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第五章
通常エリアスとの拝謁を許されるのは、宮廷内にある彼の豪奢な執務殿とは別の、ごく側近くの者の出入りしか許されていない個人的な宮殿だった。
同じ宮廷の外れにあるそれは、規模こそ本執務殿に劣るが、品のある調度品や佇まいはさすがとしか言いようがない。
滑らかに磨きあげられた乳白色の床に、洗練された彫りの見事な装飾が織り成す石の壁、高い天井と、同じく白を基調とした家具の数々。
職人が一から仕立てた異国の敷物は、カイが見てきたどんなものよりも美しく、それらを目にするたび、カイの緊張はいつも最高潮に達する。
けれどそれは普段目にしないものへの心地良い羨望からではなく、この先に居るであろう男、エリアス・エンデ・ハインリヒに対する警戒からくるものだった。
カイは、指先に全ての神経を集中させると、少しの戸惑いを残しながら目の前の扉を控えめにノックした。
「ああ、久しぶりだね」
エリアス・エンデ・ハインリヒは、外を眺めていた視線をこちらに戻し、振り向きざまに小さな笑みを浮かべた。
艶がある薄い金色の髪を背の半ば辺りまで緩く結き、後れ毛を気だるげに掻き上げる仕草はまさに王さながらの威厳に満ちている。
透き通る蒼い瞳は研ぎ澄まされ、その端正な顔立ちは、一見全てを見透かされているかのように冷たかった。
「ご無沙汰しています、殿下」
「うん、なかなか君に会えないから嬉しいよ。楽しみにしてたんだ」
「恐れ入ります」
「あはは、君は相変わらずつれないな」
エリアスは言いながら、視線を脇にある執務机に下げると、つ、と指先でそれを撫でる。
逆光のせいで長い睫毛が影になり、髪の先と青白磁 色の衣の縁が煌めいて、エリアスを余計に特別なもののように映した。
全体的に余裕のあるチュニックを金細工でできたベルトで腰に一度纏め、脛あたりまでドレープ状に流した装いは普段使いのものだろう。大きめに開いた胸元と、襞になった足元、さらに動くたび揺れるラッパ状の袖の先には青と銀の刺繍が施されている。
「それとも、君がいつもつれないのには別に理由があるのかな」
「え?」
見慣れない空間とエリアスの佇まいに、うっかり一瞬気を散らしていたカイは、不意の問いかけに咄嗟に詰まった。
王妃陛下の嫡男である病弱な第一王子と、奔放で問題が絶えない第二妃殿下の庶子にあたる第二王子、彼らの陰に隠れ息を潜めるように着々とその足元を固めつつある同じ庶子のエリアス。
一見してただの優男にしか見えない目の前の男が、机を回り込み行儀悪くそこへ寄りかかるようにして、カイのほんの数歩先で首を傾げる。
「もしかして緊張してる?」
「…………それは、……緊張はします。こういう場所には慣れていないので」
「そうか。でもあれ? わからなかった? この王宮内全般、ベルナイツ の建築様式を模してるんだよ」
その国の名前を聞いて、カイはしどろもどろに逸らしていた視線をはたと上げた。
ずいぶん、懐かしい響きを聞いた気がしたのだ。
昔、色々な国について話してくれたあの男 の故郷。
カイにとっては、そういう郷愁と呼べるものはないのだが。
「……ベルナイツですか? それは、知りませんでした」
「そうなんだ。てっきり、懐かしいかと思ってわざわざ呼びつけていたんだけど」
「俺……私には故郷はありません。あちこちを転々としていたので」
「そうか。今はもっぱら隠遁生活だけどね?」
揶揄されるように言われ、カイはせっかく上げていた顔を逸らした。
こういう時、なんて回答すれば正解なのかがエリアスを相手にするとわからない。
だいたい、指示だけ出して椅子にふんぞり返っている上官の相手の方がよっぽど気が楽だ。世間話をしに来た訳でもないのに、こうして変にエリアスはカイと交友らしきものを図ろうとする。
「……ありがたく、思ってはいます。ミアにも良くしてくださって」
「ああ、別にいいよ、そういうのは。僕が君に会いたいんだし」
カイが渾身の返しをやっとの思いで口にするも、エリアスはそれをさらりと受け流してしまう。
視線逸らし、扉付近に待機している従者に指先で合図すると、その男が音もなく近づいてきた。
浅黒い肌に、黄金に近い瞳と、短く切りそろえられた黒曜石のような髪。
ノアと呼ばれるこの男の顔下半分はいつも黒く透ける紗衣 で覆われており表情はほとんどわからない。
