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第四章
自室の窓から昼に近付きつつある景色を見るともなしに眺めていたカイは、素っ気なく視線を室内に戻した。
血液の提出の為に今日は午後から外出の予定になっているので、そろそろ支度を始めなくてはならない。
だが動き出そうとしたその身体が不意に止まると、カイの頭にはぼんやりとヴィンセントの姿が思い浮かんだ。
最後に会ったのは、庭先でリリーとひと悶着あった数週間前だ。その数日後に手袋を受け取ったまま、まだきちんと礼も言えていなかった。
ヴィンセントは、日々忙しく公務に当たり、ときには各所の視察兼、鎮圧にと働き通しているらしい。
国王有する正規軍は、王族の身辺や後宮に限った警備の近衛兵部隊と、王宮内全般の治安の維持、国土全域に渡る厄災、暴動の鎮圧に当たる騎士兵団、城下街の警備にあたる警備隊に分かれている。
だが、そもそも戦力が乏しく小さい国であるセレンでは、軍のあり方が形骸的だ。位階を授けられた官職クラスの者の多くは、ほぼ隠居している高齢である為、ヴィンセントのような下っ端が小隊を率いて矢面に立つ場面が増えているのだ。
とは言え王族の血を引く貴族の嫡男であり、王位後継者の従兄弟に当たるヴィンセントが、多少の優遇もされることなくこうも忙しなくしているのは、対の鍵の能力として身体能力が高いことを買われている他にも、理由がありそうではあるのだが。
どうせ、忙しくしていたほうが余計なことは考えなくていい、くらいに思っているのだろう。
カイは知らずため息を零し、髪を掻き上げた。
便りがないことはいいことだとわかってはいたし、ヴィンセントは例の件 があってからは、カイが国に提出した分の血を貰い受けているので、体調は自分で管理するだろう。けれど、あの時見た、白く薄まった髪が気にかかっていた。
少尉という立場で所属、指揮する第六兵団だけを率いることもあるようだが、場合によっては複数の小騎士兵団部隊が合流し、大規模な人数で現地に赴くこともあるらしい。より大勢の前でもしものことがあったらと心配するのは、カイの余計なお世話だろうか。
小騎士兵団部隊は、騎士兵団を二十に小団体に分割したもので、一個体に約百七十〜二百の騎士が所属している。少なくとも、五百を超える人間がいる中で失態を犯したらと思うと気が気ではなかった。
普段騎士として身を置くヴィンセントは、王家の血筋だということを秘匿しておらず、制限はあるものの、全ての生活の自由を奪われている訳ではない。
赤い瞳は珍しいが、そもそもカイの存在自体が民衆に知られていない以上、対の鍵の存在、力についても同じことだ。それなりの地位にある血統の者を生涯軟禁したり、世間から隔離するのは難しいからだ。
ヴィンセントは専属の家庭教師や剣の師を迎えることはできなかったが、表向き自らが自らを高めるのに制約は掛からなかった。
さらに言うなら、ヴィンセントのような鍵の存在は産まれ持ってその身体能力と頭脳指数がずば抜けている。能力を持ちすぎると危険分子として目をつけられるが、国を滅ぼしかねない呪いの子と揶揄されながら、どちらかと言えば、その能力は大きな権力にいつの時代も利用されてきた。
だからこそ、今の自由を大事にしてほしいとカイは思うのだ。
国はより緊張を強いられた状況にある。
約百五十年前に起きた、国境沿いの村の権利を争い、セレンのものとなった元アルテリア領を巡り続いている小さな諍い。
それが今も頻繁に起こり、最近の慌ただしい情勢もそのせいではないかと噂されている。
さらに、現国王の病状の悪化もそれに拍車をかけ、公にはされていないが、数年前から肺を患っている国王と、それに伴う王位継承問題、貴族間の権力争い、それらが複雑に絡み合い、他国に攻め入られる隙を作っているようだった。
カイの知る限りではこうも頻繁に騎士兵団が王城を空けることはめずらしく、国境のあちこちで隣国とのトラブルが絶たない現状、いつ、どうなるのかが全くわからない。
