリギリと襟元を掴まれ、その背に縋るように額を押し付けられる。 「ここに来たのが間違いだった…!!」  喉を潰すような咆哮は、むしろ泣き出しそうに思えた。踵が浮き、固い板に強かに打ち付けた頬が痛かった。 「カイ!!」  違うよ。 「間違いじゃない」  間違いじゃない。  あの時も、今日も。  骨と筋張った手足が痛々しかったあの頃。  それが潤いに満ち、しなやかに成長した姿が誇らしかった。  ヴィンセント。  ヴィンセント・シラー。  ――どうかこの呪われた日々を少しでも幸せに。  ――どうか限りある天寿を全うできますように。 「ヴィンス、お前がここに来てくれて、俺は嬉しい」  瞬間、がつん、と首元に衝撃があると、そこが一気に熱くなった。皮膚に食い込む歯の感触と、それを楽しむような肉をざりざりと揉まれる痛み。  指先が勝手に痙攣し壁板を掻くのを、強い指に絡め取られて縫い付けられる。  ず、じゅる、という音を聞きながら、角度を変え、貪られるまま、肩越しにヴィンセントの髪が頬を撫でていくのを見ていた。  数日後、血液だけを大量に奪われて部屋で一人目を覚ました時の静寂を、カイは忘れられない。

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