立襟のある全身黒い服は、刺繍などの目立つものはなく、襟と袖だけに天鵞絨 地で出来た同色のパイピングが施されていた。どこかの民族衣装なのか、大腿の部分は動きやすく余裕を持ち、膝からしたは絞られている。
いずれにせよ、全身が黒一色の様相は少しばかり異様だ。闇には紛れられても、陽の当たる日中は物珍しさ目立つ。
「さて、今回も持ってきてくれたかな」
エリアスがカイの視線を遮るように穏やかに声を落とした。
従者を呼んだということはやっと無駄話を終える気になったのだろう。カイはその黒装束に目を奪われながら、言葉通りに所持してきたものを、ローブの袖にしまった小袋から取り出す。
空気に触れて凝固しないように特殊な加工を施した筒状のガラス瓶の中で、それが、たぷりと揺れた。
定期的に提出しているカイの血液サンプルだ。
ノアに差し出された四角いトレイにそれをことん、と静かに預けると、影が伸びるように男は下がり、エリアスの横にそれを置いた。
「いつみてもまんま血液だな。なんだか生々しいね」
一人軽口を叩いて、ひょいとその中の一本を眼前に翳す。ゆらゆらと揺れる赤い液体をじっくり眺めてから、柔らかい微笑みをカイに向けた。
「今回もありがとう。君の力に国は支えられている」
カイはそれをじ、と見返すと、小さく頭を横に振る。謝辞に対する謙遜をそれだけですませても、エリアスに窘められたことはない。
いずれにせよ初めてあったその時に、「堅苦しい話し方はやめてくれ」と言われていたので多少それに甘えていた。
ともかく、カイがするべきことは終わった。用事の済んだこの空間から早々に辞すべく頭を下げかけると、またも、エリアスがカイの思惑を遮った。
「そう言えば、ヴィンセントに縁談の話があるんだろう? あんなに格好良いんだから驚きはしないけど、聞いたところ相手のお嬢さんも素敵な令嬢らしいじゃないか」
「は? 縁談ですか?」
「うん、国は今混乱しているし……いい機会じゃやないかな」
そう言われても、カイの同意を得るように話をされると、そもそもそれ自体寝耳に水だったことが言いづらかった。
やはり、先ほど見たあの後ろ姿も、特別珍しい景色ではなかったのだ。
エリアスはカイの心情を試すように、小さな微笑みを崩さずに続けた。
「あの子はモテるからね。今回の令嬢が駄目でも、すぐに次があるよ」
「……そうですね、シラー家の嫡子としても騎士兵団部隊少尉としても、国王の名誉になれるよう、努力するはずです」
「ふふ、百点の解答だな。だったら君も覚悟はしているんだ?」
「?……どういう意味ですか」
ヴィンセントの立場を思い、話を合わせたカイは、エリアスの言葉に結局翻弄されるように眉根を寄せた。
意味深に見つめられ、その鋭さに一瞬背筋がぞわりと冷える。
「彼を、本当に戦場に向かわせるのか、もしくは結婚させて政治の駒にするのか……国は、好きなだけ彼を使うつもりだよ? それとも君が、それを阻止するのかな」
「……は?」
「僕はどんな結末 でもかまわないけれど、いずれにせよ、ヴィンセントの立場は弱いだろう? 後ろ盾が欲しくない?」
それは、カイがもしもエリアスの言うことを聞くならば、ヴィンセントには手出ししない、そういう脅迫だろうか。
エリアスには多大な力がある。病床の国王の隙をつき、カイの力やヴィンセントの運命を左右することは造作もないことだろう。
そしてカイの弱みがヴィンセントであると、エリアスは気がついているのだ。
だからこそ、その権力や地位をより強固にする為に自分たちを利用したい。
エリアスがカイに近づいたそんな思惑が不意に透けて見えて、カイはくだらない妄想を口走る相手を見据えた。
「……あなたが、何をどう考えているのかわかりませんが、俺の力はそう扱いやすいものじゃありません。そもそも俺だって使いこなせてない。不確定な魔術だ」
「ずいぶん弱気だね。ずっと国を護ってきたんだろう? もっと自信を持てよ」
「なんと言われようと、殿下の思うようにはなりませんよ」
カイが言下に切り捨てると、エリアスは一瞬虚をつかれたようにきょとんとして、次の瞬間声をあげて笑った。
国を護る力は、たとえ今までは護りに徹してきた消極的なものであっても強大で、威力がある。人を簡単に従わせるには効果的なはずだ。
そしてカイ自身を手中に納めたなら、カイの血液から、その力の何もかもを手にできる。