そもそも大きな戦力を保持しないセレンは足元を見られやすいのだ。自国の民が決起するのも時間の問題かもしれなかった。
国の真意はカイの計り知れないところにあるにせよ、カイの心配は、もう一方、王位第一後継者候補のエリアスにもある。
彼が沈黙を貫いていること、そして今、この時期にカイに近づいたこと。
セレンの王になる男と、呪いの子。
「呪いの子か……」
カイは、ぽつりと呟くと、今朝ミアが湯気を当てながら冷やした銅板でシワを取り除いてくれた真新しい衣裳をさらりとなでる。
カイを殺せる唯一、国の護りを破る呪いの子。
そう疎まれ続けたヴィンセントと従兄弟同士のエリアスは、歳が近いこともあり、度々顔を合わせる機会があったらしかった。
二人の男が、どんな思いで自分の傍に居るのかはわからない。策略と裏切り、野心と見栄、それから。どこかに向かう愛情。
付かず離れずのその距離は、ピンと張った糸がある時弾けてしまうように、途切れる瞬間を待ち望んでいるようにも思える。
「…………いや、考えても意味がない」
カイが考えても仕方がない。
頭を振り、文机の脇に吊るされた衣裳をカイは手にとった。
長いことぼんやりしてしまい、エリアスとの約束の時間が差し迫っていた。彼に何かの意図があるにせよ、一介の魔導師であるカイに今出来ることはエリアスの元へ遅れずに行くことくらいだ。
あれだけ言ったのに、ミアはあの翡翠を結局この衣装の装飾として使ってくれたらしい。しかも今回は神官にでも扮していけということか、立襟の白い上下と、さらにローブまで用意してくれていた。
肩をするりと撫でる柔らかい感触に小さく苦笑いが漏れる。肌に触れる布地がひやりとして心地よかった。
襟と袖、それにフードの縁と裾周りに一周。
個々の刺繍や装飾が施されたそれらの部分もミアの手製で、他の衣にや雑貨にも、彼女は細々(こまごま)と手作業を欠かさない。
現国王は噂の病を理由にからか、少しずつエリアスに公務の一部を移行しつつあり、少し前に見張り役の従者が彼のそれに変わったことから多少の融通がきくようになった。
街の行商に定期的に刺繍を入れた小物や服を売りに出して、必要最低限の人との関わりの中、小遣いを少しずつ貯めているらしい。
とは言え本来ならば、ミアは王族の一端として、それなりの自由と豊かな愛情を手に入れられたと言うのに、カイが関わったせいでしなくてもいい苦労をさせてしまったような気がして、少しだけ心苦しく、同時に、それでも優しくたおやかに育った彼女を思って安堵する。
それは、カイにとって大きな救いだ。
カイは最後に、大きなフードを目深にかぶると、胸元の一番上だけを紐で結び、一瞬の戸惑いに指先を止め、その後、机上の手袋をはめる。
手のひらにしっとりと馴染み、寸分の隙もなくカイを導き守るであろうそれを伴って、ぎゅっと一度拳を握り締めた。
***
しばらく天井の高い外廊下を歩きながら、神官の姿勢とは、といったあてのないことを考える。決して目立たず、けれど礼節も弁え、清潔感を忘れず、人の見本になるような振る舞い。
慣れない外出による緊張感、それと、近頃の寝不足のせいでろくなことに思考が働かない。
誰のせい、とは言わないが変にそれが続いている理由は自分でもわかっている。
風にはためいた白い様相に、思い出すのは同じ白の騎士兵団服だった。
何にも染まらない潔癖さとあの優しさ。
様々な物が混じりあってしまった自分には無い色合いだ。
カイがつらつらとそんなことを思っていると、不意に視界の端に人の気配を感じて足を緩めた。
綺麗に整えられた中庭の木漏れ日を浴びるように、見覚えのある背中と、繊細なレースに似合う淡い色合いのドレスを着た女性が並んで歩いている。
ふんだんに使われた布地に嫌味はなく、麗しく艶やかさを兼ね備えた女性と、あれは、白い背中。今の今まで考えていた男の後ろ姿だった。
ヴィンセントが端正な表情で何事かを話すと、隣の女性が、背中まで落ちる緩いカーブの髪を揺らし、顔をあげて小さく笑った。
カイは知らず立ち止まり、ただその光景を一時傍観する。
