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第三章

翡翠をみやげにヴィンセントらが帰還した数日後、居間の小さな窓から朝の明るい陽射しが差し込む中、カイはいつも通り仕事机に向かっていた。  朝食後に、カップの中身がなくなったのでそろそろおかわりでも頼もうか、そう思っていると、鼻腔を甘い蜜の香りが掠める。  青い原石を眺めていた拡大鏡をことりと置き振り返ると、そこにはほくほくと色艶よく仕上がったクルミの蜜がけを皿に携えたミアが立っていた。 「美味そうだな」 「残ってたクルミを見つけちゃったんですよね」  いたずらを見つかった時のような嬉しそうな微笑みを浮かべて、ミアがそれを机の上に置くと、小さな丸椅子を両手に抱えて持ってくる。  掃除の時や、なにか高い位置にあるものをとる時に使っているものだ。  仕事机に向かうは高さは足りないが、そこにちょこんと腰掛ける。  自分たちで賄えない分の食料や生活用品は、基本的に見張り役の従者が定期的に届けてくれる。顔を合わせない為にか、夜の間に置いていかれるそれを大事にやりくりしてくれるミアだが、この椅子は確かミアが小さな頃にカイが手作りしてやったものだ。 「またそんなふうに座って」 「いいじゃないですか、お茶の時間はこうやって適当にやるのが楽しいんです」 「行儀悪いだろ」 「いいんですよ。それよりもカイ、これを渡しておこうと思って」  仰々しく皿の上に両手を翳して差し出されたのは、黒い手袋だ。  窘めつつさっそくクルミの一粒に手をつけようとしていたのを引っ込め、カイは一度ミアを見やり、ゆっくりと受け取った。 「手袋? たくさんあるのに」  上等な絹で誂えられた艶のある黒い布地。  飾りはなく、ちょうどカイの手の大きさくらいにぴったりではあったが、こんなものを日常からつけていたら気になってろくに仕事ができない。 「ミア、嬉しいけど上等過ぎて使いづらい」 「これはヴィンセントからですよ。おみやげのかわりなんだそうです」 「は? あいつが持ってきたのか?」  驚いた声を上げると、ミアのゆっくりした頷きが返ってくる。  まさかカイの手の怪我をそんなに気にしていたとは思わなかった。  それともたまの気まぐれだろうか。  カイはヴィンセントの顔を一瞬思い浮かべてすぐに打ち消した。 「……あいつが、みやげのかわりになんて言うかよ」 「言わないけど、わかるでしょう?」  わかるけれど。カイには痛いほどわかるだけに、一見すると冷たいような一歩引いた態度を取りながら、自分に向けられるひたむきな愛情を後ろめたく感じてしまう。  じりじりとした気持ちで手元のそれを検分するように片手ですくい上げると、ミアはくすくすと笑った。 「ヴィンスはカイが大好きですよね」 「なんでお前が嬉しそうなんだ」 「だって、幸せだなって思って。嬉しいですよ、たまにしか顔は見られないけど」  ミアはひょい、とクルミを摘んで美味しそうに食べた。  その顔を見て、カイは思い出の中にいる彼女(・・)を思い出す。  ミアと同じ、菫色の美しい人。  ミアと初めて会ったのは、ミアが本当に幼く、まだ言葉もたどたどしい頃のことだった。  魔法使いさま、と言った声は震えていて、カイは、儚く消え入りそうな希望を託された気がして、どうしても、その存在を振り払えなかったのだ。  ――まほうつかいさま?  ――魔法使いじゃない、魔導師だ。魔法使いは、自然の持つネルギーを、精霊と契約して超自然的現象を起こす。魔導師は、化学を基本にしてるんだ。薬学の知識もいる。知識や技術を積めばある程度は誰でも魔術を使うことができるし、同じことをするにしてもそのプロセスは違う。  ずらずらと並べ立てた言葉を、きっとミアはほとんど理解しなかっただろう。  いつだったか聞いた通りの答えを、まさか自分が同じように誰かに伝えるなんて思いもしなかった。  カイは、魔法使いになりたかった男を知っている。  魔導師で、けれど魔法も使えた男の名前。  本当は、【あの榛色の彼女】のためだけに魔法を使いたかったであろう彼の名前は。 「まどうし……」 「カイでいい」 「かいさま?」 「そうだ」  視線を合わせて片膝をつくと、ミアが見上げていた視線を戻してきょとん、とする。 「お前は?」 「私? ミアだよ」 「ミア?」  ――ミア。  ――私の天使。  その名前を聞いた途端に、不意に涙が込み上げた。  私の天使。  そう意味を持って、幸せを祈り、名付けられた目の前の女の子がとても愛おしく思えてならなかった。  ――お前のおかげで、酷く不幸な子が産まれてきたなぁ。  暗闇の中で見た、そう言った王の顔をカイはきっと忘れない。忘れられないからこそ、目の前の奇跡が本当に宝物のように思えた。  カイはミアの両手を掴み、ぎゅ、と額に引き寄せると、身体を震わせて小さくミアの名前を呼んだ。  あなたは、この子をちゃんと愛していた。  愛していたんだな、オリビア。 *** 「そう言えば、こないだのあれは結局しまってあるのか?」  クルミを齧りながらぽつぽつと何気ない談笑をしていて、カイはふと話題にあがったヴィンセントのみやげを思い出した。  翡翠の原石を、ミアはカイの為に使おうと目論んでいるようだったが、できればよその価値をきちんと理解して発揮できるミアに使ってもらいたい。  魔術の食料だなどと内心思っている輩が使っていいものではない、そうわかってはいる。 「こないだのあれ?」 「翡翠だよ。ヴィンセントが持ってきただろ。櫛は直したのか?」 「ああ、翡翠ですか、そうですねぇ。櫛は直してないんですけど」  思った通り、ミアが曖昧な言い方で答えを濁す。カイはわかりやすく窘めるような神妙な顔つきを作った。 「ミア……あれはミアがもらったんだからちゃんと使えよ。せっかく可愛らしく育ったんだ、服に縫いつけるとか……ああ、髪飾りでもいいかもな」  そう言いながらミアの三つ編みの先をひょいと摘み、お伺いを立ててみる。  ヴィンセントもミアも、とても立派に育ったが、変なところで頑固なのだ。それを発揮するのがカイ自身についてのことであったりするので、余計に手が負えない。 「わかってますよ、もう。使いますよ。カイってほんとに人たらしなんだから。でも、迷ってるんですよね。どうしようかなぁ……」 「何にそんなに迷ってるんだ。他に欲しい石があるのか?」 「ほら、そういうことをカイもヴィンスもすぐ言うんですから。やめてください。強欲な女みたいに聞こえるじゃないですか」  では一体、なにをそんなに迷っているのか。怪訝な表情が表に出たらしく、ミアはふぅ、と小さくため息をついた。 「エリアス様に会うでしょう。非公式と言ったって、一応は高貴な方との謁見ですよ。毎回同じトガで出かけるんだもの。飾りくらい、縫い付けたらいいかなと思ったんです」  定期的に血液を提出しているカイが、最近はその度に相手の元へ出向くことになっており、ミアはそのことを言っているらしい。  今までの全てのやり取りは、見張り役の従者がその殆どを仲介していたが、今回のように稀ではあるが外を出歩くこともある。  もちろん人通りの少ない場所を通り、王宮の中央までは足を踏み入れることはない。けれど人目に触れる機会に慣れていないカイにとっては、何となくだが毎回緊張を強いられるので、トガは他の従僕に紛れられてとてもいいのだが。  そもそもどんな思惑から、そのエリアスが自分に会いたがるのかわからないし、そのたびごとに顔を合わせなければならない顔を想像して、カイは少し憂鬱な気分になる。  エリアス・エンデ・ハインリヒ。  口調が柔らかく、スマートな立ち居振る舞い。妾腹の庶子で王位継承第三位にありながら、今は他の王子の追随を許さない男だ。  ミアはそれを知ってか知らずか、変に気を使っているらしい。 「エリアス様はそういうこと、気になさらないんですか? やっぱりなにか、失礼があったらいけないじゃないですか。私のほうがびくびくしちゃう」  早口になりながら結局俯いたミアを見て、カイはため息を零す。余計な心配を、と思う一方でこの話の終着点を考えると分が悪いからだ。  カイは最後にクルミを二粒手に取ると、もう片方の手でミアの髪をくしゃりと撫でる。 「そんなの考えなくていい。お前の為に使えよ? わかったな」  そう言って立ち上がると、ミアは納得がいかないと言うふうに頬をふくらませた。じきに、べ、と舌を出して一緒に席を立ち、皿を片すために消えていく。  あの顔はやらかすな。カイは過去、ミアが自分の言いつけを守らなかった時の顔を思い出して、小さく息を吐き出した。

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