それだけに、誰か一人がそれを占有していいものではないと、エリアスの企みの一端もわからなくても「できない」と言い切ったカイに、エリアスは額に手のひらを当て肩を震わせた。
「あははは、……ああ、君らしいね。ごめんごめん。話が飛躍したな。そうだね……君の扱い方も考えなければいけないな」
目尻に涙を溜め、人好きのする笑みを浮かべながらカイを覗き込むようにしたエリアスの瞳を、けれどカイはまるで温度がない硝子玉のように感じていた。
まるで見えない刃を喉元に突きつけられているように感じ、この男は危険だと、身の裡 がひしひしと訴える。
「そんなに警戒しなくていいよ。僕だって別に、そんなにだいそれたことを考えているわけじゃないし」
不意に緊張の空気をがらりと変えたのは、エリアスのそんな一言だった。
何気ない動きでそっとカイに近寄ると、カイより頭一つ分は大きな上背を屈め、衣に縫い付けられた胸元の飾りにそっと触れた。
「これ、……何かと思っていたら、翡翠なんだね。君が装飾のある服を身につけているのは珍しいだろう。彼女が縫ったの?」
指先で弄び、立襟の縁からカイの髪をそっと撫で上げる仕草は嫌味を感じさせない。いたく丁寧な動きで離れていった身体を、カイは小さく吐き出した息とともに眺めた。
「……そうです。あの子は手先が器用なので。最近は、あなたのおかげで自分が刺したものを誰かに手に取ってもらえる機会ができて嬉しいと、いつも喜んでいます」
「そうか、役に立てたようでなによりだ。ふふ、君のそばにいる子たちは、皆いい子ばかりだね」
カイは当たり障りのないよう、エリアスが行商とミアの関わりを許可してくれたことを匂わせたが、エリアスの含みのあるものいいがなんとなく神経を逆撫でた。
いつまでたっても的を射ない会話は、カイをただ消耗させ、けれどいつだってこの男は自分を中々解放しない。
一体何が言いたいのか、と視線だけで先を促した。
「……やだな、ちょっとくらい付き合ってくれてもいいじゃないか」
はぁ、とわかりやすく苦笑され、エリアスは小さなため息とともに人払いのように手首を一振りする。
絡んでくるわりには、こうして簡単に解放もする男の得体が知れなかった。
だがせっかく頂いた気まぐれを無下にするのは惜しく、カイは、じ、と一瞬見つめたあとぺこりと頭を下げる。
踵を返しドアまで向かうと、黄金色の瞳を持つ従者がカイを一瞥もせずその脇に立っていた。
まるで闇夜と月のような男だ。
傍をすり抜け、扉の取手に手をかけた時だった。
「ノアの瞳は綺麗だろう」
突然の声に、カイはハッとなって振り返った。
蒼い双眸が、カイを冷たく射抜いている。
「ヴィンセント・シラーの瞳は何色かな?」
その言葉を爆弾のように落とされて、急に足元がぐらりと揺れた気がした。
対の鍵はその役目を終えると、髪と瞳の色も本来の色彩を取り戻す。
先ほどまでの言動と言い、カイの気持ちをわかっていて試すような態度が気に食わなかった。
「…………なぜ、俺がベルナイツの出身だと?」
やられっぱなしではない、と示した言葉に、エリアスはやはり真剣な眼差しを崩さず、口元だけで微笑んだ。
カイはそれを苦々しく一瞥し、今度は振り返りもせずその場を後にする。
無心に少しの間歩き続け、自分の衣擦れの音がやけに大きく感じてそれを緩めると、気がつけば既に陽は傾きかけていた。
人気のない外廊下を来た時と真逆に進みながら、知らずに握り締めた指先で、急に黒い手袋の感触を思い知る。
ギリ、と噛み締めた口から行儀の悪い音が漏れ、カイは乱暴に口元を拭った。
あの男が自分について下調べしないはずはないとわかってはいた。国の重要機密に触れるのだ、慎重にもなるだろう。
けれど、予想に反してエリアスは相当カイのことを熟知していた。
――ヴィンセント・シラーの瞳は何色かな?
対の鍵が本来の瞳を取り戻す時、カイか、もしくはヴィンセントの命が尽きる。
その時は力を受け継いで変異した見た目が戻るか、自分の寿命を全うするかのどちらかだからだ。
ヴィンセントが力を受け継いでカイを死なせるようなことになるのか、それともカイがヴィンセントに幸せな人生を歩ませるのか。
あれは、牽制だ。
あれは、自分がどう動けばいいのかよく考えろ、というエリアスの言外の意思表示だった。
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