守られているような気がして、身につけていたかった手袋。気恥ずかしさや、後ろめたさよりも抗い難くてはめて来てしまったが、今さらになってそれをやけに意識した。
ヴィンセントはきっと、近いうちに変わる。変わっていくだろう。
王家の血を引き、容姿端麗であり、身体能力、頭脳指数も申し分ない。反面、危うい秘密を抱えた彼らは、軍で飼い慣らされるか、もしくは今のように、美しく同程度の地位にある女性を娶らされ政治的に使われることも多かった。
国にとってヴィンセントは、一生涯監視すべき対象でありながら、何かの問題が起きた時にはその身を真っ先に裂かれる捨て駒だ。
けれど、そこにヴィンセントの意思が加わればどうだろうか。
好きな女性と、添い遂げられる幸福。
カイを置いて、ヴィンセントはいくだろうか。
カイは素っ気なく視線を逸らし、その馬鹿らしさに小さく嘆息した。
今目の前で示されているように、誰がどう見てもお似合いの二人に見える後ろ姿に、文句を言う者はいない。
ヴィンセントが気まぐれに抱く女の想像はできるのに、決まった女性に寄り添う優しい背中を今までまったく考えなかったことが愚かしかった。
歩きだし、白く明るい陽射しの影になった道を足早に歩いていく。
変わらないものなんてない。カイが変われないだけで。
建物に沿った真っ直ぐな箇所を抜け途中何度か角を曲がると、そうこうしているうちに目的の場所に近づいてくる。
自分が暮らす家と同じ敷地内(と言っても広大だが)にあるとは思えない宮廷内部は、幾何学と蔓草の彫りが白い壁を繊細に彩り、職人が手作業で敷き詰めた石畳の回廊が延々と続いている。
さり、さり、という足音だけが響く中、ちょうどそのあたりに、ふわふわとした綿毛のような触感を感じて視線を落とした。
「リリー、来たのか」
にゃぁん、と甘えた声で答えたのは、長毛を惜しげも無く足首に擦り寄せ、立派な尾をふるりと震わせた猫だった。
毛がついてしまうので抱き上げてはやれないが、足に絡まりながらカイの歩みにについてくる。
「すまないが、今は無理だぞ。ミアのところに行ってくれ」
「つれないのね、カイ。寂しそうだったからついてきてあげたのに」
声に驚いて立ち止まると、直前まで猫だったはずのリリーが腰をくねっとくねらせて佇んでいた。
髪をなびかせ、微笑みながらカイをじっと見つめている。
「いきなり人型にならないでくれ」
一応、トガを身につけているが、こいつのたびたびの変貌はどういう仕組みになっているのだろう。
狼狽しながら髪を掻き上げる。
化け猫だから、なんでもありなのだろうか。
「なんでもってことはないよ」
「…………人の思考を読むな」
「顔に書いてあるんだもの」
くすくすと笑って、リリーが肩にしなだれかかってきた。不思議と重みがないのも、なんでもありのなせることなのか。
止められた歩みを再開しても、その体勢のままついてくるので歩きづらかった。
「ヴィンセントは、意外とモテるわよね」
「……見てたのか」
「お昼寝していたら見えたのよ。木の上は気持ちいいから」
言いながら、カイの顔を覗き込むようにしたリリーが、回した腕にそっと力を込めた。足を浮かせ、覆い被さるようにしてカイの様子を窺うように。
「何が言いたいんだ、リリー」
あんな姿にいちいち動揺して、もしかしたら傷ついているかもしれないカイのことを、慰めにきたとでも言うのだろうか。
絶対に自分のものにはならない腕に縋りたいなんて、馬鹿げてると。
「別に……本当のことを言いにきただけよ。ヴィンセントだってもう子どもじゃない。……わかるでしょう? あの子は知恵(・・)も力(・)もつけた」
「わかってる」
「わかってない。あの子はもうカイの手を離れた。違う?」
そう言ったリリーの言葉は残酷で、けれど誰も否定できない事実だった。
カイはやっとの思いでリリーを睨むと、ぽい、と投げ捨てるようにその腕を解いて彼女から逃れる。
後ろで、にゃぁ、という小さな非難めいた声が聞こえた。
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